ゴーキョピーク(5360m)登頂後の12月31日、標高3640mのポルツエ・テンガに下って体調を崩し、予定を変更して1月3日に下山したところまで前号でレポートした。以下はその後の顛末である。
1月3日 本隊は朝7時にホテル・エベレストビューを出発して徒歩でパグディンに下り、小生はヘリで7時40分離陸、ルクラで国内線乗り継ぎにドタバタしたが(前号参照)10:40 カトマンズに無事帰着。3日間何も食べなかったので、取り敢えず消化の良い食物を入手するべく、迎えの車にスーパーに寄ってもらう。日本大使館の近くの一等地のビル1階を占める店舗は品揃え豊富で、ハラの調子を忘れて日本流パン屋のメロンパンとクリームパンも買ってしまう。
カトマンズは慢性的な電力不足(100%水力)で停電ばかり、ホテルの自家発電も昼間は停止で暖房もナシ。ぬるいお湯が出たので2週間ぶりでシャワーを浴びると人心地が戻り、ついでに必要最小限の洗濯もする。バナナとメロンパンを恐る恐る食べると胃が活動再開の気配。腸はまだグズグズしているが、夕食は無事下山を祝うべく一人でホテルのレストランへ。スープ、肉料理に赤ワインまで注文するが、少し食べただけで食欲霧散、フォークが動かなくなる。大半を食べ残し「食えないのは高山病のせいで、不味いわけではない」とウェイターに言いわけをする。
1月4日 朝食を完食、気を良くしてホテル近くのタメル地区(観光ショッピング街)を散歩。カトマンズの大気汚染は北京に並ぶと言われるが朝のうちは爽やか。足どりも軽くと言いたいが、スローな歩調で歩幅も狭く、腰が落ちてすっかり「老人歩き」、フラフラと宙をさまようような感覚にも戸惑う。10日間の高所山行と3日間の欠食で体力を失い体重も減ったらしい(帰国後の計量で5.5㎏減)。早々にホテルに戻って午後は休養。下痢が止まったようなので夕食は日本食レストランへ。揚げ出し豆腐をサカナに日本製缶ビールを1本飲んでカツ丼を平らげる。やっぱり日本食!
1月5日 5日ぶりの快便に一種の感動を覚える。もう大丈夫! 本隊が朝一番の便でカトマンズに戻る筈だが、ツアー事務所に確かめると強風の為ルクラで待機中の由(1月3日に小生が飛んだ便を最後に欠航が続いていた)。出迎えをやめて郊外のサワヤンブナート寺院に遠征、往復3時間、480段の石段を歩き通して体力復活を確認。
本隊はヘリをチャーターして昼過ぎにカトマンズに戻った。飛行機が飛べないのにヘリが飛ぶのはヘンだが、危険なのはルクラの傾斜した滑走路の離着陸で、滑走路を使わないヘリなら大丈夫らしい。昼食は市内のレストランに繰り出して互いの無事を祝う。ビール中壜2本と中辛カレーライス大盛りを完食、昨日までのヨレヨレ状態がウソのよう。
1月6日 オプションツアーで古都バクダプルを観光。最後まで元気だったY氏もホテル・エベレストビューで発症し、まだトイレ探しが心配の様子。今回のゴーキョトレッキングでは添乗員を含めて日本人6人全員が様々なタイミングで胃腸障害を経験した。下痢腹での行動距離が短かかったという点で 、小生が一番良いタイミングで発症したようだ。
1月8日朝帰国、2月上旬まで風邪引きや胃腸の不調を繰り返した。ダメージが1ヵ月残っていたのだろう。5.5㎏減った体重は目下リバウンド中だが、真っ先に戻ったのは肝脂肪と内臓脂肪で、筋肉は落ちたまま(ジムで以前のウェイトが挙がらない)。以上が小生の「高山病」の顛末だが、標高5千mのトレッキングでは体に何らかのダメージが生じるのは避けられない。要はそれを軽症でやり過ごす術を見出して実行することで、これは老後の健康管理に通じるかもしれない。
ネパールはインドとチベットに挟まれた窮屈な場所にある。それもその筈で、約7千万年前にインド亜大陸がチベットに衝突し、浅海がせり上がって出来たシワに立国したのがネパールなのだ。首都カトマンズは中央部の標高1400mの盆地にあり、北は7千m級のヒマラヤの壁、南も3千m級の山脈に囲まれている。飛行機がカトマンズに近づくと右前方にヒマラヤの屏風が見える(ツアー会社が全員に窓側の席を取ってくれた)。カンチェンジュンガ、マカルー、ローツエ、エベレスト、ランタンリルン、マナスル… 山の位置関係や姿から名峰の山座を同定して、これで山の写真屋に一歩近づけたかな、と勝手に思ったりする。
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「ダルバール」は「宮廷」。カトマンズには1969年から2008年の王政廃止まで使われた新宮殿と、今はダルバール広場と呼ばれる旧王宮があった。カトマンズ盆地は4世紀からリッチャヴィ王朝が治めたが、13世紀にネパール西部から攻め上ったマッラ王朝に滅ぼされた。マッラ王朝はインドからイスラム勢力を逃れて流入した人々を受け入れ、同時にチベットとの交易も盛んに行い、ヒンズー教とチベット仏教が融合したネパール独特の文化を作り上げた。マッラ王朝は15世紀に分裂してカトマンズ、パタン、バクダプルの小王国を作る。今日我々が見る史跡は殆どがこの時代のもの。
18世紀に西部で勃興したシャハ王朝がカトマンズ盆地に進出、小王国を滅ぼして版図をネパール全土からインド北部にまで拡げる。勢い余って1792年にチベットを侵攻するが戦いに敗れ、清国が1912年に滅亡するまで朝貢させられる。更にインド北部への拡大を狙って大英帝国を刺激、1814年のグルカ戦争でも敗れるが、善戦を認められて植民地化を免れた。ネパール兵士は「グルカ兵」と呼ばれ、勇猛果敢な戦闘ぶりが買われて英軍の傭兵になった。第二次大戦では英軍グルカ部隊が日本軍と戦い、1982年のフォークランド紛争にも派兵され、現在も3600人が英軍に従軍しているという。
1846年、これも西部出身のラナ将軍がシャハ王家の有力者を殺害、実権を握って傀儡政権を操る。ラナ家の支配が1世紀続いた後、1951年にトリブヴァン国王が復権して立憲王政への移行を図るが混乱が続き、1979年頃から反政府運動が全国化。その中で中央から遠い農村地域を拠点に武装蜂起したマオイスト(毛沢東主義派)が勢力を伸ばす。内戦での死者は1万人を越えたという。
2001年6月1日、王宮晩餐会で発砲事件が発生、ビレンドラ国王とその一族10名が殺害された。弟のギャネンドラ王子が即位したが、事件への関与が噂されて王室の権威が回復せず、2008年に王政廃止。初めての選挙で第1党になったマオイストが連立内閣を成立させたが、各党の思惑が錯綜して2009年に崩壊。2011年8月の首班指名でマオイスト党のバッタライ副書記長が首相に選ばれたものの、政争に明け暮れるばかりで「何もしない政治」が続いているという。
カトマンズで目につくのが赤地にハンマーと鎌(旧ソ連邦国旗と同じ)のマオイスト党旗を印したポスターや横断幕。マオイストは無産層へのバラまき的スローガンで票を集めたのに加え、地方では武力を背景に脅迫的な投票駆り出しで票を得たとの風評もあり、カトマンズの「実業界」では甚だ評判が悪いらしい。彼等は今も武装解除しておらず、今後の政情によっては内戦再発や軍事政権化の危険も否定できない。
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王政のタガを外したものの民主化プロセスが機能しない理由や背景は複雑だろうが、表面的には50を越える小政党乱立で物事が決められない事態。「政党」と言っても政治理念や政策を共有する政治団体ではなく、部族とカーストが基盤の血族利益集団が実像ではないだろうか。ネパールは36の民族で構成され、夫々の民族に多層のカーストが根強く残る。ネパール社会を俯瞰すれば3次元の階層構造が見える筈だ。そうした社会に「四民平等」が大前提の西欧流民主主義を根付かせる道は前途遼遠で、「あんな王様でも居た方が国がまとまる」の声にも一理あるのかもしれない。
多民族国家では「宗教」が民族間の確執を深めることが多いが、ネパールでは宗教上の対立が紛争の火種になったという話を聞かない。米国CIAの統計(CIA The World Facbook)ではネパール人の81%がヒンズー教徒、11%が仏教徒、4%がイスラム教徒。どこに行っても立派な寺院があり熱心な参詣者の姿が絶えないが、小生にはヒンズー寺院とチベット仏教寺院の区別が付かない。小生の宗教オンチもさることながら、ネパール人も区別せずに拝んでいるようだ(我々が神社と仏閣を拝むのと同じ)。ヒンズー教とチベット仏教は共に生活習慣のようなもので原理主義とは縁遠く、イスラム教徒とマオイストの結託も考え難い。宗教戦争の心配がないことはネパールにとって大いなる幸いと言えるだろう。
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カトマンズの人口は3百万と言われるが、実際はもっと多いのではないだろうか。狭い路地に人がひしめき、その人ごみに車やバイクがおかまいなく突っ込んで来る。「熱気に溢れ‥」と好意的に言いたいところだが、無秩序・無目的の喧噪としか見えない。人が狭い住居で息苦しい思いをするよりも屋外で時間をつぶしたい気持ちは分かるが、無数の車やバイクがいったい何の用事で走り回るのか想像力が働かない。
ネパールの国民一人当たりGDPの1300ドルは、世界228ヶ国中の207番目でドン尻に近い(CIA統計、ちなみに日本は36,200ドルで36番目)。「GDP」は国全体の経済活動を表す指標で、一人当たりの値が低いのは「国に産業が無いのに人口が多い」ことを示す。カトマンズの町でそのことを実感するが、アフリカ最貧国のように人間の生存が危機的な状況にあるようには見えない。血族的共同体の絆で衣食住が辛うじて満たされているのだろうが、無秩序な人口集中を放置すれば臨界点を超えてカトマンズは暴発しかねない。そうなる前に政治が機能して欲しい。
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カトマンズの都市インフラは極めて貧弱。常時停電、常時断水、穴ボコの狭い路地にオンボロ車が溢れて排気ガスをまき散らす。ゴミ問題も深刻で空き地や河原はゴミの山だが、これにはカーストの崩壊がからんでいるという話を聞いた。清掃カーストの人達が生業を離れ、彼等のスポンサーたる旦那カーストも責任放棄、その役割を引継ぐべき行政も存在しないという。ナルホド…
インフラ整備は国や自治体の重要な仕事だが、先立つものが無ければ何も出来ない。経済活動が無ければ税金を取れず、税金が無ければ経済活動を興せない。そんなニワトリとタマゴの循環を絶つ手段は「援助」と「借金」だが、それも思うに任せない。「援助」は供与国側の思惑次第で、長期的な投資効果より「目立つハコモノ」が優先するし、「借金」したくても信用ゼロでは相手にされない。ネパールの庶民は勤勉・実直なだけに、為政者の強い意志とリーダーシップが確立すればボールは転がり始めると思うのだが…
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その昔カトマンズ盆地が大きな湖だった頃、水面に頭を出した島に大日如来が現れた。それを聞いてこの地を訪れた文殊菩薩がストゥーパ(卒塔婆)を建てたのがサワヤンブナート寺院の始まりという。湖を囲む山の一画が崩れて水が失われ、島は丘となり、その頂に立つ金色の仏塔から如来の目玉が全方位に視線を配る。
16年前に訪れた時は寺のすぐ近くの駐車場まで車で行ったが、今回は病み上がりの体力チェックを兼ねてホテルから歩いた。排気ガスと土埃を吸いながら市街を通り抜け、ゴミで埋まった川を渡り、少し閑静な区画を過ぎると門前町。麓の別院(?)に参拝して山門をくぐり、石段を数えながらゆっくり登ると、頂上近くの番小屋で呼び止められ、外国人入山料(約200円)を払う。狭い山上には仏塔を中心に寺院、宿坊、石塔にヒンズー教の礼拝所などところ狭しと並ぶ。
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ツアー最終日は下山遅れに備えての予備日だが、本隊も予定通り下山したので終日フリー。仲間二人がオプションツアーで古都バクダプルに行くというので小生も入れてもらった。16年前に訪れた時は田舎道を延々と走ったが、出来たばかりの「高速道路」(日本のODA無償援助の筈)のおかげで30分で着く。道路の両側に人家が切れ目なく連なり、都心から12Kmのバクダプルも首都圏に呑み込まれてしまったようだ。
バクタプルは15世紀~18世紀に栄えた小王国。保存状態が良くユネスコ世界遺産に登録されている。前回見学したのは旧王宮だけだったが、今回は南側の旧市街からツアーを始める。今も住民の生活が営まれている区画で、迷路のような路地を人々が行き交い、子供が走り回っている。ヒマラヤの造山運動は今も活発で、地震で建物が傾いたり煉瓦が崩れたりするが、世界遺産登録で補修費用を得やすく、住民の暮らしを安定させる上でプラスしているという。
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