若い頃「トレッキング」という用語を聞いたことがなかったような気がして、1984年版の「広辞苑」を引くと、やはり「トレッキング」の項はない。1985年版「新英和大辞典」には「trek:(アフリカ南部)牛車に乗って旅行する、のろのろ進む」とある。最も権威ある卓上英英辞典と言われたCOD(The Concise Oxford Dictionay) 1959年版の trek も同じ記述で、アフリカ先住民の生活用語が英語になったものらしい。一方、毎度お世話になる Wikipedia で trekking を検索すると「A trek is a long, adventurous journey undertaken on foot in areas where common means of transport are generally not available 」とあり、「トレッキング」が「普通の交通手段がない地域を徒歩で行く冒険的な長い旅」の意味で使われるようになったのは比較的最近と確認できた。日本のツアー会社や登山用品業界の一部は「ハイキング」と同義で使っているようだが、外来語のいいかげんな日本語化の事例かもしれない。
今回の「アンナプルナ内院トレッキング」は Wikipedia の定義がピッタリあてはまる。ネパールの山間部には自動車が走れる道路が殆どなく、自分の足で歩くしかない(時折 Horse Rental の看板を見るが利用者は滅多にいない)。「冒険」と思うかどうかは個人差があろうが、日常より多少冒険的であることは間違いない。「長い旅」は「山中12泊」で合格だろう。その間はフロもシャワーもない(太陽熱シャワーの看板も見るが、よほど運が良くないと氷河の水を浴びる)。フロ好きの現代日本人に12日間フロなしはキツイが、2日もガマンすれば慣れてしまう。世界の大半の人は一生フロに入らないのだから、それが原因で病気になることはない。
トイレは和風のしゃがみ型で、事後に水瓶からひしゃくで水を汲んで流す「手動水洗」だが、きれいに使われているので不潔感はない。たまに洋式もあるが、これが問題。現地の人たちはひしゃくの水と左手で伝統的事後処理をするので、便座や周囲が水浸しになり、神経質な日本人はネパール式を探し回る。
ロッジはツイン部屋が基本だが、混雑時に追加ベッドを押し込むことは前号に書いた。部屋のベッドにマットレスと枕はあるが、寝袋はツアー会社が準備して出発時に各人に割り当て、ポーターが運ぶ。気温が下がると氷枕式の「湯たんぽ」を出してくれるが、その為にポーターが用具と燃料を担ぎ、行く先々で湯を沸かす。食事はアンナプルナ街道ではロッジの2食付きだが、おかゆや味噌汁など和風食は同行のポーターが作る。そんなこんなで客とほぼ同数のスタッフが同道して大名行列になる(テント泊ではポーターの人数は客の2倍以上)。こういうトレッキングは人件費の国際格差で成り立っているビジネスモデルで、早晩破綻を免れない。
「内院はどういう意味?」と読者からご質問があった。「アンナプルナ内院」は英語で「Annapurna Sancturary」と呼ばれ、下の地図(Google Earthを加工)のように高い峰々に囲まれた楕円形の窪地で、大寺院の祭壇と荘厳具に囲まれた「内陣」を連想させる。「内院」は辞書によれば伊勢神宮の斎王の御座所を指すらしいが、語感としてはピッタリ。この地域は前篇で書いたように住民の伝統的な「聖地」で、肉食が禁じられているほか、ツバを吐くこともタブー。ポーターの中にしきりに痰を吐き手鼻をかむ者もいたが、他地域からの出稼ぎ者かもしれない。
前篇から続く:
マチャプチャレBC(以下マチャBC)の標高は富士山頂(3776m)とほぼ同じ。早朝はさすがに寒く(単純計算で平地より22℃低い)、厚着にホカロンで日の出を待つ。お目当てはアンナプルナ・サウスの紅焼けだが、日が昇ると東のマチャの影が西のアンナ・サウスにビッタリ重なってしまった。ふと考えるに、アンナ・サウスの頂上から「ダイヤモンド・マチャ」の大傑作が撮れる筈だが、7千mの山頂では手も足も出ない。東の三役のアンナⅢ峰、ガンダルバチュリ、マチャも真逆光で写真にならず、早朝撮影は欲求不満に終った。
マチャBCからアンナプルナBC(以下アンナBC)まで標高差400mのなだらかな登り坂。出発してすぐ富士山頂の標高を越える。日本人は3776mをひとつのバリアと考えるクセがあり、登山用腕時計の高度計を確認して感慨にひたる。日本を出る前に写真の先生から「あの坂では時々後ろを振り返って撮るように」とアドバイスをもらっていた。確かに高度を上げるにつれてマチャは威厳を増し、アンナⅢ峰とガンダルバチュリも息を呑むばかりに変身する。
立ち止ってはシャッターを押し、2時間少々でアンナBC到着。標高4130mの気圧は平地の6割だが、高度恐怖症のカミサンも空気の薄さを全く感じない由で、ひとまず安心。4軒あるロッジはどこも満員で、予約のないトレッカーは断られて下山して行く。我々はアンナBC連泊のぜいたくな日程で、少々気がひける。
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前日まで申し分なかった天候が肝心な時に崩れた。早朝マチャ山頂に絡んでいた雲が厚みを増して周囲の山々も覆い隠し、遂に雪が舞い始める。当初の目論見では、南側のヒウンチュリの斜面を登ってアンナⅠ峰と背くらべをする予定だったが、ロッジの周辺を少し歩いただけで、あり余った時間を雑談で過ごす。山歩きにはこんな日もある。
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朝3時にトイレに起きた時は雪が舞っていた。やっぱりダメかとガッカリしたが、諦めきれずに5時に起きだしてみると、何と空は満天の星ではないか!これはもう神様が我々の為に奇跡を起こしてくれたとしか思えない。
大急ぎで身支度をして三脚・カメラ・レンズ一式を抱えて雪原に出る。15㎝ほど積もった新雪の下はデコボコの草地で、焦ってつまずき、前にのめって撮影機材を放り出したが、幸い粉雪にまみれただけで機材も身体も無事。小高いマウンドに登り、全周の山が見えて且つロッジの建物が画角に入らないことを確認して三脚を据える。手指の凍えをポケットのホカロンでだましつつ、手軽で安価な使い捨て暖房具の発明者を心から褒めてやる。
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7時の朝食前に荷物をまとめなければならず、朝の撮影は6時40分で切り上げ。暖房のないロッジの熱源は熱いお茶とホカロンだけだが、荷物と格闘する内に冷えきった体が暖まってくる。満員のロッジの朝食準備が遅れ、出発が30分繰り下げになり、おかげでロッジ周辺の雪化粧の写真を撮る時間が出来た。
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8:30、アンナBCに別れを告げて下山開始。前日の降雪で滑りやすくなった緩斜面を靴底で滑走する熟達者がいる一方、雪道に不慣れでコワゴワ歩く人は登り以上に時間がかかる。小生はその中間で、ヤバイと思ったらわざとハデに転ぶヘボ級スキーの技を応用、これで雪道でケガをしたことがない。
マチャBCから下の谷底のルートは2時過ぎに薄暗くなり、中間点のヒマラヤホテルで急な雷雨がミゾレになった。今回初めて雨具を出し、個人ポーター用に250円のポンチョを買う。5時を過ぎると足元が暗くなり、5:30にヘッドランプ点灯。か細い光が頼りの急坂下りは緊張の連続で、6:30にバンブーの灯りが見えてホッとする。
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バンブーでツアーは2班に分かれ、1班は途中1泊でポカラに帰り、我々はプーンヒルを経由、ポカラに帰るのは4日後になる。前日の夜道体験を踏まえて1時間早い7時に出発。長い石段道を登ってアップダウンを繰り返し、昼食時にチョムロン着。途中でちょっとしたハプニングもあって、ここまで往路と同じ5時間を要した。
チョムロンのロッジの庭に着飾った村人が集まって何やらお祭り騒ぎ。中央にカメラマンと大きなレフ(反射板)を持つスタッフがいて、この辺りに住むグルン族の観光PRビデオの撮影中と知る。観覧車風の祭具に乗った美女が出番を待っているが、広場の男女踊り手の息が合わずNGの連続。我々が昼食をとる間も汗だくの撮影が続いていたが、思いがけず珍しい風俗を見せてもらってラッキー。
バンブーの先でメインルートを離れ、段々畑の村道を西に向かう。タダバニ(標高2860m)まで行く予定だったが、超ビスタリではまた夜道になってしまうので、宿泊地を途中のチュイレ(2310m)に変更。深い谷を下って吊り橋を渡り、登り返してロッジに着いたのは日没直後で、ガイドの読みがピタリと当った。ここは「聖域」の外で、それまでガマンしてきたビールを解禁してネパール産「エベレスト」の大瓶(650ml)を空ける。1本500円の値段は日本の山小屋の350ml缶と同じだが、ここではポーターの半日分の日当に相当。彼等は1杯50円の「どぶろく」で疲れをいやす。
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朝一番のチュイレ→タダパニの登りは結構キツく、前日に日没と疲労を避けて手前のチュイレに泊まったのは正解だったが、タダパニの稜線からの眺望はなかなかのもので、それまで隠れていたマチャの南壁も見える。朝焼けはさぞ見事だったに違いなく、傑作を撮りそこなったのは残念。
タダパニから先もアップダウンが執拗に続く。ゴラパニ手前のデウラリ(普通名詞「峠」の地名化、マチャBC近くのデウラリと違う場所。他にもあちこちにデウラリがあって紛らわしい)で思いがけないご褒美があった。名峰ダウラギリ(8167m)が雄大な姿を見せてくれたのだ。ここからの展望を紹介するガイドブックを見たことがないが、近くのプーンヒルがダウラギリ展望台のブランドとして定着した為だろうか。
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朝4時にゴラパニのロッジを出発、ヘッドランプを点けてプーンヒルを目指す。5:15 到着、有名観光スポットでは無遠慮な観光客に邪魔されない撮影場所の確保が肝心。ダウラギリ、アンナⅠ峰、アンナ・サウス、マチャが全部画角に入り、近景にタルチョ(祈祷旗)の写し込みも可能な場所に三脚を立てて日の出を待つ(これが裏目に出て、タルチョの中に入り込んでポーズを決める観光客に悩まされた)。
残念ながらプーンヒルの早朝撮影では納得のゆく成果物ナシ。イソップの「酸っぱいブドウ」流に言えば、この季節の朝の光はダウラギリにうまく当らない。更に付言すれば、そもそもここの景色は「絵葉書」で、撮っても「作品」にはならない(生半可な写真屋は、誰でも撮る名所写真を「絵葉書」とくさす悪癖がある)。
ロッジに戻って朝食後、標高2900mから1400mまで一気に下る。登りより下りが楽と思いがちだが、下りの方が筋肉の負担が大きく、疲れがたまると転んでケガをしやすい。今回のツアーでもこれまで2人が下り坂で転倒、大事には至らなかったがヒヤッとする場面があった。小生の場合は1日の下りの標高差が1200mを超えるとレッドゾーンで、両手のストックをフルに使って下半身の負担が軽くなるように心がける。特に後半のバンタンテ(2210m)からティルケドンガ(1540m)までの急な石段の連続は気を抜けない。腕時計の高度計の数字が減るのを励みに下り続ける。
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いよいよトレッキング最終日。この日だけはアップダウンがなく疲労蓄積を気にする必要もない。中間地点まで自動車道路の工事が進み、気の早いバイク屋が店を開いている。もうすぐ四駆車が身をよじりながら登ってくるようになり、大きな岩石が除かれればバスが走り始める。そうなれば茶店もロッジも店じまいに追い込まれ、村人はポカラに出稼ぎに行き、無秩序な都市化と農村の疲弊が加速することになる。世界中で起きているこの難題を解決した国はまだない。
超ビスタリを忘れてピッチが上がり、終着地ナヤプルにバスの迎えの時間よりかなり早く着きそうな勢い。手前のビレタンティでランチを超ビスタリで食べてビール大瓶を3本空け、トレッキング最後の30分を満腹と酔眼で歩いた。
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11月13日午後3時、ポカラのホテルに無事帰着。先ずは何をおいてもシャワーで12日間のホコリと汗とアカを流す。2度洗ってやっと石鹸の泡がたち、流し終わって頭と体が軽く感じられたのは、気のせいばかりではなさそう。
里に下っても朝夕の「撮影タイム」は怠らない。16年前の初めての旅行でポカラからアンナプルナ山群を見たときの興奮が脳裏に焼き付いているが、今回ホテルの屋上から同じ景色を見て「こんなだったかなあ」と少し気が抜ける。当時はなかった無秩序な都市景観が邪魔しているだけでなく、ド迫力の山岳景観を間近で見た直後だったからか。
11月14日、朝の国内線でカトマンズに移動。午後の自由時間でこれまで行く機会のなかったボダナートとパシュパティナートを見学。ボダナートは巨大なストゥーパ(舎利塔)で知られるチベット仏教の寺で、土産物店や仏具店が並ぶ門前町は郷里の信州善光寺を思い出させる。
ヒンズー寺院のパシュパテイナートは教徒でないと中に入れない。それでもビックリする程高額の「拝観料」をとられ、世界遺産への寄付と思うことにする。有名な火葬場は橋を渡った寺の裏側から丸見えで、写真撮影も差支えないという。偶々軍の要人の葬儀が進行中で、軍楽隊が葬礼を奏でる中、遺体に火が点じられるところ。隣の火葬台(ガート)では毛布の裾から足首がはみ出た遺体を聖水(川)に浸すところだった。人口300万のカトマンズでは毎日数十人の死者が出る筈で、ヒンズーの公開火葬は日常茶飯だろうが、長旅の締め括りとしてはインパクトのある光景を見た。
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