オリ・パラ組織委員会評議会での元総理の「会長挨拶」がコロナそっちのけの大騒ぎを起こした。ご本人は身内の女性メンバーを褒めたつもりらしいが、「女は話が長い」の駄弁が「女性蔑視」と非難された。聞き書き(発言をそのまま筆記 、下は朝日新聞デジタル版から)を読むと、話のとりとめのなさは「昼酒オッサンのヨタ話」レベルで、メデイアが待ち構えている場で準備なしにダラダラしゃべったようだ。この御仁は話し出すと止まらないそうで、この挨拶も40分余だったという。この調子で延々と「独演会」をやる人に「女の話は長くてまとまりが悪い…」などと言う資格はない。
これはテレビがあるからやりにくいんだが。女性理事を選ぶっていうのは、4割、これは文科省がうるさくいうんですよね。だけど、女性がたくさん入っている理事会は、理事会の会議は時間がかかります。これは、ラグビー協会、今までの倍時間がかかる。女性がなんと10人くらいいるのか? 5人いるのか? 女性っていうのは競争意識が強い。誰か1人が手をあげて言われると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです。
結局、あんまりいうと、新聞に書かれますけど、俺がまた悪口言ったとかなりますけど、女性を必ずしも数を増やしていく場合は、発言の時間をある程度、規制を促していかないとなかなか終わらないで困ると言っておられた。誰が言ったとは言いませんけど。
私どもの組織委員会にも女性は何人いました? 7人くらいかな。みんなわきまえておられて。みんな競技団体からのご出身であり、国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです。ですから、お話もシュッとした、的を射た、そういう我々は非常に役立っておりますが。欠員があるとすぐ女性を選ぼうということにしているわけであります。
この発言のポイントは「女を入れると会議が長くなる」もさることながら、「わきまえる」、つまり「オレのやることにグチャグチャ言うな!」にあるのだろう。日本の大組織に於ける合意形成は、「大ボスの意向」(威光)に一本化する事前調整のプロセス=「根まわし」で決まる。やりたいことは、根まわしの段階で「大ボスの意向」に仕立て上げられていることが前提で、会議はそれを周知するセレモニーなのだ。会議の場で「自由闊達な意見」など述べるのは「わきまえない」行為で、そんな場違いの人は(男女を問わず)ダメ、とおっしゃりたかったのだろう。
大ボスが超能力で、世界が見え、諸般の状況や見解を正しく俯瞰し、その上で「意向」を行使する内は組織は安泰だが、成功が続くと「唯我独尊」の境地に至り、そうなると「わきまえた」情報しか届かず、我が天下は太平と錯覚する。組織は思考停止し、非常識が常識になり、都合のよい内部ルールが跋扈すれば、事件が起きるのは時間の問題。世を騒がせたお詫びに大ボスが退場を余儀なくされる。組織は「ガバナンス」を掲げて変身を計るが、これは独裁専制から民主主義への移行で、面倒な手順と試行錯誤が伴い、ボスから下っ端まで賢明でなければ組織は機能しない。
組織のトップは、仮に「お飾り」であっても、大変な重圧を背負う。話題の組織はスポーツ団体だけでなく、国内外の関係機関、政界、財界、スポンサー、報道関係等々の利害・思惑が渦巻く魑魅魍魎の世界で、トップは並みの神経では務まらない。前任は「挨拶」こそ「昼酒オッサン」級だが、海千山千を出し抜いて総理に昇りつめた御仁ゆえ、カオが広く、機を見るに敏で、ハラが座り、ドスが利くに違いない。その「余人をもって替え難い」任務を、このタイミングで引き継ぐ新会長の度量は驚嘆に値する。
その新会長を「男みたい、いや、男まさり」と評した政治家がいた。誉め言葉のつもりだろうが、料簡違いも甚だしい。女の「頭脳」が男と同等以上なことは学校の成績を思い出せばよい。「発信力」は女子テニス優勝者と昼酒オッサンのスピーチを比べれるまでもなく、「統治力」もサッチャー、メルケル、蔡英文(台湾)、ソルベルグ(ノルウェイ)、アーダーン(NZ)を挙げるまでもない。日本のジェンダーギャップ指数(男女格差)が世界121位は、日本が国民の能力の半分しか使っていないことを意味する。これでは日本が凋落するのも当然ではないか。
小生は1995年から8年間、小売店舗を全国展開する事業に携わった。小売業(B to C)は親会社を含めて初めての経験で、店長の人材を派遣社員や契約社員から登用したが、頭角を現す店長には女性が多く、大都市のコア店舗も躊躇なく女性店長に任せた。管理職に登用して将来は役員と期待した女性もいたが、家庭の事情を理由に昇進を固辞された。20年前のことだが、今も女性がハンデなしで働くには諸々の壁がある筈だ。米国にも「ガラスの天井」があるというが、女性大統領の出現は時間の問題。日本も今回の女性会長出現を機に、ジェンダーギャップをなくすための意識と社会の仕組み改革を急ぐしかない。「ガラパゴス爺さん」も要らぬ心配などせず、党派を超えて精一杯の声援を送ろうではないか。
ボクの写真遍歴シリーズ:
写真事始め(1953~57) 写真遍歴‐2(66~86) 写真遍歴-3(86~94) 写真遍歴-4(94-95)
1995年6月に2度目の米国駐在から帰国し、関連会社に出向の辞令をもらった。「民間天下り」と思われるかもしれないが、事業拡大でネコの手も借りたい職場で、外来種の老ぼれネコも日向ぼっこさせてもらえず、その日からガンガン引きまわされた。国内の仕事は新入社員の工場勤務以来で、日本流の名刺の出し方もビールの注ぎ方も知らないヘンな「帰国オヤジ」に、同僚も取引先もさぞビックリ・当惑したことだろう。
新横浜の職場は、朝6時20分に千葉の家を出て、バス+電車3本+新幹線で片道1時間45分、夜9時帰宅がルーティーンになった。全国各地の拠点出張や、97年7月から2年間の大阪勤務もあって、文字通り「東奔西走」が2003年6月まで続く。折からのケイタイブームで業績は順調、スタッフの陣容もしっかりしていたので、いろいろ面倒が起きても都度切り抜けられて、余暇にあちこち遊び歩く余裕を持てたのは、会社員の最後の仕事場としてまことにラッキーだったと感謝している。95年はもみくちゃで写真は1枚もないが、96年になると「道楽」がいくつもスタートして、写真もいろいろ残っている。
「日本百名山」は作家深田久弥が山岳雑誌に連載した随筆集で、1964年に著書にまとめて刊行された。地味な内容で売れなかったが、当時の皇太子(今上天皇)ご愛読書と噂され、80年代の中高年登山ブームに火を点けた。
ブームから周回遅れの百名山挑戦を言い出したのはカミさんだった。小生は幼少時から「運動オンチ」で、徒競走は常にビリ、逆上がり・跳び箱出来ず、球技全くダメ、体育の成績は2(時に1)だった。米国駐在時にゴルフに手を染めたのは「業務上過失」で、場数を踏んでも全く上達せず、二足歩行以外の運動能力ナシと自覚して「非体育系」ライフスタイルを通してきた。
カミさんは小生の真反対で、体育の成績はずっと5だったそうな。今も体が身軽に動きテニスに励む「体育系」である。小生が単身赴任中の92年に介護から開放されると、新聞の登山ツアー広告を見て友人や近所の奥さん達を誘って山歩きを始め、「百名山」に興味を持ったらしい。小生が帰国すると、小生を家に置いて山歩きは気がひけたらしく、「老後の体力維持・生きがい・やる気」と小生を焚きつけた。他人が決めた目標を具体的に展開し、実行計画を立てて手配するのは「会社員」の仕事。業務命令を受けた気分で、婦唱夫随の百名山が始まった。(日本百名山の解説と登山レポートの目次)
初回の出動はアクセスが容易な上越国境の谷川岳にした。関越トンネルの真上の山で、標高は1963mにすぎないが、南面の岩壁は800名超のクライマーの命を奪った「魔の山」である(遭難死者世界最多でギネス認定。ちなみに世界の8千m峰での死者は合計で640名)。
もちろんシロウト用の登山道があり、百名山のガイドブックでは天神平のロープウェイ山頂駅(標高1310m)から標高差650mを2時間半で登るルートを薦めている。それを生意気にも「手抜き登山」と見て、麓の駐車場(標高700m)からマチガ沢沿いの西黒尾根を登ることにした。モノを知らないのは恐ろしいことで、昔の遠足は水筒持参だったのを思い出し、ペットボトルのお茶を1本持って出発した。
西黒尾根は山頂まで標高差1200mの連続急登で、上り4時間が標準。前半は樹林の中を登るが、後半は裸の尾根歩きで真夏の太陽をまともに浴びる。行程の半分でペットボトルが空になった。あまり水を飲まない連れ合いから半分もらったがそれも空になり、その先の記憶がないのは、熱中症で朦朧としていたのだろう。意識が戻ったのは、山頂近くに残っていた雪渓の土の味がする雪をむさぼり食ってからで、真夏の昼間に標高の低い山を水不足で登るのは狂気の沙汰と思い知った。以降、1時間あたり500㏄の水を持ち歩くようにした。標高差1200mの日帰り登山の標準は登り4時間+下り3時間で、途中に水場や売店がなければ、3.5リットル(3.5Kg)の水を担いで登ることになる。
96年8月4日、谷川岳 西黒尾根上部。 | 山頂下の雪渓。この雪を食って生き返った。 |
谷川岳登山の翌週、富士山に登った。ポピュラーな吉田口(2305m)と富士宮口(2380m)は麓から5合目までバスで行くが、須走口の駐車場(1960m)から登ったのは、谷川岳の時と同じ「本格登山」の生意気な気負いがあったかもしれない。昼過ぎに登り始め、七合目(2930m)で日が暮れて小屋に泊まった。夕食の時間が過ぎていたが、ランプの暗い光で二人分の幕の内風の夕食を作ってくれた。蚕棚で寝ていた人に詰めてもらい、出来たスペースにもぐり込んだ。
目を覚ましたら周囲に誰も居なかった。山頂でご来光を迎えるには、夜半に小屋を出なければいけないのだ。我々が出発したのは2時過ぎだったと思う。須走口の登山道は8合目で吉田口の登山道と合流し、登山者が数珠繋ぎになる。渋滞に加えて高度に弱いつれあいのペースが落ち、9合目でご来光になった。
吉田・須走口の山頂はお釜(火口縁)北東部の久須志神社(3710m)とされているが、富士山の(日本の)最高点はお釜を半周した剣が峰(3776m)にある。最後の「馬の背」は胸突き八丁の直登で、高度障害でバテバテの目には地獄の「針の山」に見える。「もうムリ」と登頂を断念する人が少なくなく、連れ合いもその一人だった。そんなわけで、連れ合いの富士山初登頂は、厳密に言えば2009年9月の再登時になる。
その後ヒマラヤ・トレッキングをするようになってから、高度順応で富士山に5回登った。2020年夏に標高ゼロの田子の浦海岸から3泊4日で登頂する「富士山登山ルート3776」に挑戦し、富士山の「登り納め」にするつもりだったが、コロナ禍で山小屋が通年閉鎖になって実現しなかった。「もうヤメなさい!」との富士山のお告げかもしれない。(富士山の特集ページがあります。)
96年8月11日 9合目でご来光。 | 吉田口山頂直下の登山者の列。 |
噴火口の反対側に最高点の剣が峰。 | 当時は山頂にレーダードームがあった。左の急坂が「馬の背」 |
日本の最高点、3776m | 山頂からの眺め。 |
富士登山の後、千葉から日帰り登山が可能な東北南部の磐梯山と安達太良山に登って、百名山初年は4座で終了した。97年以降の百名山の要所は次回以降ご紹介するが、百名山の解説と登山レポートをご覧ください。
この頃持っていたカメラは Nikon の N-90 と F-3 だったが、山に持ち歩いたのは92年に中古で買った F-3 と35~70mmズームだった。 N-90 より少し軽いこともあったが、「山で壊しても中古なら諦めがつく」気分もあった。運動神経が鈍く筋力が乏しい小生は、下り坂で他愛なく転ぶ。幸い大ケガをしたことはないが、首から下げたカメラを木に引っかけて落としたり岩角にぶつけたりした。プロ用の F-3 は頑丈だったが、後にデジタル一眼に替えてからは、何度もボデイを歪めたりレンズを曲げたりした。非力なオーナーの百名山に付き合わされたカメラに受難の年月が続くことになる。
9月7日、磐梯山に登頂 | 9月15日 安達太良山に登頂 |
カミさんに給料や素行でグジグジ言われた記憶はないが、「遊び」では百名山以外でも尻を叩かれた。老後の趣味は写真と言いながら、相変わらず無造作に撮るだけで、「お稽古」らしいことを何もしていなかった。そんなグータラを見かねたのだろう、新聞の旅行広告で見つけた「尾瀬写真撮影会」に「行ってみたら」とけしかけられた。煮え切らずにグズグズしていると、申し込んでオカネも払ってくれ、そこまでされたら行くしかない。
カメラは N‐90 で良いとして、問題は三脚。風景写真にガッチリした三脚が必需品と知っていたが、持っていた安物三脚はカメラを乗せるとグラグラして役に立たない。本格的な三脚はカメラと同じくらい高価で、またグズグズしていると、「晴海で写真用品の展示即売をやってるよ」と教えられた。そこまで言われたら行って買うしかない。
この時に買ったカーボングラスファイバーの三脚(Velbon Carmagne 640)と雲台(カメラを取り付ける接続器)は、その後世界各地を巡って今も現役だが、出番はめっきり減った。軽量三脚とは言え一式3Kgの三脚は老躯にこたえるだけでなく、デジタルカメラの進化で高感度撮影が可能になり、レンズのブレ軽減機能も改良されて、薄暗い時間帯でも手持ち撮影が可能になったからだ。そんな時代になってもマジメな写真家は必ず三脚を立てて撮るが、小生にはその根性がない。
尾瀬撮影会の参加者は5~6名だったと思う。鳩待峠から尾瀬ヶ原に下り、若い講師が撮影ポイントを決めて撮った。見晴の小屋に泊まって翌日も昼まで撮り歩いたが、撮影会は個々勝手に撮るだけで、講師が撮り方を講習するわけではない。鳩待峠から下るバスで隣に座った講師とフィルム談義になり、FujiとKodakの各種フィルムの特性についての意見が一致して、少し自信がついたことを思い出した。
至仏山 | 白樺の林にうまく日が当たってくれた。 |
至仏山 | 池塘 |
北極・南極・ヒマラヤを「世界三極」と呼ぶと何かで読んだと思っていたが、検索しても出てこない。小生の造語だったかもしれないが、北極圏と南極圏に行ったので、ヒマラヤにも行って「世界三極踏破」にしようと考えた。
ヒマラヤは、キャラバンを組んで空気の薄い山道を何日も歩くものと先入観があったが、楽チンなツアーを見つけた。チャーター便でカトマンズに直行、1週間でヒマラヤの絶景ポイントを巡り、移動はヘリとタクシーで山歩きナシ、ツアー名は「川口邦雄先生と撮るフォトツアー」だった。当時は写真業界を知らず(今も知らないが)川口先生のご高名も存じ上げなかったが、とにかく「楽チンヒマラヤ絶景探訪」が気に入って申し込んだ。この旅のご縁で友山クラブで川口先生にご指導いただくことになり、ツアー会社は今もお世話になっている。
仕事はヒマではなかったが、小生が居なくても誰も困らないので、遠慮なく休暇をもらった。百名山は婦唱夫随の二人旅だが、カミさんはヒマラヤを敬遠した。そのカミさんも2013年以降ヒマラヤを4回訪れたが、エベレストを見ていない。今になって悔しがっているが、96年の縁を逃した祟りかもしれない。
初めて見る「世界の屋根」に息を飲み「やっぱりスゴイ!」と思ったが、今思うにあの時に小生が見たヒマラヤは、「河童橋から見た穂高」だった。上高地から穂高の眺めも悪くはないが、1日歩いて涸沢まで行けば穂高の迫力は圧倒的になり、穂高の山頂に立てば「神の気配」を感じる。ヒマラヤも山道を何日も歩き、薄い酸素に喘ぎ、聖域に立ち入って見えてくるもので、手軽にヘリやタクシーでピョンと行ってもダメなのだ。後に標高5千mで見たヒマラヤも、8千mまで命がけで登った人が見るヒマラヤに比べれば、せいぜい「涸沢からの穂高」だろう。
ヒマラヤから帰って「世界三極」なる写真集を作った。当時はネットで手軽に作れる時代ではなかったが、プリント写真と文章の原稿を郵送すると、安い費用で定型の写真集を制作してくれる業者があった。駆け出しのアマチュアが写真集とはおこがましいが、100部刷って「定年記念」(97年9月)に知人友人に配った。 96年のツアーレポートは「ネパール」でご覧ください。
カトマンズに着陸前、機窓からエベレストとローツェが見えた。 | カトマンズからエベレストビューホテル(3800m)にヘリで移動。滞在は1時間少々。正面の山はタムセルク |
ホテル前からの展望。左にエベレストの頭、右はローツェ。 | ヘリで行ったランタン谷、左端がランタンリルン(7725m) |
ポカラのプーンヒルにはタクシーで。左はアンナプルナ・サウス、 右はマチャプチャレ。 |
ポカラの町はずれから朝のヒマラヤを撮影。 |
カトマンズの旧王宮広場。 | カトマンズ郊外のサワヤンブナート寺院。 |
カトマンズ旧市街。シバ神と奥さんが民を見下ろす。 | 街角でニワトリを売る。 |
ポカラのバス乗り場。 | ポカラの展望ポイントで土産物を売るチベット人姉妹。 |
成田を出発する時、売店で「写ルンです」を買った(800円位だったと思う)。通称「使い捨てカメラ」だが、メーカーは「レンズ付きフィルム」と呼ぶ。当時は「パノラマ専用」があり、超広角プラスチックレンズで35mmフィルム2コマ分にパノラマを撮るスグレモノだったが、廃版になったらしい(右写真は標準品)。
下は「写ルンです」で撮ったパノラマ。「使い捨て」の呼び名は失礼だと思う。
|
プーンヒルからのパノラマ。 左からアンナプルナ・サウス()、マチャプチャレ()、アンナプルナⅣ峰(m)、アンナプルナⅡ峰() |
前にも書いたが、ツアーに川口先生の奥様が同行され、ツアー参加者は先生が主催する写真展に参加できる特典があるので出展するように薦められた。帰国後も電話でフォローがあり、例会で出展作品を審査するので、見学を兼ねて来るように言われた。当時の例会の会場は東京駅の近くで、新横浜の職場からの帰り道だった。
ツアーで撮ったスライド写真は1000枚以上あったが、その中から応募作7点を選ぶのに呻吟した。山の写真より人の写真に気に入ったのがあったので、ダメモトと思いつつ候補7点をフライトボックス(写真)に並べると、先生は一瞬にして下の3枚を選び出し、ルーペで隅から隅までチェックして「この2枚は少しブレているが、なかなかイイですよ」とおっしゃる。
僅かなピンぼけやカメラブレでも、大きく引き伸ばして作品にするとアラが目立つ。ピントがピシッと出ていないと「何でこんなものを持ってきた!」と叱りつける先生が多いと聞くが、川口先生は「多少ボケてもブレても、見せたいものがしっかり出ていれば、それはそれで優れた作品です」と評される。そんな先生のおかげで、友山クラブを25年続けることが出来た。
|
|
「町角にて)」 Nikon F-3、 Nikon 35-70mm、 Kodachrome-200 カトマンズの隣町パタンを早朝に散歩、街角の祠で出会った兄妹。遅いシャッターで少しブレた。 |
|
|
96年に始めたことがもう一つある。米国は全50州を踏破したが、日本はまだ訪れたことのない県が西日本に12県残っていた。気になると落ち着かず、ボチボチ片づけることにした。
とっかかりに、96年の春連休を使って福井と和歌山をつぶす1500Kmのドライブをした。途中で富山の五箇山、石川の永平寺、京都の天橋立に寄って名所探訪の穴埋めをした。翌97年の5月連休は沖縄を訪れ、石垣島、西表島、日本最南端の波照間島に足を伸ばした。97年7月から2年間大阪勤務になって消化がはかどり、最後の佐賀県を99年4月に日帰りで訪れ、全47都道府県踏破を完了した。
米国50州、日本百名山、世界三極、日本全都道府県と連ねると「偏執狂の記録マニア」と誤解されそうだが、「目の前の仕事を最後まで片づける」会社員の習性が出ただけで、本人は物事にこだわらないグータラ人間と自覚している。
96年4月 福井 東尋坊 | 96年5月 和歌山 那智 |
97年5月 沖縄波照間島 日本最南端の碑 | 97年5月 石垣島 神埼 |
97年7月 高知 四万十川 | 97年12月 大分 耶馬渓古羅漢 |
97年12月 長崎 浦上天主堂 | 99年4月 佐賀 吉野ヶ里遺跡 |
当時友山クラブは写真展を年2回開催していた。春は新宿野村ビル1階の大きな会場で、友山クラブ会員約50名と川口先生の海外ツアー参加者が一人3点出展する大規模な写真展だった。秋の写真展は渋谷の写真機材店付属のギャラリーで、友山クラブ有志が各2点出展した。97年3月に入会した小生にとって10月の写真展は会員としての初参加だった。
先輩ベテランの秀作の中で存在感を出すには、少し毛色の変わった作品にしようと、5月に沖縄の旅で撮った写真を候補作に出した。先生は下の2点を選んで「樹霊」とタイトルを付けてくれた。撮った本人は「何となく面白そうな写真」としか思っていなかったが、先生は「樹木の神秘的な生命力が出ている」と評してくれ、「ナルホド、何となく撮るのではなく、何をテーマにするか意識して撮るのだな」と、少し分かったような気分になった。
「石垣島」はリコーの GR‐1で撮った。クラブの先輩に薦められて買ったカメラで、手のひらに乗る超小型の35mmフィルムカメラだが、ボデイはマグネシウムダイキャスト、28mmの固定焦点レンズはスグレモノで、値段は一眼レフに近かった。カメラに付いている小さいフラッシュが、この写真で良い仕事をしてくれた。
固定焦点のレンズは収差が少なくキレが良いが、画面の切り取りが下手だと「絵にならない」。構図の作り方の勉強になるからと薦められたのだが、ズームレンズで安直に撮るクセが染みついた小生には使いこなせず、殆ど出番を与えないまま手放した。蛇足ながら、小生はコレクションの趣味がなく、使わないカメラは未練なく中古処分して、次の機材購入の足しにしてきた。
「石垣島」 Ricoh GR-1 28mm Fuji Provia-100 石垣島をドライブして偶然見つけたヤシ園で撮影。小さなフラッシュの光でヤシの幹が浮かび出た。 |
|