今年の山歩きのテーマは「高所順応」。秋のヒマラヤ・トレッキングに備え、できるだけ標高の高い小屋に泊まって薄い空気に体を慣らすことを眼目にした。この程度の「高所順応」では「気休め」にしかならないが、高度障害に神経過敏なつれあいには「気休め」も重要。「山酔い」(軽度の高度障害)は「乗り物酔い」と同じで、「今度もヤバイかも…」と気に病むことで重症化する。「今度は大丈夫!」と思い込むトレーニングも有効と考えた次第。
それはさておき、一昨年あたりから山の雰囲気が変わってきた。若い登山者が目に見えて増えているのだ。以前はハッキリ言って還暦過ぎのジイサン・バアサンばかりだったが、昨今は「山ガール」ばかりでなく、40・50代や学生のグループが目につき、小さな子供連れに出会うことも多くなった。テレビの山番組が増え、本屋に山雑誌の平積みが出来ていることからも、いわゆる「第三次登山ブーム」の進行がうかがえる。
都市生活の庶民が大挙して「山登り」に出かける社会現象を「登山ブーム」と呼ぶならば、江戸中期の富士講や御嶽・白山などの信仰登山がそのハシリだろう。江戸の下層町人に多少のオカネが回るようになり、彼等を非日常体験に駆り立てる余裕が生れた時代である。明治・大正・昭和初期の「近代登山」はごく限られた高級遊民や文人登山家の時代で、大衆が大挙して山に登ったのはずっと後の1960年代、いわゆる「第一次登山ブーム」である。戦後復興を脱して高度成長期に入り、都市に流入した大衆が乏しいオカネと余暇をやり繰って週末登山に繰り出した時代だ。日本登山隊のマナスル初登頂がブームに火をつけたことも間違いない。1980年代の「第二次登山ブーム」は中高年の「百名山」ラッシュ。若い世代が山登りを「3K」と見下して敬遠する中、現役を退いた世代が持て余したヒマとオカネで「山のバブル」現象を起こした時代である。深田久弥「日本百名山」の再発掘と皇太子の山好きへのあやかりも寄与したようだ。
昨今の「第三次登山ブーム」はバブル崩壊後の長い閉塞期の末にやってきた。その先駆が「山ガール」だったことは社会現象として興味深い。若い女性の単独山行を「アブナイなあ」と思うオジサンの余計な心配をよそに、彼女たちは個性的なファッションに身を包み、大きな荷物を背負って黙々と歩く。山のマナーも立派なものだ。今の日本を覆う閉塞感は「伝統的男社会」の行き詰まりの末と思うのだが、日本の将来は彼女たちがしっかり背負ってくれそうな気がする。
冬山をやらない(出来ない)我々は手軽なスキーで冬山気分に浸るしかなく、標高が高くて山岳展望の良いスキー場を探すことになる。本シーズンは年末のゴーキョでの体調不良が尾をひき、2月末になって近場の北八ヶ岳に出かけた。標高2237mにロープウェイが架かるこのスキー場はゲレンデの長さ・難易度が我々にちょうど良く、近くに蓼科温泉郷があるのも好都合。山岳展望は満点とまでは言えぬが、ラクをしながらゼイタクを言ってはバチがあたる。
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キタダケソウを見たいと思っていた。南アルプス北岳固有の高山植物で、山頂直下の限られた場所で梅雨明け前の短い期間にしか咲かない。雨降り登山は気が進まないが、日本で二番目に高い北岳山頂直下の肩ノ小屋に泊まれば高所順応訓練になる。登山口の広河原行き登山バスの運行が始まるのを待って出かけた。1日目は広河原から3時間半登って6合目の御池小屋泊。宿泊者は定員の半分程でユッタリと英気を養えた。
2日目、朝6時出発。草すべりの急斜面に残る雪渓はザクザク状態でアイゼン無しでも大丈夫。体が半年前のゴーキョを覚えているのか、息が切れることもなく快調に高度を稼ぎ、標準時間で肩ノ小屋に到着。小屋番に「キタダケソウはどうですか」と聞くと、「まだ残っているかなあ」とつれない返事。今年は寒暖の変動が激しく冷雨も降ったので、早々にショボクレたという。そう言われても、ここまで来たからには現場に行くしかない。
北岳山頂(3192m)を越え、吊り尾根分岐から八本歯コルへの急斜面を下る。途中の分岐を右に折れ、北岳山荘へのトラバース道にキタダケソウの群落があると聞いていたので、目を凝らして10分ほど進むと、右の斜面にそれとおぼしき花を見つけた。確かにショボクレてはいるが、キタダケソウらしい孤高の雰囲気を留める。道はロープで通せんぼになっているが、もうちょっと先を見たいのが人情。失礼してロープを跨いで10メートル進むと、斜面に数株の群落があった。
キタダケソウが絶滅に瀕しているのは地球温暖化のせいではない。心ない人たちの盗掘が原因なのだ。中には商売で盗る人もいるだろうが、大部分は「愛好家」の仕業という。高山植物を下界に持ち帰っても育つ筈がなく、この種の無知蒙昧な「愛好家」は「花泥棒」とさえ呼べない。自己中心で恥を知らない狼藉者が増えたのは何故だろう?
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荒川三山は南アルプス中央部に聳える悪沢岳(別名東岳 3141m)中岳(3063m)前岳(3068m)の総称。この連山に繋がる赤石岳(3120m)を加えた縦走ルートは百名山踏破終盤の2007年にツアー登山で踏破済みだが、台風に遭遇して登山を楽しむどころではなく、いつかリベンジしたいと思っていた。4泊5日の縦走となるとそれなりの覚悟が要るが、標高2500m~3000mを3日間歩けば高所順応になる。天気予報は怪しかったが意を決して出かけることにした。
麓の椹島ロッジに前泊して出発。6年前と全く同じコースを今回は自力で歩く。迷いそうな箇所はなく縦走路に出れば2時間毎に小屋があって安心だが、初日の千枚小屋までの標高差1500mの登りが長い。実は登山道と平行して8合目まで林道が通じているのだが、余程のコネが無いと車での入山は不可らしい。林道終点で昼食、椹島ロッジで調達したノリ巻き・いなり寿司の弁当が嬉しい(食欲を呼びゴミが出ない)。予定の7時間で千枚小屋到着。3年前に火災で焼失して立て替えられたばかりのピカピカで、床張りのない地面むき出しの構造が珍しい。
2日目、千枚小屋から1時間の登りで千枚岳山頂に立つと、そこから先は丸2日の稜線歩き。多少厳しいアップダウンがあっても気分は爽快で、何より富士山を見ながら天空の花畑を歩くのが嬉しい。
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富士山に登って高所順応するつもりで富士宮口7合目の小屋を予約済みだったが、前日の豪雨の影響を聞こうと小屋に電話しても通じない。ラジオのニュースで富士山南麓一帯が停電中と知り、豪雨の被害が登山道に及んだやもしれず、急遽行き先を木曽御嶽に変更。山頂直下の山小屋(標高3000m)に泊まれば高所順応の効果は同じだろう。御嶽には2002年に百名山用の最短ルートを登ったが、今回は木曽福島に前泊して江戸時代の信仰登山の道をたどることにした。
と言っても木曽の宿場から山頂まで歩き通したわけではない。今は標高2150mまでゴンドラが架かり、終点から標高差900mを登れば御嶽山頂。ゴンドラを降りて10分で七合目に合流、行場小屋には今も信仰登山の雰囲気が濃厚に漂う。御嶽山は明治37年まで女人禁制で、女性参詣者は八合目の女人堂が終点だった。ここを過ぎると山頂まで急登が続き、登山道脇に切れ目なく御堂や石像・石塔が並ぶ。山頂にある御嶽神社は8月末まで神職が詰めていた筈だがオフは無人。我々が泊った二の池の小屋は250人収容だが客は4人(夏のシーズンを過ぎた山ではこんな経験が何度もある)。この小屋では天空のヒノキ風呂と第一次登山ブームの頃を思い出させるチョー簡素な「小屋メシ」のミスマッチにも遭遇した。
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上高地にバス道路が通じたのは昭和8年(1933年)。それまで上高地に入る登山者は安曇野の島々宿から徳本峠(とうごうとうげ)を越えて明神池に出た。明治中期に日本アルプスを世界に紹介したウェストンは「日本アルプスの登山と探検」(岩波文庫)冒頭に徳本峠越えを記し、峠からの穂高連峰の絶景を讃えた。大正期には高村光太郎・智恵子や芥川龍之介も峠に足跡を残し、彼等が宿泊した峠小屋が当時の姿で保存されている。
峠の標高は2135mで、ヒマラヤ旅を2週間後に控えての「高所順応」にはやや不足だが、峠から霞沢岳の往復は足慣らしに十分。3連休の渋滞で登山口の上高地行きのバスが遅れ、峠小屋に着いたのは秋の陽が落ちる4時過ぎ。大正時代の小屋の隣りに新館が2010年に増築されたが、それでも定員は30名で、予約がないと泊めてもらえない。それだけに親戚の家に集まったような和やかな雰囲気で、家庭料理を思わせる食事もおいしく、こんなに心のなごむ山小屋は滅多にない。翌日の霞沢岳往復後の連泊をお願いしたが満員でダメと断られた。
翌朝出発時、ダメモトで再度連泊をお願いすると、宿帳の我々の年齢を見て渋々許してくれた。宿無しの心配がなくなって気が緩んだのか、霞沢岳往復が地図で想像した以上にキツく感じられ、4時を過ぎても小屋に戻れない。最後の下りを急いでいると小屋番が登って来た。老々ペアの未着を心配してくれたらしい。小屋の好意に恐縮し、向後の自戒を肝に命じた次第。この夜の宿舎は歴史の籠った旧館で、これも忘れがたい思い出になった。
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