衆議院選挙が終わって1カ月、結果に複雑な思いはあるが、「無事に終わった」ことに感慨も湧く。と言うのも米国をはじめ選挙が「無事に終わらない」国が多いからで、投票終了から数時間で全国で集計を完了して全当選者が確定、国民がその結果をすんなり受け入れる国はあまりないだろう。その点でこの国は「文明国」と自慢して良いかもしれない。

だが、選挙が民主主義の基本システムとして「民意を平等に反映」しているか、という点では、スッキリしない気分が残る。下の表は比例代表で各党が得た票数と獲得した議席数を比較したもので、最下段に得票率で議席を配分した場合の各党の議席数を示した(得票数の順に並べた)。

  自民 立憲 維新 公明 共産 国民 れいわ 社民 その他
得票数 (千) 19,915 11,492 8,051

7,114

4,166 2,593 2,215 1,018 900 57,464
比例得票率 34.7% 20.0% 14.0% 12.4% 7.3% 4.5% 3.9% 1.8% 1.7% 100%
獲得議席数 261 96 41 32 10 11 3 1 10 465
議席比率 56.1% 20.6% 8.8% 6.9% 2.2% 2.4% 0.6% 0.2 % 2.2% 100%
得票率で
議席を配分
161 93 65 58 34 21 18 8 7 465

比例代表は政党名の投票なので、各党の得票数は有権者の政党支持の分布に等しい。得票数と議席数のネジレは、小選挙区・比例代表併用という制度の特性から生じたもので、多数党が実勢以上に大きく、少数党はより小さくなる仕組みとして働き、民意を代表する議員を公平に選出するという民主主義のルールから外れることになる。仮に各党の得票率で議席を配分すると、自民+公明=226議席で過半数を割り、他党を連立に入れないと政権が成り立たなくなる(全国を1区とした計算で、中選挙区制の集計では違う結果になるだろうが)。

日本の選挙制度が中選挙区制から併用制に変わったのは1996年で、議論が起きた当時日本に居なかった小生は経緯に疎いが、米国流の2大政党政治を指向して小選挙区制に移行したと記憶する。つまり欧州は多党乱立で政治が混乱して国が衰退、米国は2大政党で政治が安定して国が隆盛、だから日本も米国流に、という短絡思考があったのだろう。

だが米国の2大政党(民主党・共和党)は19世紀の白人エリート時代の遺物で、21世紀の多様化した社会で生じる国民の政治的ニーズを、旧来の2大政党が受け止めきれていないことは明らかだ。加えて米国の隆盛もアヤシクなり、小選挙区制→2大政党のメリットは説得力を失っている。

一方の欧州では相変わらず政党が乱立し、各党の得票率と議席数のネジレが少ないので、民意が揺れれば議会も同期して揺れる。下にドイツとスイスの例を挙げるが(何れも下院)、北欧4国の状況も同じ(スウェーデンの記事参照)。これらの国が混乱しているわけでもなく、経済が安定して成長を続けているのを見れば、多党乱立の欧州流の方が好ましく見えてくる。(データは米国CIA The World Factbook による。)

ドイツ:
  SDP CDU/CSU Green FDP ATD LEFT その他
得票率 25.7% 24.1% 14.8% 11.5% 10.3% 5.3% 8.7% 100%
議席数 206 196 118 92 83 39 1 735
議席比 28.0% 26.7% 16.1% 12.5% 11.3% 4.7% 0.1% 100%
スイス:
  SVP SP FDP Green CVP GLP その他
得票率 25.6% 16.8% 15.1% 13.2% 11.4% 7.8% 10.1% 100%
議席数 53 39 29 28 25 16 10 200
議席比 26.5% 19.5% 14.5% 14.0% 12.5% 8.0% 5.0% 100%

日本で無党派層が多く投票率が低いのは、自分の考えに近い政党がなかったり、あっても政権を取れそうもないので投票してもムダと思う人が多いからだろう。欧州では圧倒的多数党がなく連合政権が常態で、少数党も(左右を問わず)政権に入って政権担当能力を磨く。連合政権に参加しても個別の政策で反対に回ることもあり、基本的に議案毎に賛成派と反対派が流動的に集合・離反し、多数派工作で生じる妥協で議案が修正される。一般に物事を決める場合、極端なシロかクロかのニ者択一より、グレイ決着の方が現実的で納得できることが多い。2大政党では対立点を際立たせるためにシロかクロかになり、意地と沽券で理性が吹き飛ぶ。「妥協」が政策決定のルーティーンで、政権が左右に揺れても国が破綻しない欧州のシステムは、多様化が尊重される成熟社会のお手本になる筈だ。

選挙制度を変えるのが容易でないことは分かるが、政治が民意から遠ざかれば国が歪み、歪みが臨界点に達すれば破局が訪れかねない。日本は(結果の良し悪しは別にして)1995年に制度を変えたのだから、再び出来ない筈はない。憲法改正よりも選挙制度の改革を優先させるべきではないか。

選挙制度ついてもう一つ言いたいことがある。議員定数削減についてだ。ロクでもない国会議員が高給をとっているのはケシカラン、削減して少数精鋭でヤレ、という主張を聞く。確かにロクでもない議員は少なくないが、それと議員定数削減は別問題で、定数を減らせばますます少数意見が無視されることになる。この国には少数意見を封殺して破綻した歴史があるではないか。

人口当たりの議員定数を見ると(有権者当たりで計算するべきだが、有権者数のデータがないので総人口で代用)、日本の国会議員数(衆議院)は欧州各国の議員数(下院)に比べて遥かに少ないことが分かる(データは Factbook )。

  ドイツ フランス 英国 スイス デンマーク 日本
人口(千人) 79,903千人 68,084千人 67,081千人 8,454千人 5,895千人 124,687千人
下院議員数 735名 577名 654名 200名 175名 465名
人口/議員 109千人 117千人 103千人 42千人 34千人 275千人

国会議員の歳費2千2百万円(給与+賞与)は諸外国に比べて高いと言われるが、昨今の民間の役員報酬と対比すれば目くじらをたてる気が失せる。だが「政党助成金」は看過できない。1994年に選挙制度改革と同時に施行された制度で、国民は自分が支持しない政党に活動資金を提供することになった。民主主義国でこのような理不尽な制度を平然と運用している国はおそらく日本だけだろう。令和3年度の政党助成金は総額318億円で、自民党の取り分は170億円。自民党の衆参議員372名で割ると一人あたり4千6百万円で、歳費の2倍が政党助成金として税金から支出されている。つまり政党助成金をやめて歳費に回せば、議員数を今の3倍に増やせる計算になる。

政党の活動は本来党員と支持者が支えるべきもので、党員にはそれだけのコミットが求められる筈だ。しかるに自民党の入党案内によれば党費は年間4千円でしかない。他の政党の党費も自民党に右へならえで、「身を切る改革」を唱えて定数削減の先鋒に立つ政党が18億円の助成金を平然と受け取るのは、破廉恥と言うしかない。例外は日本共産党で、同党の入党案内によれば党費は年収の1%で、党員は年間数万円の党費を納めている筈。この党だけは政党助成金を拒否してスジを通しているが、自民党も他の政党もこの気概を見ならい、党員はしかるべき党費を納め、その熱意で支持者を拡げる努力をするべきで、税金に頼らなければ成り立たない政党は退場してもらうしかない。


ボクの写真遍歴シリーズ: 目次ページへ

2017年3月 南米ボリビア・ペルーの旅

南米は往復の長旅を考えるとうんざりするが、マチュピチュを見たいと思っていた。どうせ行くならインカ道を歩いてみたい。ウユニ塩湖とチチカカ湖にも興味がある。そんな思いを一気にかなえてくれる17日間のツアーがあった。インカ道トレッキングは厳しい人数制限があり、半年前の予約開始ですぐに埋まる。予約時にパスポートの登録と前金を要し、キャンセル不可と念を押された。ボリビアの首都ラパスは標高4千mを超え、ウユニ塩湖、チチカカ湖、インカ道も富士山頂(3776m)より標高が高く、酸素不足はヒマラヤ・トレッキングと同じで、事前の健康診断書の提出が求められる。14名の参加者中で我々が最高齢と知り、そういう年齢になったことも改めて実感した。

南米の国々は政情不安定が常態だが、ボリビアは我々が訪れた当時の大統領は先住民出身のモラレスが3期目で、国民の人気が高く安定していたように見えた。だが2年後の2019年、4選目の当選を果たしたモラレスは選挙結果の不正操作疑惑を騒ぎたてられ、軍と警察から辞職勧告を受けてメキシコに亡命した。事実上のクーデターで、上院副議長のアニエス(女性)が暫定大統領に就任したが、2020年10月の大統領選挙でモラレス派のカタコラが当選し、アニエスはクーデター関与で逮捕された。モラレス政権打倒のクーデターには、左派政権を嫌う米国や米国寄りのブラジルなどの関与があったと言われる。ベネズエラでも左派のマドウロ政権が攻撃されたが、米国が南米で続けてきた謀略的内政干渉はバイデン政権になって止むのだろうか。

隣国のペルーでも大統領選挙があり、日系のフジモリ元大統領の娘も立候補したが、その後の2年で大統領が6人も入れ替わるハチャメチャ状態。これほど混乱すると、さすがの米国も手が出せないかもしれない。

ボリビアのレポート

巨大なすり鉢状の首都ラパスの上部は標高4千mを超える。 民族衣装の女性が元気一杯に働くロドリゲス市場
インカ文明の先駆と考えらえるテイワナク遺跡。 テイワナク遺跡に立つ石像。遺跡の構造にインカの特徴が見られる。

ウユニ塩湖

長野県とほぼ同じ面積のウユニ塩湖は湖底に標高差がなく、世界で最も平らな場所とされる。乾季は干上がって見渡す限り真っ平な塩の平原になり、雨季は周辺の山に降った雨が溜まって天然の鏡になる。水深が数cmしかないので車で進入して長靴で降り立つことができる。適切な水量・好天・無風の条件が揃わなければ巨大な水鏡の奇景は出現しないが、我々はラッキーにもドンピシャリで出会った。よほど日頃の行いが良いのだろう。

ウユニ塩湖のレポート

18:11、日没時に湖中へ。雷雲が近付いてきた。、 18:14 落雷の一瞬。幸い雷雲はこれ以上近付かなかった。
翌朝6:04、東の空に赤みが増す。 6:20 西の水平線に沈む満月が湖面の反射と合体。

湖面の反射がきれいに写る場所を探してくれた。氷上のようにもみえる世にも不思議な景色。

チチカカ湖

チチカカ湖は琵琶湖の13倍の面積を持つ大湖で、標高3810mは汽船が航行する湖として世界最高地点。緯度が低く標高が高いので湖水の蒸発が激しく約1%の塩分を含むが、淡水系の水産資源が豊かと言われる。観光のメダマはペルー側のトトラ(葦)の人工浮島で先住民の暮らしを見ることだが、入島料の分け前と土産品販売の「見世物暮らし」が露骨で、興ざめと言えないこともない。日本にも観光地化の人寄せで興ざめになった「名所」は少なくないが…

チチカカ湖のレポート

ボリビア側のコパカバーナはインカ時代もキリスト教でも聖地だった。 ペルー側のトトラ浮島で暮らす先住民は観光業で生きる

クスコ

クスコはインカ語で「へそ」を意味し、インカ帝国の中心地だった。 謎に包まれたインカは宇宙人だった?という冗談もあるが、13世紀にこの地域に進出したケチュア人が版図を拡げ、1400年頃に帝国を完成させた(日本の室町時代だからそれほど太古のことではなく、高度な文化があったのは不思議ではないが)。そのインカ帝国は1532年にスペイン人によって滅ぼされたが、インカの死者の90%はスペイン人が持ち込んだ疫病によるもので、同様の悲劇は19世紀に南太平洋でも起きた。バヌアツは19世紀初頭に1百万人の人口を擁していたが、1935年に4万人まで減少したのは、ヨーロッパ人の入植者がもたらした病原菌に免疫を持たない先住民が感染したためで、パンデミックの脅威を見くびってはいけない。

クスコのインカ遺跡の精緻な石積みを見るだけで、インカが超マジメな民族だったことが分かる。そのインカの石積みの上にスペイン人がスペイン風の都市を築いたが、その粗暴さがインカとの対比で際立つ。日本人にも「モノ作り」に過剰なまでの「こだわり」を発揮する伝統があり、大企業の最先端の製造現場でも「こだわり」が重視され、それが日本の工業製品が世界を席巻する原動力になったが、その伝統は「効率」に追いやられ、昨今は超一流企業でも「手抜き」最優先になり、こだわりは伝統工芸の「職人」にしか残っていない。その職人も「メシ」が食えなくなれば消滅するしかなく、日本から「こだわり」が消えて「つまらない国」になるのはそれほど遠くなさそうだ。

クスコのレポート

インカの精緻な石垣の上に築かれた粗雑なキリスト教の聖堂 インカ石積みの象徴とされる16画の石。

インカ道トレッキング

クスコ側からマチュピチュにアクセスする道路は40Km手前が終点で、そこから先はウルバンバ川の狭い谷に単線の鉄道が通っているだけ。観光客の99%は列車でマチュピチュの麓のアクア・カリエンテス(熱い水の意、実際に温泉が湧いている)に入り、そこからシャトルバスで遺跡に登る。(反対側からアクア・カリエンテスに通じる道路はあるが、ひどく遠回りになるので観光用には使われていない。)

残り1%はインカ道をたどってマチュピチュに入るトレッカーで、我々は道路の終点から山中のインカ道をたどり、3泊4日のテント泊でマチュピチュに入った。 テント・装備の運搬と設営は地元の村に住むインカの末裔たちが務めてくれる。ヒマラヤのトレッキングではチベット系のシェルパ族がその役目を担っているが、インカの末裔の働きぶりもシェルパ族と同様にマジメで好感が持てる。

インカには馬も車もなくもっぱら歩いた。インカ道は物流や軍用の輸送インフラではなく、飛脚が走って命令を伝え情報をフィードバックする「通信インフラ」だった。だから人が走れる細い道があればよく、急な階段があってもかまわない。その代わり、風雨にも地震に耐える土木技術が必要で、精緻な石積みはインカ道の建設で培われたものだろう。インカ帝国の最盛期には4万km(地球一周分)のインカ道が整備され、帝国の隅々まで驚くべき早さで情報が伝達されたらしい。インカは文字を持たなかったが、ヒモの結び目の組み合わせでデジタル式の情報伝達を用いた。インカ文化には21世紀にも通用するコンセプトがある。

インカ遺跡=マチュピチュと思い込んでいたが、インカ道に沿って次々と大小のインカ遺跡が現れた。まだ森の中に眠ったままの遺跡も多いらしい。インカ遺跡に共通のアンデネスは「段々畑」と訳されるが、主目的は土砂崩れ防止の土木構造物で、ネコの額の畑はオマケ。キッチリ組み上げられた石積みの内側も水はけを計算しつくし、豪雨と地震に耐えて5百年たってもビクともしていない。

インカ道トレッキングのレポート


トレッキングのゲートで厳しいチェックを受ける。 マチュピチュ行きの列車。昼間は客車の数が増える。
歩き始めて最初に出会う遺跡。 ガイドがケーナを吹いて激励。
トレッカーの数より多いサポートスタッフが同行する。 キャンプ場で出会ったハチドリ。
インカ道を行く。この辺りはスペイン時代になって拡幅されたらしい。 3泊目のルンクラカイのキャンプ場。
インテイパタ遺跡。石積みは崩落防止が主目的。 マチュピチュから3Km手前のウィニャイワイナ遺跡。
マチュピチュの南東側の「太陽の門」 おなじみの景観。三角の山がワイナピチュで、翌朝に登頂。

マチュピチュ

我々のマチュピチュ見学は早朝のワイナピチュ(2690㎡)登頂で始まった。観光写真のバックに写っている三角の山で、裏側にジグザグ階段の登山道があり、山頂までの標高差2百mを約1時間で登る。1回の登山者数が200人に制限されるので、朝一番のバスで登ってゲートに走って順番をとる。先着2百名を逃すと3時間後の次の回まで入山を待たねばならず、その後のマチュピチュ見学の予定が狂ってしまう。

山頂から撮ったマチュピチュの作品を写真展に出して「航空写真?」「ドローン?」と質問された。一般の観光ツアーはワイナピチュ登頂をパスするが、地上の遺跡見学は3時間もあれば十分なので、ワイナピチュ登山をお薦めしたい。

マチュピチュ遺跡のレポート

居住区と思われる区画。石の突起は屋根を固定用か。 太陽神殿。冬至の正午に窓から太陽が射し込む。
神殿への門。 ここに約6百人が暮らしたと想定されている。

2021年10月 友山クラブ写真展出展 「大インカの風土」

友山クラブの写真展は2021年が最後になった。友山クラブは山岳写真家の川口邦男先生が主宰する「山の写真の撮り方」を勉強する会で、写真展も本格的山岳写真がメインだが、小生の出展作品は大半が「旅のついでに撮った写真」だった。インカ道トレッキングの作品が小生の写真ライフの総仕上げだったのは、当然の帰結だったような気がしている。

「大水食谷のインカ道」 ワルミニスカ峠から
 Nikon D750 28ー300mm(34mmで撮影)、 ISO800、1/400、f:118、 EVー0.67

「遺跡に生きる」 プユパタマルカ・キャンプから
Nikon D750 28ー300mm(48mmで撮影)、 ISO1000、1/600、f: 9、 EVー0.33

「古都全容(マチュピチュ)」 ワイナピチュ山頂から
 Nikon D750 24ー120mm(31mmで撮影)、 ISO800、1/500、f: 8、 EVー0.33


2017年5月 チベット ラサ、チョモランマ・ベースキャンプの旅

なじみのツアー会社から誘いがあり、南米の長旅の直後だったが行くことにした。チベット側からエベレスト(チベット名でチョモランマ)を見るツアーで、以前から行きたいと思っていた。政情が変化すれば行けなくなるかもしれず、行ける時に行くのが旅の原則。全行程が車での移動で、標高5千m超のベースキャンプにも歩かずに行けるが、つれあいは「歩かなければつまらない」と不参加を決めた。

チベットは自由に旅行できない。事前に現地の旅行会社を通じて公安当局に詳細な旅程を提出し、変更は許されず、旅行中は公安のチェックポイントで旅程とパスポートを確認される(かなり頻繁)。ガイドの目の届かぬ単独行動は許されず、旅行者の違反行為はガイドの責任になって処罰されるので、とガイドから協力を求められた。

中国政府の強権的な態度に反発を覚え、チベット独立運動の肩を持ちたくなるが、当然ながら中国政府にも言い分がある。清朝の支配下にあったチベットは辛亥革命を機にダライラマが独立宣言を発したが、主権を確立して万国に承認された事実はなく、その後ダライラマは独立宣言を撤回している。独立運動は海外に脱出したチベット人と支援団体の仕業で、チベットに住むチベット人の意志ではない。チベットは歴史的に中国の一部で、治安維持は政府の責任であり、反乱が起きれば鎮圧するのが当然、という立場だ。台湾についても「一つの中国を認めてきた米国や日本は中国の味方の筈だが…」と言われるかもしれない。

チベットに住むチベット人には「中央政府とうまくやってゆく」以外の選択肢はないが、日々の暮らしが良くなれば「これでもいい」という気分になるだろう。チベットの「開発」は予想以上に進行していた。空港、道路、鉄道の建設が進み、工場やアパート、学校がどんどん建っている。漢人の移住が急速に増え、街のサインはチベット語と漢語の併記だが、チベット仏教は保護され、文革時代に破壊された寺院や遺跡の修復も進んでいる。言論・思想の自由の制約は基本的人権にかかわるが、中国全体がそうなのだから、チベットだけ特別に制約されているわけではない。米国や日本も全ての国民の人権が等しく尊重されているとは言い難く、自国を棚に上げて他国を非難するのはいかがなものか、と反論されるかもしれない。中国の一党独裁を称賛する気はないが、その国のことはその国民が決めてゆくしかなく、「余計なお節介」で戦争など仕掛ける愚だけは避けなければならない。

チベット 前篇

 
ラサの空港で出迎えるのは中央政府の要人。 ラサのポタラ宮。見学には厳しいルールがある。
ダライラマ14世はこの離宮から脱出、亡命した。 標高4300mのシガールは都市化が急速に進んでいた。

高度障害は歩かなくても起きるので、高度順応が要る。我々がチョモランマ・ベースキャンプ(5100m)を訪れたのは8日目で、高度順応は十分に出来ていた。ベースキャンプ手前のギャワ・ラ峠(5120m)がヒマラヤの大展望ポイントと聞いていたので、朝焼けの写真を撮りたいので夜明け前に峠に到着するように注文をつけた。朝5時出発では間に合わないと心配したが、中国全土が北京時間で統一されているので実効時差が1時間以上あり、峠に夜明け前のピタリのタイミングで到着、8千米5峰を一望する大パノラマの撮影を堪能させてもらった(寒かった!)。

チベット後編

ギャラワ峠から8千m級の5峰を望む。

2017年11月 友山クラブ写真展出展 「絶空の俊峯」

「チョモランマ」(8848m)
 Nikon D750 80ー400mm(185mmで撮影)、 ISO1600、1/40、f:11、EVー1

「ギャチュンカン(7952mとチョ・オユ―(8153m)」
 Nikon D750 80ー400mm(98mmで撮影)、 ISO1600、1/40、f:11、EVー1


ギャワ・ラ峠からいったん下ってベースキャンプに向かう。世界一高所の寺院と言われるロンボク寺でチョモランマ(エベレスト)北壁が見え、ここでシャトルバスに乗り換えてベースキャンプ手前のゲート(5200m)まで行く。酸素は平地の半分しかないが、我々ほど順応に時間をかけていない筈の中国人観光客は平気で歩いている。短時間の滞在であれば高度障害が発症する前に下山するので大丈夫なのだろう。

エベレストはネパール側ではどの展望スポットからもアタマの先しか見えず、ベースキャンプからは全く見えない。エベレストの全身を見るには前衛峰のローツェ(8516m)かヌプツェ(7861m)に登るしかない(つまり見る方法がない)。チベット側のベースキャンプから堂々たる座像(標高5200mから上)を拝めるが、それほどの感慨が湧かないのは、全く歩かずに楽をしたせいもあるが、平板な姿で世界最高峰のスゴ味が感じられないからだろう。雲をまとっていれば印象が変わる筈だが、季節風の影響でチベット側はあっけらかんと晴れることが多いらしい。

ロンブク寺でチョモランマ北面が姿を現わす。 ロンブク寺

チョモランマ・ベースキャンプ。一般の観光客はこの地点から先は立入り禁止。登山ルートは正面の氷河を登り左の尾根にとりつく。
山頂への登山ルートは左の稜線。 世界最高地点の土産物屋。
オールドティンリーで。人の暮らしとチョ・オユ―北壁。 シガツエのタルシンボ寺は中央政府が擁立したパンチェンラマの寺

2017年 山歩き

3月のインカ道トレッキングに備えて、2月に筑波山に2度登り、奥多摩の大岳山を縦走。出発直前には南茨城の吾国山も縦走した。近場の低山縦走も悪くない。

2017年山歩きレポート

2月21日 奥多摩駅から大岳山へ 3月5日、JR水戸線の福原から吾国山へ。筑波山が見えた。

9月のキナバル登山を前に富士山に登った。それまでは須走口か吉田口から登ったが、御殿場口五合目から登ることにした。五合目といっても標高は吉田口の1合目と同じ1440mで、吉田口の5合目(スバルライン終点)より1千m低いところから出発する。登山口から山頂までの標高差は2334m、8合目(3100m)の小屋まででも1600mあり、その間に小屋は1軒もない(トイレもない)。「バカも登らぬ御殿場口」と言われるように、我々の前後に登山者の姿はなく、7時間かけ小屋にたどり着いた時はヘロヘロで、靴を脱ぐのもしんどかった。

御殿場口の6合目付近。宝永火口の上の小屋が初日の目的地。 久しぶりで剣が峰の山頂まで登った。

2017年9月 ボルネオ島 キナバル(4095m)登山

世界にシロウトが登頂できる超4千mの山は数えるほどしかない。マレーシア・ボルネオ島のキナバル山はアクセスが容易で登山道もよく整備され、2015年のボルネオ地震の落石で死者が出たが、登山ルートの修復は終わっていると聞いて行く気が起きた。

だが難点が一つある。ツアーの殆どが山中1泊2日で、1日目は1866mのゲートを出発して3273mのロッジに泊まり、翌早朝にロッジを出て4095mの山頂を往復し、その足で一気に下山する。つまり2日目は822m登って2229m下る強行軍なのだ。登山では下りの方が筋肉の負担が重く、高齢登山者の事故はもっぱら下りで起きる。下りが苦手な小生はキナバル登山に二の足を踏んでいたが、「ゆっくり2泊」のツアーを見つけた。2日目は小屋から山頂を往復して小屋に泊り3日目に下山の日程で、これなら大丈夫そうだ。

往路フライトのトラブルに始まり、雨中の登りと上部の急登がキツく、山頂も霧雨の中でガッカリだったが、下り始めたところで雨が上がり、名物の奇岩群が見えて気分も晴れた。6千円相当の入山料を徴収されるが、それなりの設備と安全対策が施されていて、下山後の高級ビュッフェランチ代も含まれている。日本の山は原則タダだが、登山道の整備や登山者の安全対策は山小屋まかせで、経営者が悲鳴を上げているらしい。業者が政府の干渉を嫌ってきた歴史があるのだろうが、日本が観光立国を唱えて海外からの登山者増を期待するのなら、政府がホンキになって登山環境の改善にあたらないと、破綻するのが目に見えている。

マレーシア・キナバル登山のレポート

登山口のゲート。添乗員ナシで現地ガイドが面倒をみてくれた。 雨と霧の中を山頂を目指し、7:20 登頂。
1時間下ったところで霧が晴れてサウスピーク(4091m)が見えた。 地震で崩落した地点。眼下にチェックポイントが見える。
2泊したラパン・ラタ・ロッジ 下りで食中植物をウツボカズラに出会う。

2018年 山歩き

4月のエベレスト街道トレッキングに向けてのトレーニングが要る。事前に富士山に登るのをルーティーンにしていたが、春の富士山は危険でプロもビビる。仕方なくスキーで代用することにして、戸隠と蔵王に出かけた。出発直前に立山黒部ルートが開通し、室堂平(標高2400m)の山小屋に2泊して高所順応に努めた。

2018登山レポート

1/28 戸隠スキー場へ。高妻山(2353m) 高妻の南に連なる戸隠山と本院山。
2/26 蔵王のゴンドラ終点から地蔵岳を眺める。 ゴンドラから樹氷林を見下ろす。
4/15 出発直前に立山室堂で2泊、奥大日岳。 ライチョウはまだ冬の装い。

2018年4月 エベレストベースキャンプ(5350m)、カラパタール(5545m)トレッキング

死ぬ前に見ておきたい景色があった。シロウトが行ける最高地点のカラパタール(5545m)からのエベレストの眺めだ。小生は2012年にゴーキョ・ピーク(5360m)からエベレストを見たが、山歩き同志のつれあいにもエベレストを見せたい。ゴーキョピークからエベレストは直線距離で約22Kmあり、丹沢山から富士山とほぼ同じだが、カラパタールからは8Km足らずで、山中湖から富士山を仰ぎ見るのと同じ。迫力が違う筈だ。

日本からのヒマラヤトレッキングツアーは晴れる確率が高いポストモンスーンの10月~11月だが、エベレスト登頂は山頂の天候が安定するプレモンスーンの4月が多い。ネパール国花のシャクナゲも咲く季節だ。ツアーの申込みは4人だけだったが催行してくれた。

エベレスト街道-1 エベレスト街道-2

エベレスト街道のトレッキングは高度順応がカギ。標高5千mの酸素濃度は地上の50%になり、徐々に高度を上げて体を順応させて血中酸素濃度が80%程度まで上がらないと低酸素症で危険に陥る。今回のツアーは4千m以下で4日を過ごし、4410mのデインボチェに連泊して体を十分慣らす。最終日は体力温存のため4900mのロプチェで馬を雇い、乗馬で5350mのエベレストベースキャンプを訪れた。乗馬はズルいと言われるかもしれないが、我々はスポーツとしてヒマラヤ登山をするわけではなく、高所の景観を楽しむための旅なのだ。

ナムチェバザールは訪れる度に「繁華街」している。 ネパール国花しゃくなげの下を行くトレッカー
標高4千mを越える。前方にアマダブラム。 標高4,410mのデインボチェに連泊して高度順応。
名峰タムセルクとカンテガ ロブチェからエベレストBCまで馬で行く。
怪峰ヌプツエ(7861m)がエベレストを隠す。 前方がエベレストBC。右のヌプツエの稜線の後がエベレスト
エベレストBCには登山隊しか入れない。 アイスフォールを登る登山隊を超望遠で。

9日目早朝、標高5100mのゴラクシェップのロッジを出発してカラパタールを目指す。小生は不思議なほど快調に登れたが、つれあいは残り100mで足が止まってギブアップしかけた。ここまで来れたのだから登れない筈がないとガイドに叱咤激励され、最後の力をふり絞って山頂に着いた。だが残念ながらエベレストは雲の中で、待っても晴れる気配はない。山登りにはこういうこともある。

蛇足だが、大姑娘山の記事に書いたように、ヒマラヤの高山の標高は超アバウト。カラパタールは標高5545mとされているが、小生の簡易高度計は5605mを示していた。帰国後にGoogle の地形図を確認すると、やはりカラパタールは5600mの等高線の内側にある。どうやら我々は5605mまで登ったらしい。

9日目 カラパタール直下の最後の登り カラパタール登頂。だが霧の中でエベレストは見えず。
10日目、ロプチェからの下りでアマダブラムの絶景に出会う。 11日目、ペリチェからヘリで下山

2018年11月 友山クラブ写真展 「エベレスト街道 トレッキングの日々」

写真の作品作りは「見せたいもの(テーマ)は一つ」が原則で、「余計なもの」が画面に入らないように神経を使う。山岳写真では登山者も「余計なもの」で、写真展の入選作品で「登山者」が写り込んだ作品を見たことがない。画面の中に人が写っていると視線がそこに吸引され、肝心の「山」の魅力が損なわれて、ダメな作品と評価されるからだ。

川口先生は「撮った本人がイイと思った作品が良い作品」とおっしゃり、写真展では出展作品に優劣を付けない。それなら山の写真に敢えて登山者を写し込んで「山を歩く気分」を出してみたいと思い、先生に打診すると「良いじゃないですか」と認めてくれた。ローツエとアマダブラムの作品は登山者に視点が行くように若干の工夫を施した。氷河の作品には「人が写っていないのですが…」と言うと、「テントがあるしタルチョ(祈祷旗)もある。人間が写っているじゃありませんか」と指摘され、なるほどと納得した。

自分で言うのも何だが、この3点が小生の写真人生の最高傑作で、これを越える作品はもう撮れないと思っている。

「山前の憩い」(ローツェ) デインボチェ(4200m)から
Nikon D750 24ー120mm(120mmで撮影)、 ISO400、1/2000、f:9、EVー1

「山を行く」(アマダブラム) トウクラ峠(4300m)から
 Nikon D750 24ー1200mm(50mmで撮影)、 ISO400、1/600、f:10、EVー1

「最奥の氷河」 エベレスト・ベースキャンプ(5200m)から
 Nikon D750 24ー120mm(50mmで撮影)、 ISO400、1/2500、f:11、EVー1