「ヒマラヤのゴーキョピークに登った」と言うと、「まさかオマエが…」と目を丸くされる。ザイルを着けて氷雪の岩壁をよじ登る姿を想像するらしいが、それは全くの誤解で、実は東京郊外の「高尾山」に歩いて登るのとあまり違わない。1日の行程は3時間前後、登る標高差も500m以下、登山道は馬やヤクが荷を積んで行き交う住民の生活道路で、危険な岩場や断崖絶壁は無い。ゴーキョピークの山容も氷雪の岩壁とは無縁で、高さ600mのずんぐりした姿は高尾山と似ていないこともない。
大きく違うのは標高(海面から山頂までの高さ)で、高尾山頂(599m)はスカイツリーより低いが、ゴーキョピーク(5360m)は富士山(3776m)の1.4倍。標高が高いと気圧が下がって気温が低くなる。ゴーキョピークの気圧は海面の約半分で、気温は標高が100m上がると気温が0.6℃下がる断熱膨張のルールで計算すると高尾山頂より29℃低いことになるが、緯度がほぼ沖縄と同じ亜熱帯なので、小生の実感では冬の高尾山とあまり違わない。
従って着るものも冬山登山用のブランド品を揃えるまでもない。小生はUQの発熱下着と常用の山シャツの上に、気温と風の状態で薄手のダウンジャケットかウィンドブレーカーを羽織った。但し、ロッジに着いてから寝るまでは防寒対策が要る。唯一の暖房である食堂のヤクフンストーブは火力が弱いので、昼間は出番のない厚めのフリースを着込み、ストーブに抱きつくようにして暖まってから、湯たんぽを抱えて寝袋に潜り込む。一番キビシイのは高台で日没まで三脚を据える時で、ゴアテックス雨具を風防代わりに着てホカロンで頑張った。
寒さ対策はその程度でOKだが、薄い空気には体を慣らす以外に手がない。都内の高所訓練施設(三浦ドルフィンズ)を見学したことがある。大げさな減圧タンクを予想していたが、普通の部屋の1気圧の空気にヘリウムガスを送り込んで酸素濃度を薄める仕掛けに目からウロコ。高山病に罹るのは「気圧が低い」からではなく「酸素が足りない」からなのだ。部屋にヘリウムを入れると即座に血中酸素濃度が下がり、深呼吸すると即座に上がる。酸素量の変化に自分の体がリアルタイムで反応することに驚く。
人体は数分間の窒息で死んでしまうほど酸素欠乏に弱い。平地では血中酸素濃度が90%に下がると酸素吸入させられ、80%を割ると医者に「ご親族を…」と言われるらしい。標高5000mでは酸素が平地の約半分になるが、血中酸素濃度が50%に下がったらご親族は間に合わない。幸い人間は短期間で血中酸素濃度を補正できる能力を備えていて、高所登山ではその能力を最大限に発揮させ、上手く「高度順応」することがカギになる。
日本の山歩きは朝4時起床、5時出発が常識だが、ゴーキョ・トレッキングでは早発ち無用。高度順応で1日に上がる標高差を500m以下に抑えるので、3時間も歩けば次の宿泊地に着いてしまう。6時起床、7時朝食、8時出発が基本で、行動中も意識的に「ビスタリ、ビスタリ」(ゆっくり行こうぜ)を心掛ける。
いよいよ4000m帯での行動開始。肺の中の酸素濃度を上げるため、口をすぼめて圧力をかけてヒュー、ヒューと音を出して息を吐く。そのリズムが乱れないペースで歩き続ければ、4000mを超えても呼吸が乱れることはない。呼吸に意識を集中し続けると想念が去り、座禅の境地はこんなものかと思ったりもする。
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12:00 マッチェルモ着。三方を山に囲まれた谷間の集落で、風の通り道からも外れているので穏やかで温かく、休養にはもってこいの場所。昼食を終えるとポーターが洗濯を始めた。彼等は「着たきりスズメ」と思い込んでいたが、そうでもないようだ。洗い終って干すとたちまち凍って棒ダラ状になるが、フリーズドライで半乾きになったのを着て乾かす。小生も洗濯物が溜まり始めていたが、乏しい冷水で洗っても汚れが拡がるだけで、棒ダラの人間乾燥機になるのも気が進まず、持参の衣類をやりくって「準着たきりスズメ」で通すことにする。ちなみに下界に下りるまでの2週間は風呂・シャワーが無いので、髪も身体も衣類と汚れを競うことになる。
夕景を撮りに裏山に登る。チョ・オユーに激しくからむ雲が天気の変わり目を予想させる。カトマンズを発つ時に「インドの長期予報ではヒマラヤの天候はクリスマス過ぎから崩れる」と言われた。昨年の同時期は吹雪いて難渋したという。幸い予報は今のところハズレているが、ここまで来るとケイタイも圏外で、最新の天気予報を入手する手段がない。もっともネパールには天気予報システムがまだ無く、インドの長期予報も極めてアバウト。本格登山隊は本国の支援部隊が気象データを解析して衛星通信で現地に送り、それに基づいて登攀作戦を練るが、我々はインドの長期予報がハズレ続けるのを祈りつつ、経験豊かなガイドの勘と判断に委ねるしかない。
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高度順応でマッチェルモに滞在。仲間2人が体調を崩した。前夜は元気だったのに朝食をパスしてショボンとしている。症状は突然の激しい嘔吐と下痢で、咳が止まらない人もいる。ベテラン添乗員によれば典型的な高度障害で、血中酸素濃度は下界なら「ご親族を…」のレベル。順応して改善することが多いが、更に下がれば下山するしかないと言う。小生は食欲旺盛、血中酸素データも「問題ナシ」で、いささか気を良くする。
順応訓練でロッジの裏山に登る。気になっていた天候の崩れもなく今日も快晴。前日夕方に撮影で登ったポイントを過ぎて標高4660mまで上がると、ガイドが「エベレスト!」と指差す。目を凝らすとチョラツェの左肩にピラミッドの頭がある。もっと登ればもっと見えるだろうと歩き出すとストップがかかり、調子に乗って高度を上げるとせっかくの高度順応が壊れると窘められた。
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いつものように8時出発。ジワジワ高度を上げ、ゴジュンパ氷河の末端のモレーン(氷河堆積物)にさしかかる。山道が石ころだらけになって傾斜も少し険しくなり、体調を崩した仲間のペースが落ちる。やがて左に小さな第1の湖が現れる。氷河からにじみ出た水が溜まったもので、氷河湖特有のエメラルドグリーンが美しい。
更に進むと少し大きな第2の湖。標高が20m上がっただけでここは全面結氷。「あれがゴーキョピークです」と言われて顔を上げると、黒っぽい坊主頭の丘の頂上まで登山道が伸びている。カッコいい山とは言えないが、さしたる苦労なしで登れそうに見える。
もう一段上がると一番大きな3番目の湖。その北端にゴーキョの集落がある。立派なロッジが数軒立ち並び、北アルプス登山拠点の涸沢よりも賑やか。12:50 ロッジ到着。我々のように南からゴーキョを目指して登って来たトレッカーだけでなく、東のエベレストベースキャンプやカラパタールからチョラパス(5330m)を越えて来た健脚の人たちもいて、ここのロッジだけは我々の貸切りではない。
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「ゴーキョに着いたらその日の内にピークに登ってエベレストの夕焼けを撮れ」と出発前に写真仲間から煽られたが、日没後にラム君と二人で行動するのは躊躇われるし、正直に言ってエベレストが写材としてそれ程魅力的とも思わない。ここはムリをせず、ロッジ裏のモレーンに登って夕焼けのチョ・オユーとチョラツェを狙うことにする。
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いよいよゴーキョピーク登頂の朝。天候は今日も快晴で、日頃の清く正しい行いを 神様が認めてくれたに違いない。5人の仲間の内一人は体調改善せず登頂を断念、早朝にポーターを伴って下山。一人は3年前に登頂済の由で別の撮影スポットに向かい、ゴーキョピークを目指すのは小生を含めて3人(他に添乗員、ガイド、副ガイド、小生ポーターのラム君の計7名)。前日まで不調だったT氏はすっかり回復し、ガイドをさしおいてドンドン登る(山頂まで見通せる坊主山なので迷子になる心配なし)。小生も絶好調で、酸素量半分でも日本の山より楽に標高が上がる。
5000mを越えると、前山に隠れていたエベレスト(8848m)とローツエ(8516m、第4位)がせり上がって姿を見せるが、雲が山頂にまとわり付いて消えそうもない。その右にマカルー(8485m、第5位)も頭を出す。
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頂上滞在は約50分。エベレスト山頂にかかる雲が一瞬薄くなって山頂が透けて見えたのを潮時に下山。登り2時間半が下りは1時間15分で麓の湖畔に戻る。そこまでは元気一杯だったが、そこからロッジまでの約300mの平坦な道で急に足が重くなった。ロッジ裏の石段、裏口からロビー、ロビーから2階の部屋への計30段の階段がゴーキョピークの600mの登りよりシンドく、部屋にたどり着いた時は息も絶え絶え。標高5千mのキビシさが一挙に顕れた。
夜間にロッジを揺るがす強風で何度も目が覚める。ヘッドランプを点けて外を覗くと1階のトタン屋根に白い粉が渦巻いている。遂に天候が崩れて雪が降り出したらしい。
この日の予定はレンジョパス(峠)を越えて西側を中腹まで下る長い行程で、朝食はいつもより早い5:30。まだ暗くて外の様子が分からず、明るくなるのを待って状況判断することに。6:30 再集合。雪は止んで星も出ているが、レンジョパスの雲の様子では峠の向う側が荒れている公算大。峠越えを断念して往路を下る決定に一同異議なし。
7:00 ロッジ出発。「富士山より低いところまで下って、ビールで大晦日の乾杯をしましょう」と添乗員がアメとムチをふるい、往路に3.5日かけたポルツエ・テンガ(3640m)まで一気に下ることに。そうなると俄然ペースが上がって写真など撮る余裕はない。往路で2泊したマッチェルモを素通りし、途中のロッジを借りてレンジョパス用のオニギリを食べ、ドーレも素通り。ひたすら歩いてようやく森林帯に入り、14:30 谷底のポルツエ・テンガのロッジ到着。キッチンスタッフはひと足早くロッジに着いて、いつものようにホットジュースで迎えてくれた。
ベッドに倒れ込んで眠っていたらしい。夕食を知らされて起き上がると同時に強烈な便意に襲われてトイレに駆け込む。食堂に下りて添乗員に状況説明すると「やっぱり来ましたか」。山を下ってからの「高山病」発症は腑に落ちないが、良くあるケースだと言う。小生に同情してくれたのか「ビールで乾杯」はナシ。前菜の「年越しそば」を一口食べた途端に吐き気。昼のオニギリとゆで卵、途中でかじったチョコレート、ロッジに着いて飲んだホットジュース、口から噴き出る吐瀉物は夫々食べた時の味と食感のまま。昼以降胃酸が分泌せず、消化が完全に停止していたらしい。
「高山病」は「酸素欠乏による臓器不全」で、ギリギリで頑張っていた胃腸に追加のムリが加わってプッツンしたに違いない。小生の血中酸素濃度は発症後も90%以上あるが、ヒマラヤ基準では「問題ナシ」でも、下界なら「要酸素吸入」の状態が10日続いたのだから、プッツンするのもムリは無い
谷底のポルツエ・テンガから尾根上のモン・ラまで標高差400mを登り、400m下ってキャンズマの手前から200m登り返してクムジュンへ。普通ならさしてキツイ行程でもないが、下痢腹と寝不足とエネルギー補給ゼロで山道を上り下りするのはシンドイ。いつもは肌身離さないカメラもラム君に預けて必死に歩くが、頻繁に腰を下ろして息をつく分だけ皆から遅れてしまう。12:00 ヨレヨレ状態でクムジュンのロッジに到着。
頭痛や呼吸障害の症状はないが、下痢腹でこの先ルクラまでの3日間を歩き通せるか不安になる。そんな時、添乗員が「ホテル・エベレストビューからルクラまでヘリの便があるか調べましょうか」と救いの手を差し伸べてくれた。渡りに舟だが、直ぐ飛んで来られるのは困る。1月2日は予定通りホテル・エベレストビューに泊まりたいのだ。
クムジュンからホテル・エベレストビューまで30分の登り。ヨレヨレ状態ながら大きなポリタンクを背負って登るオバサンを追い抜いた。シャンボチェの丘に立つホテルの用水は1973年の開業以来クムジュンの村人が担ぎ上げている。今はポンプで揚げることも可能なのだが、村人の現金収入の道を絶たないのがオーナーの宮原社長の方針という。
ホテル・エベレストビューは宮原巍氏が1970年から3年がかりで建設した本格的な山岳ホテルで、無手勝流で取り組んだホテル建設の顛末は同氏の名著「ヒマラヤの灯」に詳しい(文芸春秋社刊 初版1982年、絶版)。小生が1996年秋に訪れた時はヘリでトンボ帰りで、庭先で写真を撮っただけでお茶も飲まずに飛び帰ったのが心残りだった。世界で一番標高の高いホテルに泊まる感興もさることながら、1青年がネパールの発展には観光しかないと一念発起してベンチャーを立ち上げ、日本とネパールの多くの人達を巻き込んで立派なホテルを完成させた心意気を実感してみたい。それで今回のゴーキョツアーに組み込まれていた1泊を楽しみにしていたのである。
12室の小ホテルだが、がっしりした石壁に大判のガラスをはめ込んだ堂々たる造りで、客室の十分なスペースと落ち着いた雰囲気にも一流ホテルの風格が漂う。どの部屋からもガラスドアを通してヒマラヤの核心部が見える。ローツェの大岩壁、その上に山頂を覗かせるエベレスト、阿弥陀如来座像を思わせるアマダブラム、ドアを開けてベランダに出ればタムセルクの端正な姿もある。下痢腹でも心配なく三脚を立て、残照に浮かぶ名峰をスローシャッターで撮る。
食事も「山小屋メシ」ではない。しかるべき修行をつんだシェフの腕前を感じさせるコース料理で、日本人客には日本料理が供される。それにつけても無念は折角の正月料理を食べられなかったこと。おせち料理やお雑煮にも食欲ゼロ、一口でも食べたらどうなるかも体験済みだから仕方がない。
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朝一番でカトマンズからホテルに上がって来る小型ヘリが帰りにルクラに寄ってくれることになった。ラム君と2人分の料金は安くはないが、2日間の行軍免除のペナルティとして「しょうがない」と思える金額。予定より40分遅れて着いてローターを回したままのヘリに乗り込むとすぐ離陸、谷間を滑るように下って6分でルクラのヘリポート着陸。
ヘリを降りると待っていた現地スタッフとラム君が小生の荷物を担いで走り出す。ヘリポートから国内線ターミナルまで300mの坂道をダッシュできず、ゲートに倒れ込む前に乗り継ぎ便のプロペラが回り始めてタッチアウト。スタッフの片言の日本語の説明が理解できず英語でも要領をえない。添乗員のケイタイに救いを求めると既に報告が届いていて、チケット書き換え中だから安心して待てと宥められる(添乗員氏はネパール語も完璧なのだ)。2時間後の便でカトマンズに着いた時は本当にホッとしたが、その後の顛末は次号に続く。
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