3月のインカ道トレッキングで、参加14名中で我々が最高齢と知って愕然とした。幸い健康に恵まれて痛いところもなく老人の自覚は乏しいが、ボケ事故を起こした「高齢ドライバー」が自分の年齢より低かったりすると、何をかいわんやの心境になる。山歩きでも「ボケ事故」は起きる。高齢者が自分の体力や反射能力の低下を忘れ、疲労困憊や転落事故を起こしたり、思い込みで道に迷ったりする。いくら救助保険に入っていても、世間様へのご迷惑が消えるわけではない。

ハードな山歩きや高所旅行は自粛すべきと思い始めたのだが、行きたい・見たい・撮りたいところはまだある。中でもチョモランマを撮りたいという願望は捨てがたい。チョモランマは世界最高峰エベレスト(標高8848m)のチベット名で、ネパール側(ネパール名はサガルマータ)は何度か見ているが、山の見え方は全く違う。ネパール側は周囲を高い山に囲まれ、エベレスト展望台と言われる場所からでも見えるのは首から上で、辛うじて頭頂部が見えただけでも「アッ、エベレスト!」になる。更に追い打ちをかけるようだが、エベレストベースキャンプ(5364m)からエベレストは全く見えないらしい。

チベット側のチョモランマベースキャンプ(5200m)から全身(腰から上?)がド迫力で見えることは、写真で知っている。ベースキャンプ迄のアクセスも、ネパール側は1週間を超える高所トレッキングが不可避だが、チベット側はベースキャンプまで舗装道路が通じ、全く歩かずに行けるようになった(ひと昔前までは悪路の連続で、かなり手前から歩かされたらしい)。残る心配は高度障害だが、短時間の滞在なら重症化のリスクは低いと言われる(具合が悪くなったら急いで車で下れば大丈夫)。

これまで後回しにして来たチョモランマに行く決心をしたのには、自分の体力低下の他にも理由がある。中国・チベットという場所柄である。これには二重の意味があり、一つは政治的要因で旅行制限が強化される可能性、もう一つは中国の観光地の急激な俗化である。前者の懸念はひとまず脇に置き、後者について言うならば、中国の観光ブームで「秘境」がアッと間に「繁華街」に変身した例を、あちこちで見たり聞いたりしている。チョモランマにも派手なペンキ塗りの(山の写真屋にとっては邪魔な)人工物が林立し、傍若無人な観光客が押しよせる気配がひしひしと感じられるのだ。それが中国人好みの「観光スタイル」だとすれば、そうなる前に、行って、見て、撮るしかない。



第1日目(5月11日)、2日目(5月12日)

日本からチベットへの直行便はなく、中国南方航空の羽田→広州→重慶→ラサのルートで入った。社名からローカルなエアラインと思い込んでいたが、機内誌を見て驚いた。保有機数は800機を超え(JAL 160機 +ANA 220機 の2倍以上)、その殆どが新鋭ジェット機で、中には日本にまだない超大型総2階のA380型もある。拠点の広州国際空港もなかなかのもので、37万回の年間発着回数は羽田の38万回とほぼ同じ、ターミナルの規模と壮麗さでは羽田を上回る。

人口が日本の10倍、GDPも4倍の超大国ゆえ、航空業界の盛業は当然だが、イマイチと思ったこともある。当初予定では広州で国内線に乗り換えて重慶で一泊、翌朝のフライトでラサに飛ぶ筈だったが、広州で足止めを食らった。18:05発の予定が内陸部の天候不良で1時間遅れるという。ゲートの電光表示が「1時間遅れ」のまま2時間が過ぎ、無料の飲み物と弁当が供されたが、状況説明や見込みのアナウンスがない。業を煮やした中国人女性客がゲート番の青年に詰め寄り、激高して大声を発したのに数名が同調し、ゲート周辺が一時騒然となった。

時計が22時を回っても「1時間遅れ」のままで、何のアナウンスもない。待合エリアに倦怠の空気が流れた頃、ゲート番の青年が何事か叫び、客がゾロゾロと動き始めた。英語の説明がないので何が起きたか分からず、「英語ができる人!」と叫ぶと、学生風の客が「今夜は飛ばない、ホテルに行くからついて来いと言っている」と教えてくれた。当方には足弱の仲間がいて、巨大ターミナルビルをあちこち曲って足早に行くグループを見失い、ビルを出て目の前のバスに乗り込んだものの、このバスなのか分からず不安がいっぱい。雨の中を30分走って古いホテルの前で止まり、先客が搭乗券を出してチェックインしているのを見てほっとする。

10階建のホテルはどう見ても3流だが、各フロアに50室以上ある大型ホテルで、南方航空がこんな時の為に確保しているのだろう。チェックインの時に「朝7時集合、食堂で夜食が出る」と言われたので、無料の焼きソバをごちそうになって手早くシャワーを浴び、ベッドに入ったのは午前1時。

電話が鳴って時計を見ると2時50分。中国語で何か言っている。間違い電話と思って切るとまたベルが鳴り、今度は英語で「15分後にバスが出る、分かったか」と言う。急いで身支度してホールに下りると既に50人ほど集まっていたが、やはり15分後出発はムリで、何度も人数を数え直して出発したのが3時半。4時半に前夜のゲートに着くと、6:30出発と表示が出ている。中国では国内線も出発2時間前にチェックインがルールで、「ギリギリ間に合った!」ことになる。

6:30発が実際に飛んだのは8:00だったが、遅れの情報は中国語でも知らされなかった(と思う)。重慶着は10:30で、前泊して乗る予定だった8:30発のラサ行はとうに出発済。カウンターの係員が言うには「乗り遅れたのでチケットは無効、再発行は日本の発券元でやるべし」とのこと。乗れなかったのは航空会社のせいだと主張しても「そんなデータはコンピューターに入っていない」の一点張りで、最悪旅行中止が頭の隅をよぎったが、添乗員と現地代理店の奔走でやっと午後の便に乗れることになり、当初予定の半日遅れでラサに着くことが出来た。それを「ラッキー」と思えたのは、小生も歳と共に人間が多少マルくなった証拠かもしれない。

天候不良による交通機関の乱れは不可抗力で、弁当や宿舎の手配にはそれなりの努力があったと思うし、英語の案内不足も日本の国内線と大差ないだろう。イマイチと思ったのは「情報を伝えようとする努力」である。「民は由らしむべし、知らしむべからず」(論語)は古代社会では有効な統治手法だったかもしれないが、フツウの人が自分で情報を得て判断し行動する現代社会では、情報を出さない当局は無価値な存在であり、いずれ見捨てられることになる。中国でも当局に対する民衆のイラ立ちが見え隠れするが、当局側は論語の教えが今でも有効と考えているフシがある。もっともこれはあの国特有の事情ではなく、この国でも昨今そう思うことばかりだが…

重慶から1時間半、窓下に白峰が見え、窓際席に代わってもらう。
地図ではミャンマー国境の梅里雪山周辺と思われる。
高度を下げると、近代的な農地、工場、住宅が見えて驚く。
ラサ空港。
ラサ市と空港を結ぶ高速道路。
ターミナルを出ると北京政府歴代主席の大パネルがお出迎え。

ラサは標高が富士山頂(3774m)とほぼ同じで、最初の宿泊地としては少々キツイ。空港から市街と反対方向になるが、古都ツェタンは標高3500mでヤルツアンポ川沿いにあり、酸素が少し濃く湿度も少し高い。僅かな違いだが、高度順応では成否を分けることがある。

ツェタンに着いたのは午後9時。薄暗くなった市街で目に入ったのは、道路の両側に立ち並ぶ紅提灯型の街灯の列。それはそれで見事な夜景だが、「待てよ?」と思う。チベットに紅提灯は似合わず、小生には漢民族の嗜好をチベットに強引に移植したように見える。ラサ空港で最初に目に入ったのが歴代主席の大パネルだったことも思い出し、改めてチベットが置かれている立場に気付かされる。


第3日目(5月13日)  ツェタン(3500m) → ラサ(3656m)

ツェタンは今は小さな町だが、神話ではチベット人発祥の地とされ、チベット最古の宮殿や寺院などがある。乗継便のドタバタで旅程が半日ズレたとは言え、名所の観光を飛ばすわけにはゆかない。

朝起きると満月が裸山に落ちかけていた。
2世紀にチベット初代王のニャティ・ツァンボが建てたというユムブ・ラカン宮殿。薄い空気に慣れるように、50mの丘をゆっくり登る。
宮殿は遷都と仏教の勃興で寺院に変わった。ポールはヤクの毛で覆われ、避雷針の役目があるという。
宮殿から眺めると、ここが領主の館だったことが納得できる。
7世紀にチベットで最初に建てられた仏教寺院のタントゥク・ツォクラカン(昌珠寺)。最盛期には3500人の僧侶がいた(口減らしで僧侶になった者が多い)。
チベットでは燈明にバターを使う。バターは信者が献納する。
入口脇の仏画。
門前の広場は遊園地。五星紅旗が「中国」意識を煽る。
ラサに向かう。ヤルツァンポ川がゆったりと流れる。

ツェタンからラサ市街に移動、市中心部のジョカン(大昭寺)を見学する。ツェタンの昌珠寺と同時期に創建されたチベット仏教初期の寺で、初代吐蕃国王のガムボがラサに遷都し、息子の妃として唐から降嫁した公子(君主の娘)を自分の王妃にしたが、その公子が現在の小昭寺を建てたことに対抗し、ネパールから嫁いでいた王妃が建てさせたと伝えられる。当時は僧5千名を擁した大きな寺で、今も広大な寺域を持ち、チベット人の心の拠りどころになっている。

大昭寺前の広場に避雷針の塔が立つ。正門の上に五星紅旗が翻る。
小雨でも五体投地する信者。
入口に移設された巨大な茶釜。
壁面の仏画。
インドの影響が見られる。
中庭で僧の問答が始まった。始めはニヤニヤしながらで不真面目な雰囲気だったが、次第に真剣味が出て来た。
二階の回廊から中庭を見下ろす。
屋上からポタラ宮が近くに見える。
門前の広場。夕方の閉門前で人影は少ない。
屋上で婦人たちが歌いながら床を打つ。雨漏りの修理らしい。

第4日目 5月14日  ラサ ポタラ宮見学

ポタラ宮はチベット観光の目玉で、現地ガイドによれば見学の手配はなかなか大変なようだ。1日に5千人の入場制限があり、事前にツアー会社を通して予約を確保しなければならない。各ツアー会社には予約数の枠があり、業者間の融通はOKだが、繁忙期はプレミアムが付くらしい。予約にはパスポート(中国人は身分証明書)のコピー提出を要し、入場時間が厳しく決められ、指定時間に1分でも遅れるとアウトで、その後1週間は同人の再予約が拒否される(改めて出直しなさい!)。人治主義的行為(ウラから手を回す)は危険で、試みた業者が逮捕されて旅行業免許剥奪、投獄の目に遭ったという。ちなみにポタラ宮の管理は中央政府直轄で、拝観料の300元(約5千円)は国家歳入になる(年中無休連日満員で計算すると年間税収額は91億円)。館内拝観が1時間に制限されていることも考慮すると、世界一高い拝観料かもしれない。

厳しい入場制限のため、余裕を見て指定の2時間前に門前着。
近付くと威圧される迫力。
指定30分前に第1ゲートで入場許可を受け長いアプローチを登る。
白宮(ダライラマ官邸)入口。ここで指定時間に遅れるとアウト。
迫力満点の仏画。この先ダライラマ居住区、執務室等は撮影禁止。
紅宮(歴代ダライラマの墓所等)への入口。
これでもかと迫力ある墓所が並ぶ紅宮を見て反対側へ。
ラサ市街。遠景の大橋は軍事施設扱いらしいが、写ってしまったものは仕方ない。
ポタラ宮の下にマニ車。政教一致の国だったことを思い出した。
ポタラ宮に続く公園は日曜日の家族連れで賑わう。
何かと言われてきた公衆トイレもすっかりキレイになったが、個室は今もない。
ダライラマの夏の離宮ノブリンカはポタラ宮から1㎞しか離れていないが、水と森に包まれて全く違った雰囲気。ダライラマ7世が1740年に建造、14世が亡命時まで滞在していた。
14世の離宮には西洋風のバスルームや大型電蓄、亡命脱出した午後9時で止まった時計もある。
14世離宮の屋根の飾り。
隣接する公園は市民に開放されている。

今回のツアー仲間で10年前にもラサを訪れた人によれば、ラサは信じられないほど変貌を遂げたという。一口で言えば都市化で、10年前に沼地だったポタラ宮前は「解放50周年記念公園」に変身し、砂埃が舞っていた小路も片側4車線の大通りになった。中国の大発展は東の沿岸部だけと言われたが、内陸部の辺地も「大発展」していることは小生も四川省雲南省で目撃し、その様子は日本が1970~80年に経験したやみくもな高度成長の時代に似ているように見えた。

日本は高度成長期に世界第2位の経済大国にのし上がり、高速道路や新幹線を国の隅々まで延ばして、日本中どこへ行っても同じような都市景観になった。その結果地方が豊かに栄えたかと言うとむしろ逆で、地方のエネルギーがますます中央に吸い寄せられた。今さら「地方創成」と言われても、獣医学部新設のムリ押し以外には何も見えない。

その点中国では、地方への人口・産業の分散がそれなりに進んでいるように見える。聞くところでは、先ず高給取りの役人を地方に移住させて新都市を作り、一般の移住希望者をインセンティブで駆り出して新産業に就かせるシステムで、その結果先住者との間で格差と軋轢が生じるが、当面は政治的に(時によって軍事的に)抑え込むことになる。それが多民族問題と裏腹の関係で絡み合い、中国が抱える問題を一層複雑にしているようにも見える。

ホテル近くの歩道橋から。月曜朝のラッシュ(?)
マニ車を回し経文を唱えながら歩くチベット人が多い。
バス停で。
バス停前の小吃店。

第5日目 (5月15日)  ラサ → シガツェ(3880m)

ラサからチベット第二の都市シガツエに移動。新道を直行すれば4時間ほどで行けるが、「トルコ石の湖」と称されるヤムドゥク湖や氷河の景観を求め、旧道で南に大きく回り道をする。しかし天は我に味方せず、雨と霧の中を走ることになる。それにしても標高5023mの峠を車で越えるのは初体験。さすがに峠に定住しているのは観光客相手の土産物屋だけだが、標高4500mあたりまで農家が点在し、チベット人の生活圏の厳しさを実感する。

標高4990mのカンパ・ラ(峠)への登り。
高所牛ヤクの放牧。
ヤムドウク湖は霧の中。
湖の写真を撮っているとチベット犬が寄って来た。近くの飼い犬だろう。
標高4300mのナカルツェ村でランチ。雨が雪になった。
峠道で村人満載のトラックを追い越す。
標高5023mのカロ・ラ(峠)。氷河が近くまで迫る景勝地だが、残念ながら雪と霧で見えない。
この天気では峠の土産物屋も商売にならない。
山中のダム湖。
丘の上にパルチョの僧院。シガツエまであと1時間。

第6日目 (5月16日)シガツェ  →  シガール(4300m)

シガツェは65万の人口を擁するチベット第2の都市である。元々パンチェンラマが座主を務めたタシルンボ寺などの名刹のある古い町だが、解放後に建設された水力発電所の電力で工業が興った。2014年にラサから鉄道が伸び、更に2020年にネパールのカトマンズまでの延長が計画されている。そうなれば中継地のシガツェはますます発展するだろうが、先住民であるチベット人の地位は反比例的に下がるかもしれない。ちなみに鉄道の終点はネパール・インド国境の釈迦生誕の聖地ルンビニになる由で、中国の壮大な世界構想がほの見えるような気もする。    後篇に続く

中心街の北側はチベット人が住む旧市街。
スクールバス。
中心街に建てられた新しい小学校。
小学校門前に貼られた社会主義スローガンを教える児童向けポスター。チベット語も付記(この他に8枚あり)。
ホテルのロビーに貼られた10徳目の大人向けポスター。
国道の休憩所に「上海から5千km地点」の標識。中国意識の高揚が目的?
峠越えにかかる。
山中に太陽発電のケイタイ電話基地局が目につく。圏外は一度もなかった。
標高5000mを越えると雪景色。
標高5248mのギャツォ・ラ峠。中尼公路(中国・ネパール友好道路)の最高地点。中国人はとにかくモニュメントを建てたがる。

後篇に続く