この国の最高権力者は内閣総理大臣(首相)だろう。その権力者がわずか764人の投票で決められ、その選挙資格が「自民党に党費を納めた人」であることは国民の一人として釈然としないが、この国の統治ステムが議員内閣制である以上、多数党の党首が首相になることにモンクの付けようがない。せめて民主主義の基本ルールをわきまえた最適任者を選んでほしいが、ドロドロの「党内事情」で「何でこの人が…」になったケースが少なくなかったように思われる。この記事を書いた時点で(9/28)次の首相が誰になるか不明だが、はたして「釈然とする」だろうか?

小生が「ものごころ」ついて以降の歴代首相のリストを作ってみた。その時代を思い出すためにその頃の出来事と、自分が何をしていたか併記した。(総裁選:×=無投票 〇=決選投票で勝利 △=決選投票で対立候補が辞退)

首相 在任期間
(年は下2桁)
就任時
年齢
在籍期間 党派 自民党
総裁選
出来事 小生の出来事
(写真遍歴の記事)
吉田 茂 48/10~54/12 70歳 6年2ヶ月 自由党 講和条約、日米安保 小学生    (遍歴-1
鳩山一郎 54/12~56/12 71歳 2年 民主党 保守合同で自民党結成 中学生
石橋湛山 56/12~57/2 72歳 2ヶ月 自民党 (病気にため辞任)  
岸 信介 57/2~60/7 60歳 3年5ヶ月 60年安保改定 高校生→大学生
池田勇人 60/7~64/11 60歳 4年4ヵ月 所得倍増、東京五輪 大学生→社会人
佐藤栄作 64/11~72/7 63歳 7年8ヶ月 沖縄返還、月面着陸、大阪万博 工場勤務   (遍歴-2
田中角栄 72/7~74/12 53歳 2年5ヶ月 列島改造、ロッキード事件 北米営業
三木武夫 74/12~76/12 67歳 2年 × 第1次オイルショック   〃
福田赴夫 76/12~78/12 71歳 2年 × 第2次オイルショック、円高   〃  
大平正芳 78/12~80/6 68歳 1年6ヶ月   カナダ駐在
鈴木善幸 80/6~82/11 69歳 2年4ヶ月 ×     〃
中曽根康弘 82/11~87/11 64歳 5年 筑波万博、国鉄・NTT民営化 米国駐在   (遍歴-3
竹下 登 87/11~89/6 63歳 1年7ヶ月 × ふるさと創生、昭和→平成 北米事業支援
宇野宗佑 89/6~89/8 66歳 2ヶ月 × (スキャンダルで辞任)   〃
海部俊樹 89/8~91/11 58歳 2年3ヶ月 ベルリン壁崩壊 米国駐在   (遍歴-4
宮沢喜一 91//11~93/5 72歳 1年6ヶ月 バブル崩壊   〃
細川護熙 93/5~94/4 55歳 9ヶ月 日本新党   EU発足   〃
羽田 孜 94/4~94/6 58歳 2ヶ月 新生党   (連立瓦解で辞任)   〃
村山富市 94/6~96/1 70歳 1年7ヶ月 社自さ   阪神淡路大震災   〃  → 国内事業
橋本龍太郎 96/1~98/7 58歳 2年6ヶ月 自民党 小選挙区制移行、銀行破綻 友山クラブ入会(遍歴-5
小渕恵三 98/7~00/4 61歳 1年6ヶ月   大阪勤務   (遍歴-6
森 喜朗 00/4~01/4 62際 1年1ヶ月 ×          (遍歴-7
小泉純一郎 01/4~06/9 59歳 5年5ヶ月 米国多発テロ、郵政民営化 バヌアツ(遍歴-8 -9
安部晋三 06/9~07/9 52歳 1年   完全リタイア (遍歴-10
福田康夫 07/9~08/9 71歳 1年 リーマンショック  
麻生太郎 08/9~09/9 68歳 1年   百名山完登
鳩山由紀夫 09/9~10/6 62歳 9ヶ月 民主党      
管 直人 10/6~11/9 63歳 1年3ヶ月   東北大震災・原発事故        (遍歴-11
野田佳彦 11/9~12/12 54歳 1年3ヵ月     TMB
安部晋三 12/12~20/9 63歳 7年9ヶ月 自民党 平成→令和         (遍歴-12)
菅 義偉 20/9~21/9 72歳 1年 新型コロナ  

小生如きが一国の首相の品定めをするのは不遜と承知の上だが、リストを眺めると、好き嫌いは別にして、30人の歴代首相の中で「存在感」を感じる人物は数名しかいない。「存在感」はリーダーとして構想を公にして実行力を発揮したという意味で、副作用の方が強かった首相もいるが、とにかく一定の支持のもとに一時期「国を動かした」という実感がある。数名の他に「志」を示しながら退陣を余儀なくされた首相が居ないわけではないが、何もせずに短命で消えた首相が多いような気がする。

時の「運・不運」はある。大震災・原発事故やコロナにぶつかれば、誰が首相でも国民の不安・不満の矛先になる。その意味で二人の「菅首相」は「貧乏クジ」かもしれない。逆に、NY株が上がると日本株もつられて上がり、いかにも景気良さそうに見える。それを「手前ノミクス」の成果と自我自賛した首相は、窮地に追いつめられるとオナカが痛くなって辞めるクセがあり(病人を揶揄するつもりはないがそう見える)、辞めるとすぐ治ってまたやりたそうな顔をするが、在任期間は長くても「国を動かした」より「壊した」実感の方が強い。

権力の頂点に登り詰めた人たちゆえ、どの首相も能力の高い人に違いないが、「人格」を伴わない「能力」が世に災厄をもたらすことは、歴史に傷跡を残した東西の「英雄」を思い起こすまでもない。唐突に「人格」を持ち出したが、要するに深い「教養」(知識ではない)に裏打ちされた「想像力」が働く人で、「謙虚さ・品格」と言い換えても良い。権力者に謙虚など無用と言われるかもしれないが、謙虚を忘れて「検挙」された大物もいる。

謙虚は丁寧語を使うことではない。何事にも真摯で、相手の立場に敬意を払い、聞くべきは聞き、採り入れるべきは採り入れ、自分に厳しく、非があれば潔く正すことで、社会人は謙虚でなければ信を得られず、経営者が信を失えば座も財も失う。政治家の多くは選挙の時は謙虚のフリをするが、念頭にあるのは後援会だけで、「国民」に謙虚を誓っているわけではない。だから選挙が終われば「謙虚」も終わる。

選挙は選挙民が自分の意見や利益を代弁する政治家を選ぶシステムだから、政治家が後援会のウケを狙うのは分かるが、国会議員になったら「国家公務員」で、国民全体のために働く義務がある。「大臣」は国民のための「行政機関」を指揮する責任者で、その任命権は首相に集中している。その最高権力者が「人格」を欠けば、人格のない大臣が任命され、そんな大臣に仕える役人は国民を侮ることになる。

ダメな政治家を排除する手段として、昨今は「世論調査」がモノを言うようになった。内閣支持率が下がると政界がザワつき、大臣の首が飛んだり首相が降板に追い込まれたりする。たった1500人程度のサンプル調査が1億人の有権者の「世論」を正しく反映しているのか、統計学を知らぬ小生は理解が及ばぬが、世論で政治が動くことが悪いとは言えない。だが、その世論がメディアが流す情報で形成されるとしたら、今度はメディアの「人格」を問わねばならない。昨今のメディアは「極論、曲論、フェイク、その他何でもアリ」で、良識代表のような顔をしてデタラメを語る役者もいるから、油断もスキもならない。面倒な世の中になったものだが、「人格」を基準にダメなものはダメと見抜くしかない。


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オジサンの近隣デビュー

「公園デビュー」というものがあると聞く。新米のお母さんが近隣のお母さんたちのコミュニティに入れてもらうことを言うらしい。オジサンにも近隣デビューの場が有った方が良い。現役時代の会社員は郊外の家から都心の会社に早朝に出勤して深夜まで帰らず、単身赴任もある。小生はご近所の皆さんの顔も名前も知らなかった。リタイアしても元同僚とのゴルフや飲み会には参加するが、地域の催しには足が向かない。そんな状態だから、会社OBの集まりが自然消滅すると、家でゴロゴロするだけの「粗大ゴミ」になりかねない。

拙宅は常磐線沿線に1985年前後に販売された1650戸の建売住宅の1軒で、1度目の駐在から帰国して半年後の86年秋に入居し、子供2人と小生の両親の3世代6人が暮らした。購入時に営業マンが言った「住民の4割が海外駐在経験者」はセールストークと聞き流したが、それに近いと後に知った。つまり住民の大半が同年代の似たような会社員の世帯で、世帯主はほぼ同時期に「粗大ゴミ予備軍」になる。小生は会社員を終えてからJICAのボランテイアでバヌアツで2年暮らしたので、「住所一定・無職」になったのは2006年10月で、65歳になっていた。

入居当初6人だった家族は、両親が他界し子供も独立して夫婦2人になった。他の住民も同様で、8千人いた団地の人口は半分以下に減り、ス―パーは早々と撤退、16軒あった商店街がシャッター街になったのは市場経済の法則どおりで、バスの便数が減り、銀行の出張所が閉鎖、ATMも撤去され、最寄り駅から3kmの陸の孤島に巨大な「都市圏限界集落」が生まれつつあった。自治会は危機感を持っていたが、住民が自分にふりかかる状況を切実に実感するまで動けない。

そんな時に先ず動いたのが女性のボランティアチームだった。2005年に有志が資金を集めてシャッター街の1室を借り上げ、年輩者が集まっておしゃべりを楽しむ喫茶室を開設し、奥さん達がボランティアで店のスタッフを務めた。小生のつれあいも近所の友達に声をかけられ、仲間に入って当番を引き受けていた。

我々の日本百名山が「婦唱夫随」で始まったことは「遍歴-5」に書いたが、小生の「近隣デビュー」も婦唱夫随だった。つれあいが喫茶室でベテラン扱いになり、12年頃から裏方の仕事が小生に回るようになったのだ。行事やメニューの写真撮影、POP制作(右)、事務管理のパソコン仕事、備品の通販購入や修理などで、特技は要らないが、工夫やアプリの習得が要ることもあって、それなりにやりがいがあった。頼まれたらすぐやるので重宝がられ、女性ばかりのボランティア懇親会にも呼ばれて「用務員です」と自己紹介した。

喫茶室の壁面が住民の各種作品の展示に使われる。写真が趣味と知られて小生にも出番が与えられ「個展」の場が出来た。友山クラブの写真展に出した作品を中心に構成したり(右)、季節感のある写真を求められてA3プリントを並べたりしている内に、出展作品をテーマにした「トークショー」の企画が持ちあがり、パワポのスライドで百名山や海外旅行の話をした。図に乗って「デジカメ講座」の講師を務めたりもしたので、小生のカオが少し知られて街頭で話しかけられたりするが、顔と名前を覚えるのが不得意で受け答えがトンチンカンになることが多い。

喫茶室に少し遅れて始まった活動がある。2012年に自治会が東京大学で高齢化社会の街作りを研究する先生の協力を得て住民アンケートを実施、それを基に「高齢化社会協働促進プラットフォーム作り」が提起され、「ワークショップ」の参加募集があった。構えはいかめしいが、要するに高齢化が進む地域で住民が生きがいを持ち、お互いに助け合うコミュニティ作りの模索である。たたき台に米国ボストン郊外と三鷹市の「コミュニティ・ビジネス」の先例が紹介された。住民の日々の暮らしの中で自分では出来ないことを、近隣の住民が「有償ボランティア」として助ける仕組みだ。業態は「便利屋さん」になるが、基本はご近所の助け合いで、お礼の気遣いの代わりに少額の手間賃を払う。ゴミ当番代行、庭の草むしり・水やり、庭木の手入れ、DIY家具組立て、家具移動、パソコン相談など、やれそうなことがたくさん挙がった。

経緯を省くが、ワークショップに最後まで参加した26名で12年秋に「ビレジサポート」(以下VS)を立ち上げ、13年にNPO法人化し、400名近い会員を擁するまでに発展した。現在の活動はVSのホームページと最新の広報誌(21/8)でご覧いただきたい。

小生は当初から庭木剪定グループに所属している。1650戸の建売住宅は緑豊かな環境が売り物で、全戸の庭に芝生と樹木を植えた状態で販売され、その維持管理を義務付ける「緑化協定」加盟が入居の条件になっていた。自分で庭仕事を出来ない人は植木屋に頼むが、安くはない。年金生活になれば負担が重くなり、放置する人が増えれば街並みが乱れて資産価値が低下する。気軽に頼めて低料金の剪定サービスを提供すれば団地の環境保全に貢献できると考えた。

剪定はただ切ればいいというものではない。樹木の特性を理解し、切る枝・残す枝を考え、器具を正しく使うだけでなく美的センスも要る。庭園管理士の先生を呼んで1週間の公開講習を開くと30人ほど集まり、大半が剪定スタッフに加わった。先生に実作業に入ってもらい、現場で実技指導を受けながらプロの知識と技術を身につけた。全員が高齢の住民なので、午前中の2時間半で作業が終わるように、6~8名が手分けして20本前後の庭木剪定と除草作業をする。脚立から転落したりチャ毒蛾にやられたりしたが、懲りずに続けてきた。

作業者は現役時代にしかるべき組織でそれなりの地位にあった人たちだが、「昔のことを語らない」のが暗黙のルールで、元〇×長も元×〇役も脚立に乗って黙々と剪定鋏をふるい、地面にはいつくばって草をむしり、軽トラでゴミ処理場を往復し、お客様に頭を下げて料金を頂戴する。時給はブラック職場並みだが、お客様が「きれいになった、ありがとう」と言ってくれれば嬉しく、額に汗して稼いだおカネの重みを改めて実感する。

剪定作業の副産物があった。始めて間もない頃、玄関脇の植込みの刈り込み作業中に誤って門灯の電源ケーブルを切断した。簡単に修復できたが「資格のある人がやって!」と叱られ、電気屋さんに再修理してもらった。それならと一念発起して「第二種電気工事士」の免許に挑戦することにした。高校までラジオいじりをしていたので電気器具の修理は出来たが、国家資格となると専門知識と技能が必要で、通信教育を受講した。

文系には電気理論がキビシイ。オームの法則は思い出したが交流理論の三角関数にマイッタ。配線器具の名称や規格を覚えなければいけない。配線図を読んで実際のケーブルや器具の布線図に展開するのは楽しい作業だが、ケーブルの被覆の剥き方や接続に厳しい基準がある。実技試験で45分の制限時間内に布線図を書いて部材を誤りなく組み立てなければならず、通信教育にはその訓練もある。試験は県単位で年2回あり、工業大学を借りて行われた学科試験は1千人余の受験者がいた。幕張メッセを埋めた600人の実技試験は壮観だったが、たぶん小生が最年長だったと思う。合格して免許をもらっても3年以上の現場経験がないと営業できないので「ペーパー工事士」だが、VSで電気関連の案件があれば道具箱を下げて出動している。

VSでは剪定と電気関連の実作業の他に「広報」の実務も承っている。ホームページの制作・運用(日常の更新は後進に引き継いだ)、広報誌の編集、イベント時の写真撮影が仕事で、幟り旗やステッカー類のデザイン・ネット発注も小生に回って来る。小生は当初から「作業者」に徹して運営管理には距離を置いてきた。管理職は不得意と自覚し、職人に憧れる気分がある。「名人」を目指すには手遅れだが、お世辞でも「上手いね」と言ってもらうのは嬉しいものだ。

剪定作業は人海戦術でやる。(左の幟り旗は小生の作品) 元×長も元×役も植木職人になった。
商店街でクリスマスイベント。電飾の配線監修が小生の仕事。 喫茶室で年2回のジャズコンサート(コロナで休演中)。ポスター、チケット制作、写真撮影が小生の仕事。

2012年12月~13年1月 ヒマラヤ ゴーキョピーク(5360m) トレッキング

16年ぶりにヒマラヤに行く決心をした。初回(1996年11月)はヘリとタクシーで撮影ポイントを回ったが、楽をして撮った写真はそれだけのもので、少し苦労して山の懐に入らなければ心に響く写真は撮れないと悟った。どうせなら世界一のエベレスト(8848m)を近くで撮りたい。エベレストから直線距離20kmのゴーキョピークが絶好の展望ポイントとして知られ、シロウトでも往復2週間のトレッキングで行ける。

標高5360mのゴーキョピークは気圧(=酸素)が平地の半分しかない。それまでは「夫婦で山歩き」が原則だったが、2500mで必ず高度障害が起きるつれあいは5千mと聞いただけで拒絶反応が起き、小生単独になった。高所(4千m以上)のツアー参加は指定された高所医療専門医(少ない)の診断書提出が求められる。精密検査でOKは出たが、成人病予備軍と診断された。冬山の本格装備は不要だが、それなりの防寒衣料が要る。山中の2週間は風呂に入れず洗濯もできないので、着回しを考えながら帽子から靴下まで最小限の買い物をする。それまでの山歩きはカメラ+万能ズームレンズ1本で済ませたが、ヒマラヤを撮るとなるとありったけの撮影機材(レンズ5本+三脚)を持ち歩くことになり、一式を詰め込む大型カメラザックが要る。ロッジに電源がないので電池の予備を買い増したり、あれやこれやで12月20日の出発直前まで走り回った。

トレッキング出発地のルクラから先は「大名旅行」で、荷物は隊のポーターが担ぎ、身の回り品(撮影機材、雨具、水)も個人ポーターが背負うので、本人はカラ身で歩けば良い。食事は同行のコックがロッジの調理場を借りて日本人の口に合った食事を三食整えてくれる。石油コンロ・燃料・鍋釜から食器まで運び、沢で水を汲んでポリタンクで調理場に運ぶスタッフも同行する。安い人件費を利した「にわか大名」に人民搾取の後ろめたさはあるが、彼等にとっては有難い現金収入で、誠心誠意働いてくれる。宿泊はロッジの2人部屋を一人で使い、ツアー会社が用意した高所用の寝袋をポーターが運んでくれる。部屋に暖房はないが、寝る前に水枕転用の湯たんぽをもらって足元に入れれば朝まで暖かい。

高度順応は1日に登る標高差700m以内が望ましいとされる。起点のルクラ(2840m)からゴーキョピーク(5360m)まで標高差は2520mで、4日でOKのところを我々は8日かけて登る。1日の行動時間は2~4時間で、朝8時に出発して昼前に次のロッジに着く。部屋でゴロゴロ寝ていては高度順応にならず、ロッジ周辺を歩きまわるように言われるが、昼間はゴロゴロで過ごし、朝夕だけ三脚とカメラをポーターに持たせて撮影に出かける。

コロナ禍でパルスオキシメーターが知られたが、高所登山では以前から必需品で、添乗員が持参して朝夕2回測定する。平地で90%を切ると酸素吸入だが、高所登山では80%以上あれば「調子イイですね」と言われ、70%でも平気な人がいて個人差がある。深呼吸して上がらなければ要注意で、咳が止まらなければアシスタントガイドを付けて下山させる。小生は順調に順応できたらしく83%以上を維持したが、念のため4千m以上で高山病予防薬のダイアモックスを服用した。

12月30日 10:30、ゴーキョピーク登頂。エベレスト山頂の雲がどいてくれないが、8千m峰のチョオユー、ローツエ、マカルーはじめクーンブ地域の名峰を一望できた。高所は体力を消耗するので山頂滞在を1時間で切り上げ、下り始めたところでエベレスト山頂の雲が薄くなり、かろうじて世界の最高点をとらえることができた。

トレッキングの詳細はゴーキョピークトレッキング その1 、その2 をご覧ください。

3日目朝 ナムチェバザールを出発 キャンヅマの手前でエベレストの頭が見えた。右はローツエ
3日目キャンヅマ(3550m)に早着、ロッジ前でくつろく。 ロッジは2人部屋でベッドがあるだけ。
4日目、モンラのロッジ前でタムセルク(6608m)を撮る。 午後のアマダブラム(6856m)もご機嫌
食事の道具一式を背負って登るキッチンスタッフ トレッカーの荷物や隊の装備を背負うポーター
6日目 ドーレからマッチェルモ(4410m)へ。川が凍り始めた。 7日目 マッチェルモ連泊で高度順応。エベレストが見えた。
8日目 最奥のゴーキョに到着。正面はチョ・オユ―(8188m) 左の岩山が目的地のゴーキョピーク(5360m)
9日目、ゴーキョピークに登る ゴーキョピーク

12月31日、ゴーキョからレンジョ峠(5345m)を越えて西側の谷を下る予定だったが、天候悪化のため峠越えを断念、往路を標高3640mのポルツエタンガまで一気に下った。ロッジに着いてベッドに倒れ込むと猛烈な下痢と嘔吐に襲われ、大晦日のビール乾杯どころでなくなった。登りの高度順応は順調だったが、10日間に及ぶ高所での行動で体力が消耗して消化器官が機能停止したのだろう。翌日の元旦にお雑煮を作ってくれたが体が受け付けず、次の泊地のクムジュンに息も絶え絶えでたどりついた。

クムジュンに近いエベレストが見える丘(標高3880m)にホテルがある。宮原巍氏が一念発起して建設、1973年に開業した本格的なホテルで、1月2日の宿泊と料理を楽しみにしていたが、せっかくのおせち料理もダメ。絶食が3日続き、この状態でルクラまで2日間歩く自信がなく、ホテルからヘリで下山。カトマンズで2日静養するとウソのように回復して市内観光も出来た。この顛末はゴーキョピークトレッキング その3(カトマンズ)に記した。

12日目、ホテルエベレストビューからの眺め 標高3800mのホテルの客室
15日目、やっと回復してカトマンズ市内へ カトマンズの肉屋

2013年9月 友山クラブ写真展 「ヒマラヤ天望」 

ゴーキョピークで撮った3点を出展。山頂滞在は10時半から1時間だけで、川口先生にそう報告すると「夜明け前に登って陽が沈むまで撮るのが写真家の常識」と叱られた。1時間で140コマ撮ったが、雲の具合や光の当たり方に変化がなく、似たような写真ばかりでは「根性が足りない」と言われても仕方がない。

「チョモランマに天の潮騒」 Nikon D-300S、24-120mm
エベレストは前山に遮られて頭しか見えない。下山しかけると山頂を覆っていた雲が薄くなった。

「豪峯ギャチュンカン」 Nikon D-300S、24-120mm
氷河の最奥に聳えるギャチュンカン(7952m)は存在感がある(長野県山岳協会が1964年に初登頂)

「チョラツェ、タウチェとゴジュンバ氷河」 Nikon D-300S、24-120mm
氷河の末端に位置する2座は6千m級だが個性派。池の左にゴーキョのロッジ群が見える。


2016年11月 友山クラブ写真展 「ヒマラヤ、輝きへの巡礼」 

2016年7月に雨季を承知でゴーキョに再挑戦、一味違うヒマラヤを撮るつもりだったが、全く山が見えず空振りに終わった(雨季のヒマラヤ-1)。やむなく2013年のツアーで撮った作品を引っ張り出したが、「個性的な山のポートレート」の趣になって、これはこれで…と自賛。川口先生にお任せした作品タイトルは少々面はゆいが…

「タムセルク」(6608m)」 Nikon D-300s、24-120mm 
キャンズマのロッジ前から日没前の美女峰を撮った。

「チョ・オユ―」(8201m) Nikon D-300S、18-200mm
マッチェルモのロッジ裏の丘に登って日没直前の雄峰をねらった。

「チョラツェ」(6440m) Nikon D-300s、24-120mm
ゴーキョのロッジで早い夕食を済ませてモレーン(氷河堆丘)に登り、
落日を浴びて大見栄を切る名優を狙った。 肩に漂う雲と左下の白い峰がアクセントになった。


2013年5月 大津波被災地を訪れる

2011年の3.11をインドのダージリンで知ったことは前号に書いた。大災害を知りながら旅を続けたことに加え、ボランテイアらしいこともせずに過ごしたことを後ろめたく思っていたが、米国在住の娘の一時帰国を機会に被災地を訪れ、わずかなおカネを現地に落して償うことにした。

津波の威力は想像を絶する。万年単位の地球にとっては脈拍が1回打つ程度の営みだが、その時そこに居合わせた生き物にとっては抗いようがない災厄になる。だが、その記憶が残るのはせいぜい2世代で、人が暮らしやすい海岸の平地はまた生活の場に還るだろう。東北大震災の「復興」に使われた国家予算は40兆円と言われるが、大規模な土木工事を見ると「またゼネコンにしてやられた!」の実感が先に立つ。被災者の生活再建に使われた税金はその数分の一だろう。 

大津波被災地を訪ねて

南三陸町で多数の殉職者を出した防災庁舎 気仙沼の国道脇に座礁した漁船

2013年 山歩き

2013年の山歩きは11月のアンナプルナ・トレッキングを意識して少し頑張った。

☆6月26日~28日 北岳: 日本第二の高峰北岳(3192m)の山頂直下にだけ自生する「キタダケソウ」は6月下旬の数日しか咲かない。登山口の広河原行きバスの運航初日に出かけ、花の終りにどうにか間に合った。

☆7月22日~25日 南アルプス荒川三山: 2007年8月に登山ツアーで縦走したが、台風接近の荒天で楽しい登山ではなく、登り直した。山域の山小屋は山麓の森林を管理する製紙会社の財団が経営しているが、キレイで食事も悪くない。

☆9月6日~7日 木曽御嶽: 高所訓練のつもりで山頂直下の小屋に一泊した。1年後(2014年9月27日)に御嶽が噴火、噴火の規模としては大きいと言えないが、我々が歩き回った山頂周辺が火山灰に埋まって63名が死亡した。他人事とは思えない。

☆10月13日~15日 霞沢岳: 現在の大正池側から上高地へのアクセスは大正13年以降で、それまでは島々から歩いて徳本峠(とくごうとうげ)から上高地に入った。峠に残る当時の山小屋とウェストンが称賛した穂高連峰を眺めたいと思った。高所訓練のつもりで小屋から霞沢岳(2646m)を往復したが、予想よりキツかった。

2013年登山レポ―ト

6/27 キタダケソウ 北岳山頂直下で 6/28 北岳から下山、雲上に甲斐駒ヶ岳が浮かんだ
7/23 7:26 千枚岳から富士山 7/23 18:54 荒川小屋から富士山
9/6 木曽御嶽の山頂 山頂南側の爆裂口 翌年の噴火はこの地点からだった。
10/13 ウェストンが称賛した徳本峠からの穂高連峰の景観 10/14 霞沢岳山頂から穂高連峰

2013年10月 サブカメラ購入

精密機器のカメラは故障することがある。落したりぶつけたりすることもある。ハプニングは都合の悪い時に起きるもので、肝心な時に撮りそこなわないように、山岳写真ではサブカメラ持参が常識になっている。

一眼レフは同じメーカーのボデイを2台持っていればレンズを共用できる。11月のアンナプルナBCトレッキングを前に、ニコン D5200 のボデイを買った。D300s のワンランク下のモデルで、価格は約半分。何が違うかと言えば、ボデイがプラスチック製で、ファインダーの像を正転させる5角プリズムを貼り合わせ鏡で代用しているが、撮影機能はほぼ同等で、写り具合も全く遜色ない。

部材代用による軽量化(約300g)は非力なトレッカーには有難く、耐久性が多少落ちるのかもしれないが実害はない。小型軽量化で電池が一回り小さくなって減りやすいのがデメリットだが、サブカメラの役目は十分に果たせる。(このカメラは2021年現在も使っている)。


2013年11月 ヒマラヤ アンナプルナ内院 トレッキング

エベレストから西へ300Kmのネパール中央部にマナスル、アンナプルナ、ダウラギリなどの名峰が聳える。アンナプルナⅠ峰(8091m)の南麓の「アンナプルナ内院」は7~8千m級の名山に囲まれた盆地で、英語名は「Annapurna Sanctuary」。直訳すれば「アンナプルナの聖なる場所」だが、これを「内院」と和訳した人のセンスを褒めたい。

ゴーキョの次にアンナプルナ内院(行き先はアンナプルナ・ベースキャンプ=ABC)を選んだのには、つれあいをヒマラヤに連れ出す目的があった。「高度恐怖症」で標高5千mのゴーキョには二の足を踏んだが、4130mのABCは富士山(3774m)より少し高いだけ。出発地のカーレは1770mで富士山5合目の登山口より低く、1週間かけて登れば高度順応できる筈。気温も計算上ではゴーキョより6℃暖かい筈で(100mで0.6℃下がる)、寒がりでも大丈夫だろう。

楽な分だけトレッカーも多く、天候が安定する11月のシーズンは小屋が満杯になる。ゴーキョではキッチンスタッフが同行して「日本食」を作ってくれたが、アンナプルナ街道は「小屋メシ」が原則で、ヨーロッパ人がネパール人に教えた「洋食」を食べることになるが、同行スタッフが気をきかせて日本風の副食を作ってくれる。

アンナプルナ内院トレッキング その1  その2

  
11/1 カーレでバスを下りて歩き始める。マキを運ぶ村人 11/2 トルカからアンナプルナサウス。ABCはこの山の裏側にある
11/4 アンナサウスが近くなる。ヒマラヤ桜は秋に咲く 11/5 急流を渡る
11/6 標高3700mのマチャプチャレベースキャンプ(MBC) 11/5 MBCからマチャプチャレ(6997m)
11/7 MBCからABCへの途中でガンダルバチュリ(6248m) 10:30 ABCに到着 山はアンナプルナ・サウス(7219m)
11/8 ABCに連泊したが降雪で行動できず。 11/9 アンナプルナⅠ峰南壁はこれで見納め

帰路はバンブーで2班に分れ、1班は途中の温泉で1泊して下山、我々は更に山中3泊でダウラギリ(8167m)の展望ポイントのプーンヒルを経由して下山した。歩く距離は長いが、標高2500mの生活道路を歩くのは山岳地帯と違った趣があり、ダウラギリの雄姿も十分に楽しめた。ただ有名観光地化したプーンヒルではマナーを欠く人たちに興をそがれた。ダウラギリの眺めもゴラパニ手前のデウラリ峠からの方が良かったような気がする。

カトマンズに戻った午後に市内観光のガイドをお願いしたら、16年前の撮影ツアーでお世話になったガイドさんだった。ヒンズー教寺院のパシュパテイナ―トで行われる火葬の見学に連れて行ってもらった。

11/10 田舎道を西に向かう。 11/11 途中の茶店で
11/11 デウラリ峠でダウラギリ(8167m)が雄姿を現す。 ゴラパニの宿からダウラギリの夕暮れ
11/14 午後カトマンズに戻って市内観光、ボダナートの寺院で パシュパテイナート寺院の火葬場


2014年10月 友山クラブ写真展 「アンナプルナヒマール展望」 

アンナプルナ内院は役者が多い。主役のアンナプルナⅠ峰の壁は迫力はあるが、脇役の方が表情豊かで撮り易い。

「蒼天の渚」(山はアンナプルナサウス) Nikon D-300s、10-20mm マチャプチャレBCから
MBCの裏山に登ると突然雲の流れが変わり、あわててワイドレンズに換えて撮った。

「マチャプチャレ紅彩」 Nikon D-300s、24-120mm マチャプチャレBCから
マチャプチャレは見る角度で姿が全く変わるが、この場所からがベストと思う。

「偉峯アンナプルナⅢ峯」 Nikon D-300s、18-200mm アンナプルナBC近くから
陰に隠れてあまり人気のない山だが、ABCとMBCの中間点から見るとカッコイイ。


2014年7月 大姑娘山(5025m) 登山

小生の知る限りでは、シロウトが技術・装備ナシで登れる標高5千mの峰はゴーキョ・ピーク、カラパタール、中国四川省の大姑娘山(タークーニャンシャン)の3ヵ所だけ。ネパールの高峰は登山口からのアプローチが長いが、大姑娘山はその気になれば翌日山頂に立てる。とはいえ高度順応には時間が必要で、我々は麓の日隆鎮(3200m)とベースキャンプの老牛園子(3700m)で夫々2泊、アタックキャンプ(4300m)に1泊して6日目に登頂した。

大姑娘山登山の目的は「高度恐怖症」のつれあいに5千mを体験させること。軽度の高山病は「山酔い」と呼ばれるが、乗り物酔いと同様「酔いそうだ」と思うと必ず酔い、「大丈夫」と思い込むと酔わないことがある(本当に高山病の場合もあるのでムリは禁物)。自信がつけばヒマラヤのトレッキングも行く気が起きるだろう。

大姑娘山登山-前編 -後編

4日目に老牛園子のベースキャンプ(3700m)に入る。 7日目、アタックキャンプに移動。正面が大姑娘山
標高4000mでブルーポピー 数種類のブル-ポピーに出会える
標高4300mのアタックキャンプ 夜中に雨が降ったが朝4時の集合時間に星空になった
山頂直下の雪の急斜面を登る 大姑娘山頂
山頂から最高峰の四姑娘山(6250m)を望む 南に見えるミニアコンカ(7556m)はかつて世界最高峰とされた。

大姑娘山頂の標高は5025mとあるが、小生の簡易高度計の表示は4995mで、他の人の高度計も同じだった。登山ガイドはそれまで自慢げにGPS高度計を見せびらかしていたが、山頂で尋ねると聞こえないフリをした。帰宅してGoogleの地形図(GPSのデータを基に作ったと言われる)を確認すると、大姑娘山頂に5千mの等高線がない。簡易高度計は気圧を標高に換算するのでその日の気圧に左右されるが、GPSは米軍の航法システム(ミサイル誘導にも使われる)の一部を民間に開放しているもので、複数の人工衛星の電波で三角測量するのでm単位の精度がある。大姑娘山の標高は5025mではなく4995mが正しいようだ。

ヒマラヤの地図に示された高峰の標高は「いいかげん」らしい。巻き尺と水準器で尺取り虫のように三角測量した筈がなく、お湯を沸かして沸点の温度で標高を推定し、そのいいかげんな基準点から周囲の山を睨んで「エイヤ!」で標高を決めたものが殆どで、マジメに考えない方が良いと言われている。大姑娘山頂から見えるミニアコンカ峰(7556m)は、ヒマラヤに人が入る前は標高9220mの世界最高峰とされていた。誤差1700mはともかく、大姑娘山の30mの誤差に目くじらを立てることはない。カミさんの5千m到達も四捨五入でOKにしておこう。

中国は訪れる度に近代化の速度に驚かされる。四川省都の成都に高層ビルが林立し高速道路が伸びるのには驚かないが、成都を離れた田舎町にも「投資」の現場が随所に見られ、数年内にGDPで米国を抜くという予測に現実感がある。中産階級にもおカネがまわって観光ブームが起きている。大姑娘山域も中国人旅行者が訪れて乗馬で観光スポットを巡るが、登山者はゼロ。「3K」(きつい、汚い、危険)の登山を「大人」(ダーリエン)が蔑むのも当然なのだ。

成都市街。高層ビルの林立に驚く。 成都大熊猫繁育研究基地のパンダ。近代的な施設に驚く。

2014年 山歩き

前半の登山は大姑娘山に向けてのトレーニングと高所訓練だった。

☆ 5月4日 武甲山:シーズン初めの足ならしに近場の山に登った。修験道の山で2百名山にカウントされているが、山頂部はセメントの石灰岩採掘で悲惨な姿になっている。裏側からアクセスする登山道からは惨状が見えない。

☆6月4日~5日 立山:7月の大姑娘に備えて高所・雪上訓練に出かけた。一ノ越の山小屋の客は我々ともう一組だけで、雄山山頂の神社は雪に埋もれていた。

☆6月23日~24日 唐松岳:白馬の八方尾根ゴンドラとリフトで1500mまで上がれる。終点から上は残雪が多くアイゼンで登り、少しだけ冬山の気分を味わった。

☆7月3日~4日 富士山:出発直前の高所順応で登ったが、山開き前で山頂の神社は閉まっていた。最高点の剣が峰に登らずに下山。

☆10月11日~12日 奥大日岳: この年2度目の立山に一時帰国した長女と一緒に出かけた。紅葉シーズンだが室堂の「日本最高点天然温泉」の予約がとれた。奥大日岳は立山と剣岳の展望ポイントで、天候に恵まれてラッキーな登山だった。

2014年山歩きレポート

5/4  信仰登山の伝統が残る武甲山の参道 武甲山山頂神社
6/4 立山雄山山頂から室堂平と奥大日岳 ライチョウは夏姿に衣替え中
6/24 18:57 唐松岳から不帰嶮 6/25 7:28 唐松岳から白馬岳方面
7/4 5:07 富士山吉田口山頂でご来光 山頂神社はまだ山開きの前
10/11 立山奥大日岳山頂から立山 奥大日山頂から剣岳