前号にも書いたように、南米は遠い。日本の「真裏」の南米に行くには、地球をぐるっと半周する(約2万km)ことになり、直線距離では南極点より遠い。今でもジェット機で2日、船で行けば1ヶ月以上かかる地球の真裏の国へ、明治時代から多くの移民が渡っていたことに改めて驚かされる。
最初の移民船が横浜を出港したのは1899年(明治32年)2月27日。移民会社の森岡商会が集めたペルー移民790名が乗船していた。ちなみに、使われた「佐倉丸」(2953トン)は1887年に英国で建造され、日清戦争時に政府が購入、森岡商会に貸与された後、1904年に日露戦争の旅順港閉塞作戦で自沈させられた船である。金谷~久里浜の東京湾フェリー(3500トン)より小さいポンコツ船で35日かけて太平洋を渡った移民たちは、ペルーに上陸してサトウキビ農場と製糖工場に就労した。しかし話の食い違いや想像との落差に失望して離脱した一部の人たちが、雪のアンデスを越えてボリビアのアマゾン地域に入り、当時ブームだった天然ゴムの仕事に就いた。彼等の情報でボリビア移民が始まり、1918年には移住者数が800人を超えた。ボリビア女性と家庭を持って定住する人も少なくなかったが、太平洋戦争でボリビアは米国の圧力で日本に宣戦布告したため、移住者は活動制限や資産凍結を受け、米国に送られて強制収容された者もいた。しかしボリビア国民は日本人に好意的だったという。
大戦後のボリビア移民は別のかたちで再開された。日本ボリビア協会ホームページの記事を要約すると: 沖縄は太平洋戦争で日本で唯一の地上戦場となって焼け野原と化し、米軍による占領状態が1971年まで続いた。こうした沖縄の惨状に誰よりも先に救援の手を差し伸べたのは、自身も大戦中に苦難の時を過ごしたボリビアの日本人移住者だった。ラパスやリベラルタに住む沖縄出身者は協会を設立して救援資金や物資を送り、米軍基地建設で耕作地が奪われた沖縄の戦災民にボリビア移住を呼びかけた。ボリビアに移民した沖縄出身者は1969年までに3231人にのぼり、当初の開拓地「うるま」を疫病のため放棄する事態もあったが、新たな移住地を「コロニアル・オキナワ」と名付けて事業を拡大し続けた。現在は沖縄の全農地より広い6万ヘクタールの耕地面積を持ち、大豆などの大規模栽培が行われている。
小生も12年余り海外駐在を経験したが、駐在と移民とは次元が違う。駐在員は職場が海外というだけで身分は「日本の会社員」だが、移民は裸一貫で異郷の地を生き抜かねばならず、人種差別との粘り強い闘いを含め、求められる「知恵と根性」の質・量は駐在員の比ではない。そんな移民のガンバリは知る人ぞ知るだが、日系人の人口比率が0.3%しかないペルーで日系二世のフジモリ氏が大統領に就き、政争で失脚後も娘のケイコ氏が2016年の大統領選でほぼ半数の票を獲得したことが、どれだけ「スゴイこと」か、地球の裏側のペルーに行って、日本と似つかぬ風物に接し、初めて分かったような気がしている。
ツアー6日目(3月13日)、ウユニから朝1番のフライトでラパスに戻り、空港でバスに乗った後の記憶がない。気が付くと湖畔を走っていた。2時間余り爆睡していたらしい。早起きのせいもあるが、旅の疲れが出る頃でもある。
チチカカ湖への興味は高校時代に遡る。地理の教師が余談で「ここが日本人の起源」という奇説を論じた本を紹介した。住民の身体的特徴が日本人そっくりな上に言語が日本語と共通点が多いというのが論拠で、例えば「チチカカ」は「父母」、他にも「性に関連する用語」に同音同義語が多いと言う。そのスジに知識欲旺盛だった高3生は受験勉強を放って図書室に籠って読んだが、結局「チチカカ=父母」は論者の思い込みだったようだ。今回聞いた説明では「チチカカ=ピューマの岩」で、湖の形が先住民が「聖獣」と崇めた「ピューマ」に見えたからと言うが、人が空を飛べなかった時代にチチカカ湖の全形を見たとは思えず、ムリスジという点では「父母」と同列で、「チチカカ」の意味は謎のままである。
チチカカ湖の面積は琵琶湖の13倍。南米最大の湖で、汽船が航行する湖では世界最高所(標高3810m)にある。高所に加えて赤道に近いため(南緯15度)湖水の蒸発が激しく、塩分が濃縮されて1%以上ある。海のような湖だけに「海軍」が居る。1879年にチリとの戦争で海を失ったボリビアは、チチカカ湖に173隻の艦船(大半が小型ボート)と1800名の海兵を配備し、訓練基地としている(ボリビアはアマゾン上流に領土を持つ)。チチカカ湖は数少ない「古代湖」でもある。殆どの湖は流入する河川からの堆積物で数千年で埋まってしまうが、寿命の長い古代湖には固有種の生物が棲む。近年チチカカ湖では外来魚の養殖が盛んになり、固有種の絶滅が危惧されている。
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「コパカバーナ」で先ず頭に浮かぶのはブラジルのリゾート(行ったことはない)。歌、ミュージカル、ニューヨークのナイトクラブ「コパカバーナ」もネタ元はブラジルだが、そもそもの元祖はチチカカ湖畔のコパカバーナ。17世紀にこの地を訪れたスペイン人が美しい景観にうたれ、ここを聖地とするべく大聖堂を建て、以来巡礼がこの地を訪れるようになった。今も巡礼相手の宿泊施設が立ち並ぶが、季節外れで巡礼らしい姿はなく、町は閑散としていた。観光の目玉には初代インカ王マンコ・カパックが降臨したという「太陽の島」もあるが、時間の制約で我々の旅程から外れた。
カトリックの大聖堂には異教の匂いが漂う。建物がムーア風(北西アフリカのイスラム教)なのは、母国のスペインがイスラム圏だった時代の名残りだろう。聖堂のご本尊(?)がマリア様で、しかも褐色の肌をお持ちなのには深謀遠慮がからむ。大聖堂の役目は先住民のキリスト教化だが、自然崇拝の民に三位一体のキリスト教義を飲み込ませるのは至難の技。そこで考え出された教化戦略は、先ず女性たちに聖母マリア様の御慈愛にすがる生活習慣をつけさせることで、マリア様の肌を浅黒く塗って先住民女性に親近感を持たせたと聞けば、宗教家の深知恵に感嘆するしかない。
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ツアー第7日目(3月14日)は朝7時にホテルを出発、ペルー国境まで20分もかからない。ボリビア側の出入国事務所は開いていて、出国スタンプを押してもらい、100mほど歩いて国境の門をくぐる。荷物は客待ちの「赤帽」がリアカーで運んでくれた(検問所はない)。ペルー側の入国事務所が8時15分に開くのを待ち、一人一人ジックリと入国審査を受ける。やっと全員がOKになって外に出ると順番待ちの長い列が出来ていた。旅先でも「早起きは三文の得」。
ボリビアは隣国のチリ、ブラジル、パラグアイと紛争の歴史があるが(毎回負けて領土を失った)、ペルーとだけは軍事衝突の記録がない。ペルーとボリビアは民族・言語が同じ、歴史・文化も共有する兄弟国で、兄弟仲がよかった?と歴史オンチは考えたりするが、国境に近いティキナ海峡に橋を架けない弟分のボリビアには、多少の警戒心があるらしい。
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チチカカ湖最大の名所は「トトラの浮き島」のウロス島で、その観光拠点がプーノ。治安があまり良くないようで、我々が泊まった町外れのホテルには泥棒除けの電気塀が張り巡らされ、ホテルの外に絶対出ないように厳命された。
ウロス島は一つの島ではなく、大小約50の人工浮き島がある湖面一帯をそう呼ぶ。「浮き島」という呼び方も正確ではなく、浅い湖底にトトラ(葦の一種)の束を積み上げて造成した人工島で、プカプカ浮いているわけではない(歩くとトトラの弾力でフワフワするが)。案内書には島の住民ウル族が伝統的な暮らしを守り云々とあるが、今は観光客が払う入島料の分け前と土産物販売で暮らしているのが実態。あまりの観光地化にガッカリ、が正直な感想だが、これは観光振興→商業化の「成果」で、「秘境」消滅の責任を住民に問うわけにはゆかない。文化遺産指定で伝統の暮らしが「見世物」になり、「外見」はオカネで保たれても、肝心の「文化」がオカネで壊されるのは皮肉である。
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第8日目(3月15日)、プーノから1日がかりでクスコ(要綱3400m)に移動。途中にインカの遺跡や標高4300mの峠越えもある。
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ツアー9日目(3月16日)、世界遺産クスコの見学は半日だが、限られた時間で見るべきものをしっかり案内をしてくれたのは日本人の女性ガイドさん。大阪外大でスペイン語を専攻して南米に渡り、ペルーに定住してガイド資格を取ったという。ペルー国境からインカ道トレッキングまで担当してくれたが、有能なガイドがつくと旅の深さが増す。
「チチカカ」は意味不明だが、「クスコ」はハッキリしている。ケチュア語(インカ語)で「へそ」、つまりクスコがインカ帝国の「へそ」だった。伝説によれば、太陽王の息子マンコ・カパックがチチカカ湖の「太陽の島」に降臨し、投げた金の杖が突き刺さったクスコに太陽の神殿を建設、インカ族を創造して大帝国を築いたとされる(古事記の冒頭に似ている)。「インカ帝国=1400年頃~1532年」と聞くと、歴史オンチは1400年頃にクスコに突如インカ帝国が出現したと思ってしまうが、以前からこの地を支配していたキルケ人の要塞都市を1200年頃にケチュア人が占領し、インカ道を築きつつ勢力を拡大して1400年頃に大帝国が完成したらしい。約200年の助走期間を経て1400年頃にインカ帝国が完成したのであれば、歴史に現実味が湧く。ちなみに1400年~1532年は日本の室町中期で、それ程大昔の話でもない。
スペインは1532年に助走なしで突如現れ、アッと言う間にインカ帝国を滅ぼした。少人数の征服者がインカの大軍を倒したのは武器の差ではない。最も効いたのはスペイン人が持ち込んだ天然痘などの疫病で、氷河時代にベーリング海峡を渡って以降他の地域と隔絶され続けた先住民は無菌状態で免疫がなく、人口の90%が病死したという(同じ事件は19世紀に南太平洋のバヌアツでも起きた)。スペインは意図的使用でなかったにせよ、「細菌兵器」でインカに勝ったと言える。他にもスペインが持ち込んだものがある。中世ヨーロッパの暗い時代に磨かれた敵の裏の裏をかく戦法で、正々堂々の戦いにこだわったインカの首領が奸計で捉われて処刑され、将を失ったインカの民は山中に逃げ込むしかなかった。
文字を持たなかったインカの社会は想像するしかないが、残された精緻な石組みを見るだけで、彼等がいかにマジメでマットウな人たちだったか、分かるような気がする。アンデスの造山運動でクスコはしばしば大地震に襲われ、スペイン人が建てた建築物はその都度倒壊したが、土台に使われたインカの石組みはビクともしなかった。クスコだけでなくインカ全土に残された石組みが無傷で残っているのだから、一部の石工職人のウデが良かったのではない。高度な技術が国の隅々まで「文明」として行き届いていた証拠と考えて良いだろう。
そのインカの財宝を奪って「金まみれ」になったスペインは、間もなく凋落の一途をたどることになる。日本国もバブル前の「モノ作り」の時代は相当に根性が入っていたが、「カネ作り」に夢中になって以降はヘンな国になり、モノ作りで世界のトップに立った企業もカネまみれで大転び、外国に身売りして生き延びる仕儀に。そんな国が「観光とギャンブル」で再興出来るとは思えない。貧乏に戻り、マジメな「モノ作りの国」として再出発する手はないものだろうか。
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クスコから宿泊地のウルバンバに向かう途中、動物保護施設に立ち寄った。違法に飼育されていたり怪我をした野生動物を収容して保護する施設で、活動資金稼ぎに有料公開している由。貴重な動物たちと直接ふれあう珍しい体験の場だが、距離が近すぎて動物に弊害を与えないか、ちょっと心配にもなる。
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