「また夫婦でヒマラヤに行ってきた」と言うとあきれ顔をされる。後期高齢も3年目になり、体力・金力減退を自覚して「高所トレッキングはもうヤメた」と公言していたので、前言を翻したことになる。だが国会答弁の如きツジツマ合わせはしない。体力・金力に変化が生じるわけもなく、「死ぬ前に見ておきたい・撮っておきたい」の誘惑に負けただけで、意志が弱いと批判されれば甘受するしかない。山中11日の高所トレッキングで3kg減った体重はリバウンド中だが、ゲッソリ減った老後資金にはその気配がない。

今回の行先はエベレスト街道終点のカラパタール(5545m)とエベレスト・ベースキャンプ(5350m)。「ヒマラヤの山歩き」と言うといかにもスゴそうに聞こえるが、「歩き」自体は日本の「里山歩き」とさして変わらない。登山道は村人の生活道路で、危険な箇所はなく道迷いの心配もない。1日に登る標高差は700m以内で、行動時間も3~5時間(たまに例外あり)。個人の荷物まで運んでくれるので背中は軽く、宿はロッジのツイン個室、食事も同行キッチンスタッフが日本人に合わせて作ってくれる。一口で言えば、日本の登山より安全で且つ快適・楽チンなのだ。

問題が一つある。高度障害(高山病)のリスクである。標高5千mの気圧(酸素)は地上の1/2で、息が苦しいだけでなく内臓機能が低下する。軽ければ消化器の不調(食欲不振、下痢、嘔吐)で済むが、肺水腫や脳浮腫に陥ると生命にかかわる。高山病は年齢や経験に関係なくその時の体調で発症するが、基礎体力の落ちた高齢者ほど重症化のリスクが高い。標高4千mを超えるツアーでは、70歳以上は指定専門医(高所医療)の診断書提出を求められ、我々も受診してOKはもらったが、医師から前回以上にじっくりと注意事項を言い渡された。

予防には事前の高所訓練が有効で、夏季なら富士山に登って「肺慣らし」するのだが、4月の富士はまだ氷雪の世界で、スケートリンクを30度傾けたような青氷の斜面は、ヒマラヤの8千m峰以上に危険と言われる。しかし出来ることはやっておかねばならない。4月15日に開通初日の黒部立山アルペンルートで室堂(2400m)に入り、山小屋に2泊して富士登山に代えた。ちなみに開通早々のアルペンルートと室堂は中国人観光客で溢れかえり、日本人客は少数の山スキー屋と写真屋だけ。この国の観光業はもはや中国人ナシでは成り立たないのだと実感する(彼等を団体でバクチ場に誘導するのが優れた政策とは思えないが)。



第0日目(4月21日) 羽田 → バンコック → カトマンズ
第1日目(4月22日) カトマンズ → ルクラ(2840m) → タルコシ(2650m)

4月20日夕刻に家を出て21日0時20分に羽田を出発、バンコック乗り継ぎで同日昼過ぎにカトマンズ着。カトマンズ空港は国際便の急増で着陸前の空中待機が常態化し、我々の便も空港手前で30分近く旋回した。観光客の増加だけでなく、出稼ぎやビジネス客も急増している由で、最貧国ネパールにもテイクオフ(経済的離陸)の時が来たのかもしれない。

2年ぶりのカトマンズは中心部の道路拡幅が進み、無秩序な交通渋滞がやや緩和され、上水道工事のサインもあちこちで見受ける。政権の中心は相変わらず毛沢東主義党だが、政争と利権漁りに明け暮れた無政府状態から「決める政治」に動き始めたらしい。そうしないと国民の支持を失うと分かったのだろうか。以前は電力供給が1日に数時間だけだったが、やっと「ほぼ終日通電」になった。元々電力が足りなかったわけではなく「政治的かけひきで停電させていた」と聞くが、如何なる経緯か小生の想像力が及ばない。

翌早朝、国内線でルクラに飛ぶ。この路線に2社が新規参入し、新機種も導入してサービス競争が始まった。我々の便は珍しく定刻にゲートからバスが出たが、飛行機に乗り込む直前でストップがかかった。乗客を数えたら一人多かったのだ。チェコ製L‐410型機は19席だが、標高の高い(空気が薄く浮力が出ない)ルクラ空港の制約で16人しか乗せないのがルール。うっかり17人分発券したらしく、しばらくやりとりしていたが、荷物を1個放り出して17人搭乗で離陸した。このアバウトさがこの国の魅力ではあるが、安全にかかわることはマジメにやって欲しいと思う。ルクラ空港の特殊環境については「雨季のヒマラヤ‐1」に記したのでご参考されたい。

カトマンズに近づくと最高峰エベレトとローツエが見えた。この裾まで歩くのだ。
旋回中に見た景色。
空港周辺まで都市化が進んでいる。
国内線でルクラへ。チェコ製の小型機に定員+1で搭乗。
7千mのヒマラヤを眺めながら飛行。
快晴のルクラ。到着機は10分足らずで折り返す。

ルクラで現地スタッフ(ポーター、キッチンスタッフ等)と合流、荷物の仕分けをする。ヒマラヤのトレッキングでは個人装備(日中不要な着替えや防寒具など)もまとめて運んでくれるので、客が自分で担ぐのは雨具と水だけ。昨今の人件費高騰で、荷物運搬を人力(ポーター)から馬やゾッキョ(ヤクと牛の一代雑種)に代えている由で、我々の荷物もゾッキョ4頭で運ぶ。小生には撮影機材という余分な荷物があるので、今回も別料金でパーソナルポーター(個人専属ポーター)を頼んで背負ってもらう。カメラザックに雨具や水も突っ込めば、本人が持つのはスナップ用カメラだけ。パーソナルポーターは荷担ぎだけでなく、足元の注意や細かい身の回りの世話もしてくれる。

この日の行程は「軽い足慣らし」で、山の中腹にあるルクラ空港から谷に向かって緩やかに下り、3時間で宿泊地のタルコシに着く。低い標高でじっくり高度順応するのが今回のツアー企画の「キモ」で、2年前のツアーではルクラからヘリで標高3800mのシャンボチェに一気に上がって苦しい思いをした経験があり、当ツアーの売り文句に説得力がある。

エベレスト街道のトレッキングは今回で3度目だが、夏の上高地を思わせるゾロゾロ状態の人波を初めて見た。大半は西欧の若者だが、韓国や中国系の人たちもずい分増えている。と言っても中国系のタイ人、マレーシア人や台湾人で、大陸の中国人はもっぱら観光。山道を自分の足で歩くトレッキング文化の普及はまだ少し先のようだ。ちなみに「老人登山隊」は我々以外に見かけず、これは日本人独特の文化と改めて認識。

ルクラもすっかり都会(?)になった。
ロッジのキッチンでは昔ながらのカマドが健在。
村道をのんびり行く。荷運びのゾッキョにも追い越される。
農作業はもっぱら女性の仕事。
鮮やかに咲くシャクナゲ。
休憩で村の少女と交歓。飴の包み紙で鶴を折る。
馬の輸送隊は空荷で下る。
こちらはゾッキョ隊。1頭の輸送力は約100㎏。
上りと下りがかち合って大渋滞。
ポーターも100㎏の荷物を運ぶ。
荷物がロッジに到着。
ロッジで水道工事を観察。職人の丁寧な仕事ぶりに感服する。

第2日目(4月23日) タルコシ(2650m)→ モンジョ(2700m)

山の1日は6時のモーニングコール(ノック)とお茶で始まる。夜は寝る以外にすることがないので、8時前に寝袋にもぐり込み、4時前に目が覚め、7時の朝食が待ち遠しい。客は時間を持て余し気味だが、スタッフは食事の準備、サービス、後片付けの他、荷物を集めてヤクに積むための荷造り作業等々に追われ、食事は立ったままで掻き込み、8時の出発に間に合わせる。今回の日本からの客は4名と添乗員1名。スタッフはガイド(ツアーリーダー)、キッチンスタッフ4名、パーソナルポーター3名、馬方1名(客の1人は全行程を乗馬)、ヤク輸送の牛方(?)1名の計10名。英国が持ち込んだ遠征登山隊スタイルの名残りだが、「主人・従僕」関係に縁のなかった「平民」は「主人」の気分が身につかない。

2日目はサマルガータ国立公園ゲート手前のモンジョまで半日の行程。 多少のアップダウンはあるが標高を稼がず、あくまでもゆっくりと進む。

快晴で気分良く出発。
経文を刻んだマニ石は時計回りがルール。登りでは左側を通る。
出発して1時間半でパクデイン。通常は1日目にここまで来る。吊り橋を渡って左岸へ。
ネパールの山桜は季節を問わずに咲く。
鮮やかに咲くシャクナゲ。

第3日目(4月24日) モンジョ(2700m) → ナムチェ(3440m)

3日目に標高3千mを超え、エベレスト登山の後方基地として発展したナムチェを目指す。途中の標高差600mの「ナムチェ坂」が難所と言えば難所だが、日本百名山で一番低い筑波山(877m)ほども無い。それより坂手前の吊り橋が高所恐怖症にとって最大の難所。地上80mに架けられた幅1mの吊り橋は、人間だけでなく輸送隊の馬やゾッキョの隊列も渡る。橋の途中で行き違ったらロープから半身乗り出すことになり、考えただけで全身に電流が走るが、幸いそんな事態にならず無事通過。ナムチェ坂の途中からエベレストの頂部も見え、予定通り昼時にナムチェ到着。

ナムチェのフルネームは「ナムチェ・バザール」で、登山基地になる前から周辺住民の交易所(バザール)として栄え、今も毎土曜日に市が立つ(小生はタイミング悪く出会ったことがない)。シーズン中のナムチェは市のない日でも盛り場並みに賑わっている。登山用品を扱う店が増え、遂に瀟洒なブランドショップまで出現した。

昼食後、買い物に興味のない我々は村外れの丘の上の博物館を見学。少しでも標高の高いところに登って下って就寝すると高度順応に効果ありとされている。高所トレッキングは高度順応が全てで、やれることは何でもしておくのだ。

聖山クンビラが近くなる。伝統的な農家建築は殆ど見られなくなった。
高所恐怖症に最難所の吊り橋。上段の高度80mの橋を渡る(下段は廃道)。輸送隊と橋上でぶつからないように、タイミングを見計らって渡る。
橋を渡ってナムチェ坂を登る。途中にタムセルク(上)とエベレスト(下)が見えるスポットがある。
訪れる度に賑わいを増すナムチェ。
新しく造られた「水の広場」は洗濯場になる。
寺門の内側に描かれたこの地方の守護仏クンビラの曼荼羅。
擂り鉢の縁まで登ってナムチェを見下ろす。
丘上の世界遺産記念博物館。
博物館前のテンジン像(エベレスト初登頂者)。晴れればここからエベレストが見える筈。


第4日目(4月25日) ナムチェ(3440m)→ デポチェ(3750m)

いよいよ本格的な山歩きが始まる。ナムチェとデポチェの標高差は引き算では300mだが、大きなアップダウンがあって見かけよりハード。先ず3600mのキャンズマまで登った後、400m下って谷底のブンキテンガへ。ランチの後700m登り返し、富士山頂の標高(3774m)を超えて3900mのタンボチェ僧院へ。僧院から少し下って泊地のデポチェに着く。行動時間は約6時間。

擂り鉢状のナムチェの縁まで登ると小さい茶店があった。小生の個人ポーターを勤めるラジ君の新婚の奥さんがやっている店というので、出発早々だが休憩。旅行者相手の茶店ではなく、村人やポーターが立ち寄って腹ごしらえしたり一杯ひっかけたりするローカルな店で、除菌好きの日本人は尻込みしそうだが、この程度でビビッては現地の暮らしにふれる体験はできない。お茶と漬物をごちそうになって出発。

茶店から少し先に進むと、エベレスト頂部と周辺の名山を一望できるスポットがある。6年前に目を付けて今回も撮るのを楽しみにしていたのだが、モヤに霞んで山がスッキリ見えない。モンスーン前の4~5月はエベレスト登頂に最適のシーズンとされ、ヒラリー・テンジンの初登頂も1953年5月29日だった。この季節はスカッと晴れて写真もバッチリ、と思い込んでいたが、エベレストに登頂しやすい条件と写真がスッキリ撮れる条件が必ずしも一致しないことに、ハタと気付いた。この時期はチベット高原とインド洋を吹き渡る季節風が凪ぎ、エベレスト登頂を阻む最大要因の強風が弱まる。その分空気が澱んで春霞がたなびく季節なのだ。現地に来て気付いても手遅れで、春霞の空気感を撮るしかない。

ナムチェから2時間でキャンズマ。ここに「馴染み」のロッジがあったが、昨年火事で全焼してしまった。6年前と2年前に2度泊まっただけで「馴染み」と呼ぶのは恐縮だが、古民家の囲炉裏端のような食堂やドアの閉まりにくいトイレが懐かしい。大勢の大工と石工で建替え工事中だが、古民家再現ではなくモダンなロッジに変わりそうだ。

キャンズマの先でエベレスト街道は左右に分かれる。左の坂を登ると6年前と2年前に歩いたゴーキョ方面へのサブルート、右の坂を下ると今回初めて歩くエベレストBC・カラパタール方面へのメインルートである。メインルートはロッジも多いが、今回はどこも満杯で宿の確保に苦労したと聞く。デポチェの宿は集落外れの旧式ロッジで、我々はベニヤ張りの個室をもらえたが、10畳ほどの大部屋にイスラエルの青年グループが異例の男女雑魚寝で詰め込まれていた。彼等はエベレスト街道始点のジリ(ルクラまで1週間歩く)からスタートし、1ヵ月かけて峠を3つ越える大縦走の途中とのこと。

ロッジの客用トイレは殆どが水洗式になっているが、このロッジは穴の下に枯草を敷いただけの屋外トイレ。かなりラフな構造で、もちろん電気などなく、踏み外して落ちる心配あり。「夜はその辺りで適当に」と言われてお言葉に甘えたが、イスラエルの若者がどうしたかは知らない。

ナムチェの擂鉢坂。荷運びのゾッキョに追い越される。
展望がひらける場所だが、春霞でエベレストは見えない。
秀麗なタムセルクも霞む。
「馴染み」だったキャンズマのロッジは火事で全焼、建替工事中。
登山マラソンと遭遇。トップランナーは地元シェルパ族の若者。
谷底のロッジで昼食。ガイドが満杯の客をかき分けて我々のスペースを確保。
シャクナゲの巨木。
登山道に沿ってシャクナゲが続く。
14:40 タンボチェ僧院に到着。由緒ある仏跡だが、本日の宿舎はまだ先と聞いて見学を断念。
やっとロッジに到着。三脚を出したが撮るものは見当たらず。


第5日目(4月26日) デポチェ(3750m) → ディンポチェ(4410m)

我々が6時に起き出した時には、イスラエルの若者グループは既に出発していた。前日の夕食でおかわり自由のカレーを腹いっぱい詰め込んで、朝飯代を浮かしたらしい。彼等のえげつないまでのたくましさに、日本の草食系の若者は太刀打ち出来るだろうか。

この日はイジャ川の谷をさかのぼり、森林限界を越えてヒマラヤらしい岩と空の世界に入る。

朝の光に輝くタムセルク。谷間から山はあまり見えない。
ゾッキョ隊も出発準備完了。白い袋は飼料で、いわば弁当持参。
ロッジ前の急斜面にカモシカの群れ。
吊り橋を何度も渡る。
アマダブラム(正面)の麓を目指して登る。
右手にあったカンテガ、タムセルクが背後に回る。
集落の外れに必ず仏塔がある。
太陽熱で湯沸かし。簡単な仕組みだが、湯は沸点に達する。
建設資材を運ぶ。
森林限界を越える。
ロッジに着いてひと息つくと、雪が降り出した。


第6日目(4月27日) ディンポチェ停滞

企画では一つ先のトゥクラ(4600m)まで進む予定だったが、収容力の少ないトゥクラを回避してデインポチェ停滞に変更、休養と高度順応のミニトレッキングで過ごすことになった。居心地の良いロッジの連泊も悪くない。

この辺りのロッジはエベレスト登山隊のサポートで稼いだシェルパが建てるケースが多い。彼等がまとまった現金収入を得る道は、エベレストの頂上に登るか、海外傭兵の出稼ぎしかない(英国がシリアに派兵した実線部隊はネパール出身の傭兵という)。彼等はまさに命がけで稼いだ金で建てるのである。建設資材はポーターが背中で運ぶしかなく(馬やゾッキョは小回りが利かないので、大サイズの板物や長尺パイプ類は運べない)、そうして建てられたロッジが小規模でバラックに近いものになるのは仕方ない。

そんなロッジ事情が変わりつつある。都会の業者が大型ヘリを使って資材を運入し、ホテルまがいのロッジを建て始めたのだ。そうなれば地元の人たちが家族で細々とやってきたロッジが淘汰されるのは目に見えている。ヒマラヤ山中に資本の論理がズカズカ踏み込むのを喜ぶわけにゆかないし、外国資本とネパール政府の癒着がからむとしたら、一層やりきれない気持ちになる。

到着時と朝、洗面器でお湯が供される。希望者には就寝時に湯たんぽも提供される。
食堂。夜はポーター等スタッフの就寝場所にもなる。
受付。飲み物やおやつ、トイレットペーパー等の販売も。
寝室はツインが原則。各人用の寝袋はツアー会社が提供する。
朝食はおかゆ(又は雑炊)+パンケーキ、卵料理、ソーセージ等。
おでん、ラーメン、ソバなど、日本食も作ってくれる。

ディンポチェはナムチェとカラパタールのほぼ中央に位置し、エベレスト街道の主要な宿泊地になったが、ロッジ周辺には農家とヤクやゾッキョの放牧場が残っている。ヒマラヤでは標高4400mは日常生活圏なのだ。

カンテガとタムセルクに朝日が当たる。屋根には昨日の雪。
アマダブラムの岸壁にも朝の光。
世界4位のローツエ(8516m)は逆光。
カルカ(放牧場)
じゃがいもを植える。

標高4410mのディンポチェの酸素濃度は平地の6割だが、我々の高所順応は今のところ順調。就寝中に息苦しくなって目が覚めることもなく、何よりも食欲が減退していないのが順応している証拠。ミニトレッキングはディンボチェ集落から東へ1時間足らずのカルカまで。坂と言うほどの坂もなく1時間足らずで到着し、のんびり写真を撮ったりして1時間余り過ごす。

ローツエがどいてくれれば、村から最高峰エベレストが見える筈。
雲がまとわりつくアマダブラム(6856m)。
雲が切れてスッキリ見えたアマダブラム。
アマダブラム主峰(左のピーク)のアップ。全く違った表情を見せる。
タムセルク(6608m)
アイランドピーク(6109m)