ヒマラヤのトレッキングは誰でも楽しめると説明しても、TVドキュメンタリーの先鋭登山家のイメージと重ねられたり、「鉄老人」などとからかわれたりして、なかなか分かってもらえない。TVに出る登山家は音楽家に例えれば世界クラスのオペラ歌手で、抜群の声と技術を備え、日頃の訓練を怠らないプロ中のプロ。些細なミスが命取りになる(歌手生命を失う)点も似ている。一方のトレッキングは「カラオケ」のようなもので、シロウトが練習なしで歌え、声を枯らすことはあっても命がけにはならず、上手い下手は別にして、「いい気分」を経験すると病みつきになる。
カラオケを軽んじているわけではない。昔は大多数の人にとって歌は「聴くもの」だったが、カラオケが普及して自ら歌う楽しみが拡がり、日本人の歌唱力(表現力)を底上げした功績は大きい。トレッキングも8千m峰の無酸素登攀とは別の世界だが、シロウトを高山の魅力にいざない、山や自然と向き合う感性や知性を高める場でもある。欧米のトレッカーは殆どが若い世代で、山旅の経験が彼等の人生感、ひいては社会に与えるインパクトも少なくない筈だが、日本人のトレッカーは今さら人生観が変わってもしょうがない「隠居」(リタイア老人)ばかり。日本人の世界的登山家はいても、ヒマラヤで若い日本人トレッカーを見ないのは、この国が成熟する前に老衰してしまった証左かもしれず、その責を負う世代の我々が遊び歩いているのは、申しわけないことかもしれない。
話は変わるが、ヒマラヤを訪れる度に思うことがある。ヒマラヤの造山運動は、7千万年前にインド亜大陸がユーラシアプレートと衝突し、5千万年前から海底の堆積層が隆起し始め、6~8千mの山脈になった今も年間5㎜成長し続けている。百万年で5千m隆起する計算になるが、標高が5千m高くなるわけではなく、風雪で山体が浸食され、崩れ落ちた岩石は谷に堆積し、大洪水に流されてガンジスの川原石になり、ベンガル湾にたどりついて三角州を拡大させ、やがて海底に沈む。海底の堆積層は次の地殻変動でまた隆起するかもしれない。そんな地球時間の悠久を体感するのも、ヒマラヤトレッキングの楽しみの一つである。
造山・浸食・堆積は地球の生命活動の表れで、19億年前に陸地が出来て以来、幾度かの大陸移動と数知れない噴火・地震・山崩れ・洪水を経て、現在の地形が出来た。今後も地球の生命が続く限り(数十億年)、造山・浸食・堆積は繰り返される。一方、人類の文明の歴史は5千年に始まったばかりだが、その人類が文明的に生活する場所で造山・浸食・堆積が起きると、人はそれを「災害」と呼ぶことになる。災害の記憶は100年足らずで消え、寺田寅彦が100年前に言ったように「天災は忘れた頃にやって来る」。その時・その場所で生活していた人間にとって「未曾有の災害」でも、地球にしてみれば、拍動、消化、排泄など日常の生理作用にすぎず、人間の都合で「百年に一度の災害に備えて」造ったダムや堤防など意に介しない。最近(2018年7月)の西日本豪雨では、防災構造物が被害を拡大させたケースさえあった。
日本は災害の多い国と言われる。4つのプレートが衝突する地震地帯で、台風の通り道でもある日本列島に住む宿命ではあるが、本来人間が住むには適さない場所で起きた災害も少なくない(急斜面直下の造成地、河川の基準面より低い土地など)。そう言われても先祖伝来とか私権保護とか農地法とか様々な事情があり、災害が起きた土地にまた人が住むための「復旧・復興」に巨額の税金が費やされるサイクルが、これからも繰り返されるだろう。根本的には、人を安全な場所に移し、災害が起きやすい土地は自然に委ねるしかない筈で、その為には、地価を一桁下げるか土地を公有化して移住を容易にするしかないが、この種の「国家百年の計」に本気で取り組む政治家は現れそうもない。政府が言う「国土強靭化」は従来型「公共工事」の言い換えで、税金の垂れ流しを増やすばかり。巨大災害を引金に、この国の財政が再起不能に陥る可能性はますます高くなりそうだ。老人の身勝手だが、生きている間にその時が来ないことを祈るのみである。
第7日目(4月28日) ディンボチェ(4410m)→ ロブチェ(4900m)
日本の山登りでもそうだが、森林限界を越えると気分が変わる。岩と空の世界になって急に視界がひらけ、高いところまで来たなと実感する。北アルプスでは標高2600m辺りが森林限界だが、日本より緯度が8度南のヒマラヤでは約4千mで森林限界を越え、ストーブの燃料が薪からヤクのフンに変わる。今回気付いたのだが、森林限界を境に空気の質も変わるようだ。前号でプレモンスーン(雨季に入る直前)のヒマラヤは「春霞が漂う」と書いたが、それは森林限界より下の話で、森林限界を越えると風景がスッキリ見える。空気が薄くなったぶん水蒸気が減り、水蒸気を出す樹林もないので当然かもしれない。
朝8時、連泊で英気を養ったディンボチェを出発。ディンボチェは鉄道のスイッチバック駅のような場所で、村外れで折り返して上の段丘に登ると、岩と空の景色が一気に拡がる。
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標高が5千mに近づくと酸素が平地の半分近くまで減り、緩やかな坂でも息がきれる(高度順応がうまくいけば高度障害の症状は出ないが、息が苦しいことに変わりない)。ちょっと歩いて立ち止まり、呼吸を整え、無念無想の境地で(思考能力が落ちただけ?)、尺取虫のようにジワジワと前に進む。
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いよいよ標高5千mを超えてエベレスト街道最奥のベースキャンプを目指す日。歩く距離も長く、我々の歩速では行動時間が9時間を超えるハードな1日になるが、実は前日に衆議を決したことがある。ツアー参加4名の内1名はヒザ痛持ちで出発点のルクラから通しで乗馬で来ている。一人は軽い高度障害を覚えて乗馬を希望、連れ合いも前日の様子では途中でヘバる公算が高く乗馬を決断。残る小生は高所順応はOKでも、馬のスピードに付いて行けず別行動になり、焦ってヘバるのが目に見える。この際、4人全員で馬に乗るのがベストソリューションと決断したのだ。空き馬が1頭不足だが下の村から上げてくれるという。添乗員は若く且つシェルパ同等の脚力ゆえ心配は無用。
乗馬登山は7年前に中国雲南省の梅里雪山撮影旅行で経験があり、険阻な急坂を4脚を巧みに操って歩く馬の賢さに感服した。今回は更に標高が高く、氷河のモレーン(堆石)に付けられた階段状の道は更に狭く険しいが、馬は時に馬方の安易な先導に抵抗を示しつつ、安全な足場を慎重に選んで歩いてくれた。
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ベースキャンプを展望できるモレーン(氷河が運んだ岩屑が積み重なって出来た自然の堤防のようなもの)からの眺め(合成パノラマ)。エベレスト(8848m)はヌプツエ(正面、7861m)の背後に隠れて見えない。テント村は左端の氷河の屈曲点にあり、アイスフォール(氷瀑)と正対している。
テント村 アイスフォール ヌプツエ峰 クーンブ氷河
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夜中にトイレに起きて外を見ると、カラパタールの登山道にヘッドランプの列が続いていた。エベレスト街道で富士山の弾丸登山さながらの光景を見るとは予想していなかったが、夜間登山の目的は「ご来光」ではなく、単に先を急いでいるだけだろう。
朝6時出発。前日まで午前中は晴れていたのだが、肝心なこの日に限って雲が重くたれこめている。「晴れ男」を自認する小生、これまでの旅では肝心な時に奇跡的に晴れた実績あり、今回も奇跡を期待するしかない。ゴラクシェプとカラパタールの地図上の標高差は450m。通常の登山では1時間に標高差300mを登るのが標準で、450mの所要時間は1時間半だが、薄い酸素を考慮して2倍の3時間を目安に、意識的にスローで登る。
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カラパタールの標高について書いておきたいことがある。地図やガイドブックには5545mとあるが、山頂で登山腕時計の高度計を見ると5605mと表示されていた。高度計は気圧を標高に換算するだけなので、誤差が大きいと承知しているが、この高度計で大姑娘山の標高の間違いを確認した経緯があり、一目置いている。今回も帰国後にGoogle Earthの地形図(GPSデータで作図していると聞く)で確認すると、案の定カラパタール山頂は5600mの等高線の内側にあり(右)、高度計の5605mが正しかった可能性が高い。とすると、我々の生涯到達記録は公定表示より60mも高い5605mだったことになる。
そもそもヒマラヤ高峰の標高は厳密な測量に拠るものではなく、「だいたいこんなもんだろう」程度の「目安」と考えた方がよさそうだ。山頂でお湯を沸かして沸点から標高を算定したり、その山頂を遠くから眺めて「こっちの方が少し高そうだ」で決めたケースが多いらしい。アバウトでも特に困ることはないのだが、巡行ミサイルを地表スレスレに飛行させる時代になると、数mの誤差を無視できなくなる。軍事大国は測地衛星で精密な地図を作っている筈だが、登山地図の標高は今もアバウトのままなのだ。
ついでに言えば、ヒマラヤには名前のない山が山ほどある。例えば、アマダブラムの南隣に6500m級の秀麗なピークがあるが、どの地図にも山名の記載がなく、ガイドも知らないと言う。時折「無名峰に初登頂」という記事を見るが、どこの無名峰のことなのか、報告書をよく読まないと分からない。軍事地図には暗号の名前が付いている筈だが、そんなものは見たくない気もする。
それはともかく、連れ合いは前回(2016年)のゴーキョピークに続いて今回もエベレストを見ることが出来なかった。いたくガッカリしたらしく、カラパタールからのエベレスト眺望のポスターを購入した。拝借してコピーしたのが右の写真である(中央の黒いピークがエベレスト)。版権侵害になるが、よく見る写真なのでご容赦いただきたい。
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トレッキング最終日。終着点のペリチェまで緩やかな下りをグングン歩く。前日からの重い雲が低くたれ込めて眺望をあきらめていたが、40分歩いたところで急に雲が切れ始め、見る見る内に周辺の秀峰が姿を現わした。これが前日だったらもっと良かったのだが…
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最終泊地のペリチェは往路で連泊したディンボチェの段丘の下にあり、直線距離で1㎞も離れていない(第7日目参照)。往路にルクラからディンポチェまで5日かけて歩いたのは高所順応のためで、下りは時間をかける必要がない。それでもルクラまで歩けば3日を要するが、「とんでもはっぷん」(飛行時間は本当に8分)のヘリで下るのが今回ツアーの目玉の一つ。下りが不得意な小生には有難い企画である。
ヘリの性能が上がって高所を飛べるようになり、ヘリで高所を往復する観光が可能になった。高所での滞在を短時間に留め(30分程度)、高度障害が出る前に下ってしまえば高山病のリスクは低く、エベレスト登山で最も事故の多いアイスフォールより上のC‐1(標高5900m)をヘリで訪れるツアーもあると聞く。料金は富裕層専用だが、オカネはあるところにあるらしく、ルクラのヘリパッドが4機分に拡張され、トレッキング中の我々の頭上をヘリが頻繁に飛んでいた。
それはそれで結構なことで国のGDP増に貢献するが、富裕層の落とすオカネが地元で暮らす人たちを直接潤すことはない。経済が高度化すればするほどオカネが上の方でグルグル回るだけになるのは、資本主義の危機と言われているところ。非富裕層の我々も下りでヘリを使い、ローカルスタッフの3日分の収入を絶ったことになり、ちょっと心が痛む。
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第13日目(5月4日) カトマンズ → 羽田(5月5日朝着)
山岳フライトが伴うツアーでは、飛行不能に備えて予備日が設けられている。特に狭い谷の斜面に造られたルクラ空港の離着陸はリスキーで、少しでも雲がかかったり風が吹けば閉鎖になる。我々のフライトは航路途中の視界不良で2時間遅れたが、昼前に無事カトマンズに帰着できた。
予定通りに帰着すると翌日の予備日はカトマンズで過ごすことになる。カトマンズは5度目で、市内や周辺の観光スポットは一通り見てしまったし、買い物も特にない。添乗員が気を利かせて、市場の見学と現地の人達が行く居酒屋でのランチをアレンジしてくれた。迷路のような狭い路地の市場を見学した後、町はずれの住宅街でスタッフの親戚がやっているという居酒屋に行くと、ツアーをサポートしてくれたガイドやスタッフが次々と集まって来た。彼等は日本人(今はネパール国籍)が経営するトレッキング会社の社員と雇人で、夫々が何らかの姻戚関係でつながっていると分かった。つまり親類の一族郎党で仕事をしているわけで、彼等のアウンのチームワークも納得できる。地酒と民族料理を存分に楽しませてもらい、料金がリーズナブルだったことも言うまでもない。
ネパールでもオカネに毒された悪徳ガイドが横行しているという。5百年前に石川五右衛門が言い残したように「浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」で、どの時代・どの国にも「悪いヤツ」は必ず居るが、不当な利益を得るために悪知恵をフル回転させる「知能犯」の増加は、オカネを軸とする社会の歪みの進行と比例しているような気がする。騙されないように身構えながらのトレッキングは楽しくないし、危険な目に遭うかもしれない。我々がこれまでのネパールの旅で不愉快な思いや危ない目にあったことがなかったのは、現地スタッフが「良い一族郎党」だったおかげだろう。ツアー会社がこれからも実直・誠実な現地スタッフをキープするように願いたい。
こうして今回の高所トレッキングも無事に終わった。カラパタールの展望だけが心残りだったが、自然が相手ではどうしようもない。これも人生というものか。
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