前篇でひとまず脇に置いた「旅行制限が強化される懸念」について触れておきたい。チベットは今も外国人が個人で旅行することは許されていない。チベット旅行を希望する者は事前に現地旅行会社を通じて入域を申請し、許可証を得てツアー客としてチベットに入ることになる(我々は重慶空港でラサ便搭乗時に確認された)。チベット内では常に現地旅行会社の責任者(ツアーリーダー)と一緒に行動することが求められる(客が単独行動した場合は即退去、旅行会社も罰せられるので、厳に慎むように念を押される)。入域後は各地区の公安(警察)で許可証とパスポートのチェックを受ける他、公道上でも検問が頻繁にあるので、旅行中は許可証とパスポートをツアーリーダーに預けっぱなしになる。
外国人の旅行制限は他の国でもあり、チベット固有の状況とは言えないし、制限にはそれなりの経緯や事情がある筈で、軽々に非難するべきではないだろう。世界各地で起きている「暴動」の大半が、住民よりもむしろ外部の勢力によって引き起こされていることは事実で、治安当局が外国人に敏感になるのは当然かもしれない。チベットの場合も、近年の騒乱で欧米の「人権主義者」に影響されたチベット難民(インド亡命)が関与したと言われ、チベットで暮らしているチベット人にしてみれば、彼等のせいで自分たちの「人権」や「生活権」が抑圧されている、と感じている面もあると聞く。
1912年に清国が崩壊し、ダライラマ13世の政権はチベットの独立を宣言、第二次大戦時は中立国として連合国による中国への武器輸送の通過を拒んだ。1949年に中国共産党が中国を掌握すると、チベットは中国人を国外追放した。それが「ケンカを売った」ことになったのか、翌1950年に人民解放軍がチベットを侵攻、1951年に全土を制圧した。中国政府による宗教排撃、土地収用、漢族の大量入植に抵抗するチベット人が1956年に蜂起したが、徹底的に弾圧されて数万人の犠牲者を生じ、8万人の難民がインドやチベットに流出、1959年にはダライラマ14世がインドに脱出して亡命政府を作る。更に1966年の文化大革命でチベットは再度破壊にさらされ、難民の流出が続いた。
1978年の改革開放で信教の自由が保障され、チベット人の自由もある程度許されたが、1983年にチベット亡命政府との和平交渉が決裂すると、再び弾圧が強化された。1987年にラサ・ジョカン寺の僧侶によるチベット独立デモが契機となって、民衆と武装警官の衝突が起こり、ラサに戒厳令が布告される。動乱は中国内に飛び火し、1989年の天安門事件で全国的な民主化要求のうねりとなるが、政府は軍を総動員して鎮圧を強行し、国際的に糾弾されることになる。同年にノーベル平和賞を受賞したダライラマは、チベットの独立を放棄する宣言を発して平和的解決を提起したが、政府は暴力的弾圧を止めることなく、2008年になってようやく沈静化した。つい10年前のことである。
2007年に政府がラサに鉄道を通したのは、事態転換の象徴と言えるかもしれない。鉄道は「文明開化」の公共投資としてアピールしやすい。これを機にチベットの「近代化」が急速に展開し、地方までオカネが回り始める。事の良し悪しはともかく、一般の人たちは、暮らしが以前より良くなれば統治者への不満が消え、信教の自由が戻ればとりあえずハッピーになる。政府が本当に恐れるのは広範な民衆の反乱で、文化大革命で民衆を扇動・動員した政府は、もしそのパワーの矛先が自分に向けられたどうなるかに気付き、慄然となったに違いない。それに比べれば、一部の知識人や学生を力で抑え込むのは、国際社会で糾弾される不名誉を除けば、たいした事ではないと考えているのかもしれない。
中国政府がチベットの平定を急ぐのには事情があるらしい。核兵器+ICBMの基地と放射性廃棄物の処理施設がチベットに集中しているのがその理由と言われている。この地域が不安定では、安全保障の足元がぐらついてしまうからだ。チベットに集中配備された核ミサイル300発の仮想標的には、当然日本も含まれているだろう。もしT対Kの脅しあいのようなことが中国との間で起きたら、チョモランマ観光どころではなくなる。
核の傘がいかに危ういものか、今回の騒ぎで実感できた。日本が一蓮托生で中国の核ミサイルと対峙することなどご免被りたい。米が中かの選択ではなく、米と同じくらい中とも仲良くするように努めるしかないではないか。中は一筋ナワでゆかない国だが、米だって対等に付き合おうとすれば二筋ナワが要る国で、何でも「ハイハイ」では済まなくなる。政治家と役人の仕事は今より数倍大変になるだろうが、日本が「大国」と言うのならそれも当然。人類が滅亡しないためには核兵器廃絶が必須で、「きれいごと」と言われようと、それに向かって一歩でも前に進むしかないではないか。
高度順応のため標高4300mのシガールに停滞。シガールは中尼公路(中国・ネパール友好道路)の宿場町で、道路沿いに食堂や旅泊施設が集まっている。外国人旅行者用のホテルは今は1軒だけだが、中心部で大規模な工事が進行中で、完成予想図によれば立派なホテルを何棟も建てるらしい。一般旅行者の宿泊にはキツイ標高だが、チョモランマ・ベースキャンプまで約2時間で、古名刹の曲徳寺も近くにある。観光客が押しかける日は遠くなさそうだ。
その曲徳寺を訪れる。往時は僧5千人を擁す大寺だったが、人民解放軍侵攻と文化大革命で破壊されて廃寺状態だったらしい。今回行って見ると、新設の駐車場から山門までの長い参道にピカピカのマニ車が並び、山門や本堂も清々しく修復されたばかり。動乱期に住民が隠して破壊を免れた仏像や仏具も戻され、僧60人が修行する寺が蘇りつつある。
弾圧一点張りだった中国政府がチベット仏教容認に転じ、寺院の復興に本腰を入れているのには理由がある筈。歴史オンチの乱暴な比喩だが、太平洋戦争後の占領時代、マッカーサーが天皇制を温存して日本人の反抗を抑えたのと、似ているような気がする。制圧した異民族を統治するには、彼等の伝統や文化を否定するより、尊重の姿勢を示した方が抵抗が少なく、結果として得になるという計算なのだ。多民族国家として栄えた古代ローマ帝国がそうだったし、インカ帝国もそうだったらしい。中国政府も半世紀かけてその事を学習したのかもしれない。占領地に神社を建てて君が代を歌わせた大日本帝国は今も恨みをかったままだが、「教育勅語・八紘一宇」を正義と奉ずる学習能力欠落者が現政権の中枢を占めていては、いくら「解決済み」と言っても、ご納得はいただけまい。
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いよいよ旅のハイライトの日。朝5時過ぎにシガールのホテルを出た時は霧で月も星も見えなかったが、ツアーリーダーは「今日はゼッタイ見えます!」と保証する。チェックポイントを通り、6:45に標高5120mのギャワ・ラ(峠)到着、月明りの下に連なるのは8千mの峰々。これを絶景と言わずしてどこに絶景があるだろうか。
早朝の山の撮影は時間との競走で、時々刻々変化する光に先手を打ってカメラの緒元を設定するのだが、こんな絶景に出くわすと、シロウト写真屋は気ばかり焦ってアタマが止まる。日の出前は暗くてオートでは焦点が合わず、肉眼でファインダーを覗いてもピントが見えない(手動で∞マークに合わせてもダメ)。露光とホワイトバランスも変えて撮っておくべきだが、変化し続ける峰々に目移りがして、カメラを向け直してシャッターを押しまくるのが精いっぱい。交換レンズを落としたり三脚に足をひっかけたり、ドタバタの45分間でシャッターを200回押したが、「マアマア」の出来は数コマしかない。
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ギャワ・ラ峠から超8千m5峰の眺め 7:48撮影
峠から山道をいったん下り、再び登って標高5千mを越え、カーブを曲がると突然正面にチョモランマが現れる。世界一高所にある寺院のロンブク寺で車を降りて呼吸を整え、チェックポイントの先でシャトルバスに乗り換え、10分登るとチョモランマベースキャンプ(5200m)のゲートに着く。一般旅行者が入れるのはそこまでで、チョモランマ登山隊のテント場は更に数百m先にある。
ベースキャンプからチョモランマ(山頂)まで直線距離で約15km、標高差は約3600mで、河口湖畔から富士山を眺めるのとほぼ同じ。存在感では圧倒的にチョモランマが勝るが、「絵になる風景」かどうかは意見が分かれるかもしれない。この日は幸か不幸か雲一つなく、真昼の光線でベッタリと見える世界最高峰はデカイが味わいに欠け、「美しい」とは言い難い。「記念写真」はヨシとしても、心にしみ入る「作品」を撮るウデは小生にはない。
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ベースキャンプから宿泊地のオールド・ティンリー(4390m)まで近道を走る。数年前までは未舗装ガタガタ道がチベットの標準で四輪駆動車が必須だったが、我々の車は舗装路用の床の低い韓国製ステーションワゴン。ドンドン・ガリガリと腹を擦りながら走る。
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だいぶ前になるが、オールド・ティンリーで撮ったという写真を見て、この地で撮るのを楽しみにしていたのだが、少々状況が変わっていた。遠景のヒマラヤは昔のままだが、中景に余計な人工物(建物、送電線、クレーン等)が立ち、前景の広場(前は池だった)に散乱するゴミも写り込んでしまう。これでは山の写真屋は「作品」の撮りようがない。来るのが5年遅かった!。そうは言ってもせっかく来たので、三脚を担いでホテル前の広場に出るしかない。
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旅が終わった。往路は高度順応と周辺観光で回り道をして、ラサから4日がかりでオールドテインリーまで来た。帰路は最短距離を一目散に走るが、それでもラサ空港まで1日半。この日はシガツェまでの約300km、実動6時間の走行。
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午後4時前にシガツェ到着。夕食まで少し時間があるので、単独行動は原則禁止と承知だが、寺院参詣で逮捕はないだろうとタカをくくり、一人でタシルンポ寺を訪れる。ゲルグ派のパンチェンラマの住寺で、現在は中国政府が1995年11月に擁立した11世が座主を務める。(1995年1月に転生者として発見されたゲンドゥン少年をダライラマが11世と認定したが、政府が直ちに「保護」してその後行方不明になり、この少年の認定に関わった関係者は逮捕投獄された。現在のタシルンボ寺は特別な警備もなく、緊張感は感じられない。)
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単独行を怪しまれることもなく無事見学を済ませ、急いでホテルに戻る。ツアー中の夕食はホテル内のレストランで中華風の食事が多かったが、最終日はチベット料理専門店でのゴチソウである。ヤク肉を野菜と共にシャブシャブ風に食べるのだが、肉は見かけより柔らかく、味付けも日本人に親しみやすい。
高所ツアーでは高度障害のリスクを避けるため禁酒が原則で、ビールもガマンだった。シガツェは標高3880mでまだ富士山頂より高いが、もう高山病を心配することもなく、ビール飲み放題のお許しが出た。ラサ・ビールはアルコール度3%(米国のライトビール並み)、値段はレストランで飲んでも大瓶(640ml)が200円程度で、グングンいける。念願のチョモランマを、見て、撮って、チベット実情もちょっと実感できた旅に「乾杯!」。
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