富士山 櫛形山丸山林道から (撮影:2009/12)
2018年は喜寿がらみのクラス会が重なった。新年早々縁起でもないが、どの集まりでも話題が「アイツも逝ったか…」になるのは、平均寿命まで残り4年となった年代としては自然の流れで、いつ自分がそう言われる側になっても不思議はない。
それにつけても、加齢に伴って時の流れが加速するのに驚く。あっという間に1週間が経ち、1ヶ月が流れ、1年が過ぎる。パソコンを2年前に買い替えたと思ったら5年前で、5年前と思った旅が10年前だったりする。我々の日本百名山踏破も「ひと昔前」(2009年)のことになる。それ以来毎年末に書いている「山歩きレポート」の内容が年々スカスカになっていることでも、加齢の進行を自覚するしかない。
高齢で山歩きをする人は学生時代に山岳部やワンゲルで鍛え、社会人になっても山岳会で登り続けてきた人達が多いが、我々(小生+連れ合い)は定年近くまで山と無縁だった。特に小生は幼少時から「体育」が超不得意科目で、長じても「身体的活動」を極力避けてきた。連れ合いは小生と違って体を動かすのが好きで、小生の単身赴任中に近所の友達と誘いあって登山ツアーに出かけて味をしめ、「老後のやる気と健康維持は山登りで」と小生の尻を押した。「婦唱夫随」で始めた「日本百名山」は14年がかりで完遂したが、小生は「山の魅力に惹かれて」と言うより、目の前の課題を片っぱしから片づける「会社員の習性」の余勢だったような気もする。
百名山に続くヒマラヤ高所トレッキングは、小生がひょんなことから入会した山岳写真の会の「作品作り」で始まった。今度は「夫唱婦随」のつもりだったが、連れ合いが二の足を踏んだ。標高2500mで必ず「山酔い」(軽度の高度障害)を起こす「高度恐怖症」なのだ。「山酔い」は「車酔い」と同じで、酔いそうと思えば酔い、大丈夫と思い込めば大丈夫になる。つまり「大丈夫体験」を積むことが必要で、2013年に4130mのアンナプルナ内院で慣らし運転、2014年の大姑娘山で5千mに到達、2016年のレンジョパス(5345m)で4500m域で1週間行動、2018年は遂に5605mのカラパタール峰に登頂した。登攀技術ナシのシロウトが登れる山はここが最高所で、運動会の徒競走でビリを通した元虚弱児と元高度恐怖症の老ペアにしては、まあ上出来と言えるかもしれない。
シニア登山者の遭難の多くは単独行で起きる。我々は百名山の難しい山はツアーで登り、ヒマラヤでも馴染みのツアー会社に頼った。国内は自力で登った山が多いが、非力なシロウトペアでも単独行よりよほど安全と言われる。仮に片方に事故が起きても、一人が冷静に対処すれば救出のチャンスが増えるからだ。幸いこれまで遭難騒ぎを起こしたことはないが、2018年の山歩きで加齢劣化を身をもって経験した。3月に筑波山で下山口の手前で転倒、11月の鳴虫山では里に下りてから転倒したのである。何れも「登山」と言えない低山歩きの終盤、緩い下り坂でたわいもなくつんのめった。反射神経が劣化し、且つ脚の疲労蓄積で踏ん張れなかったのだ。2度とも擦り傷で済んだが、難所で転倒すれば重大事故になりかねない。
この2事例から小生の「山歩き力」の限界を推定すれば、1日の累計標高差(登り+下り)1千m、行動時間は5時間以内だろう。ガッカリすることはない。北アルプスにも白馬岳など途中の山小屋に泊まればOKの山がいくつもあるし、ヒマラヤのトレッキングも大半が範囲内である(むしろ国内の日帰り低山ハイクの方が要注意)。今ここで山歩きをやめたら、山写真は中途半端で卒業、山行の為にイヤイヤやっているウォーキングやジム通いもヤメになり、アタマとカラダは一気に衰えることになる。ということで、2019年も身の丈に合った安全山歩きを心掛けたい。声なき応援ヨロシクお願いします。
新春恒例の高尾山初詣で今回は裏高尾の日影から山頂を目指す。朝1番のバスで家を出て高尾まで約2時間の電車は悠々と座れたが、高尾駅前発の小仏行きバスは満員だった。「日影」バス停で下車、林道をしばらく歩いてキャンプ場で左に折れ、「いろはの森」コースをの坂を登る。山深い雰囲気で滅多に人と出会わない登山道は、都心から1時間の場所とは思えない。
登り始めて1時間少々で急坂が終わり、ケーブルカーやリフトで登ってきた観光客の雑踏に合流する。山頂広場から富士山がバッチリ見え、ハッピーな気分になる。往路で薬王院をバイパスして山頂に直行したので、下りはメインルートに戻って薬王院に参詣。昼を過ぎて参詣客の列は短く、御守りも並ばずに買えた。
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後期高齢でスキーはいかがなものかと思っていたが、米寿を迎えた中学時代の恩師が毎年スキーに行く(三浦老よりスゴイ!)と伺って思い直した。以前から高校の同期生に戸隠スキー場を薦められていたが、機会を作れないままだったので、思い立ったが吉日で出かけることにした。念の為に付記するが、小生も連れ合いも中級ゲレンデがやっとで、ベテランにはほど遠い。
長野出身の小生、戸隠にはいろいろな思い出がある。老人はつい先刻のことは思い出せないが、幼少時の記憶は妙に鮮明な映像で蘇る。戸隠の最初の記憶は終戦直前の疎開で、宿坊の広い廊下に雑魚寝した映像が浮かぶ。4歳児の記憶はその1コマに加え、自宅脇の防空壕に逃げ込んだ1コマと、8月15日に大人たちが玉音放送を聞きに行った留守に、縁側で暑い夏の陽を浴びている1コマがある。長野市は艦載機の銃撃だけで空襲は受けなかった筈だが、戦争がらみの記憶ばかり残っているのは、それだけ異常体験だったのだろう。その後の戸隠の思い出は、中学の学校キャンプ、学生時代の同級生とのキャンプ、半世紀飛んで初老になってからの百名山でシンドかった高妻山登山など、次々と浮かんでくる。
閑話休題。戸隠スキー場は地元の旧友が薦めるだけのことがあり、コース・雪質・眺望共に優れ、長野市街から30分のアクセスも悪くないが、あまり知られていない。リフト待ちがないのでジャンジャン滑れるのは嬉しいが、下手な老人スキーヤーには良し悪しで、筋肉を休ませる間もなく疲れてしまう。戸隠ソバの昼食を終えたがゲレンデに戻る元気が沸かず、早々とスキーを切り上げ、小布施に下って岩松院で北斎の天井絵を拝観し、近くの山田温泉の旅館で早めにチェックインさせてもらった。
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喜寿でもスキーが可能と戸隠で確認し、長女が一時帰国したのを機に7年ぶりの蔵王行きを思い立った。樹氷真っ盛りのハイシーズンで満室を予想したが、前日の電話でゲレンデ脇の旅館の予約がとれた。空き室が多いのは予想外だったが、朝食時に「樹氷を見るなら早く行った方が良いですよ」とアドバイスされた。外国人の団体バスが着くと山頂行きのゴンドラが混んで大変になるという。言われたとおり9時半を過ぎるとゴンドラは中国人で満杯になったが、昼前に姿を消した。彼等はゴンドラで山頂を1往復するだけで、温泉旅館にはオカネが落ちないようだ。
平日もあってか「ザンゲ坂樹氷原コース」以外はリフト待ちゼロ。昼食後も少し頑張って滑ったが、気温が下って霧も出てきので温泉・熱燗タイムにする。翌朝は前が見えないほどの吹雪で、ゲレンデには出たものの早々に退散した。
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ヒマラヤの高所トレッキングまであと半月、本気でトレーニングに取り組むべき時だが、何かと用事が詰まって遠出できず、こんな時は地元の筑波山しかない。駐車場の上にある墓地で5分咲きの桜を楽しんでから、いつものケーブルカー線路脇の御幸ヶ原コースを登ったが、早々に息があがって、何度も休んでやっと山頂に到着。コンビニ弁当で何とか元気を取り戻し、いつもの白雲橋コースて下山したが、麓まであと10分の緩い下り坂で足がもつれ、つんのめって頭から突っ込んだ。その時はテレ笑いで済ませたが、後になって「あれは老化のせい」と思い当たった。
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高所順応には標高の高いところに泊まるのが有効で、夏なら富士山に登るのだが、4月の富士山はシロウトが近づけない氷雪の世界。しかしやれることはやっておかねばならない。4月15日に開通初日の黒部立山アルペンルートで室堂(2450m)に入り、山小屋で2泊することにした。ちなみに標高2450mの気圧(=酸素濃度)は平地の約80%で、体調によっては高度障害を生じることがあり、多少とも高所訓練の効果が期待できる。
驚いたのは、開通初日のアルペンルートと室堂が中国人観光客で溢れていたことで、日本人は少数の山スキー屋と写真屋だけ。もはやこの国の観光業が中国人旅行者ナシで成り立たないことを実感する(彼等をバクチ場に誘導する政策には賛成できないが)。
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ヒマラヤ高所トレッキングは2年前の「雨季のゴーキョ」で卒業のつもりだったが、世界最高峰エベレストに最も近いエベレスト・ベースキャンプ(5350m)とカラパタール峰(5605m)に未練が残っていた。10日間の高所トレッキングとそれなりの旅費(カミさんと2人分)を要するが、騒ぐ血は抑えきれずに出かけた。詳細は関連記事で。
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写真の会の撮影会で裏磐梯へ。ペンションのオーナーが写真家で、撮るべき撮影ポイントをマイクロバスで案内してくれる。殆ど歩かない「山歩き」だったが、自然との対話という含みでご寛容願いたい。
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今年は富士山登山の締めくくりとして1合目から登るつもりでいたが、猛暑と台風で行きそびれている間に閉山日になった。言い訳になるが、吉田口1合目の標高が前年に登った御殿場口5合目と同じ1400mと分かり、ヤル気も失せていた。富士登山の代わりに出掛けたのが日光戦場ヶ原の「ほぼ平地歩き」だったが、4月のヒマラヤ以降山歩きをしなかった体にはちょうど良かったように感じられた。やはり歳のせいかな?
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1996年9月、日本百名山踏破を思い立って先ず登った山が磐梯山だった。百名山には「目標消化」作業の一面があり、週末に日帰りできる近場の磐梯山から着手したのである。「百名山」ガイドブックは山頂まで最短・最楽のルートが出ているが、爆裂口内の景観に期待して、裏磐梯スキー場の駐車場から銅沼を経て、爆裂口のへりを登るやや遠回りのルートにした。復路は爆裂口の急なガレ場を下ったが、沼の手前で踏み跡が無くなり、背の高さほどもあるヤブを漕いで駐車場に戻った記憶がある。
22年後の今回は、最短距離の八方台から登った。途中で前回のルートと合流した筈だが景色は思い出せず、山頂直下の急登も、こんなにキツかったという記憶がない。還暦前と喜寿とではずいぶん違うものである。
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台風と諸雑事に振り回されている間に山の紅葉の季節が過ぎてしまったが、日光周辺はまだ大丈夫と聞き、10年ほど前に登った「鳴虫山」(1103m)を思い出した。連休の混雑が予想されるが、日光駅から歩いて登れる鳴虫山は道路渋滞の心配がない。東武日光行きの特急の切符は取れなかったが、南栗橋始発の急行に座れた。周囲を20人ほどの若い男女のグループに囲まれ、大学生の合コンと思ったら中国人留学生だった。無遠慮で顰蹙をかうことの多い中国人団体旅行者と違い、青年たちは大声を発することもなく、諸事控えめで好感が持てた。
鳴虫山は日光市街の南に連なる峰の一つで標高は1103m。市街を外れるとすぐ標高差550mの登りになる。登山道は良く整備されているが、樹林に囲まれて眺望はない。途中で電車で一緒だった中国人留学生のグループに追い越された。日光見物ではなく鳴虫山登山が目的だったらしい。我々の学生時代は若者のグループ登山が盛んだったが、この頃は滅多に見ない。半世紀前の日本の若者のライフスタイルが、中国人留学生に蘇ったような気がする。
下りは急な箇所があって少々手ごわい。7月にフランス人女性が行方不明になったのはこの辺らしいが、登山道がはっきりしているので、悪天候でも藪に迷い込むことはないだろう。下りきって化け地蔵の列を過ぎると、大谷川の含満ヶ淵に出る。女性はこの急流に呑まれたのかもしれない。下山口が東照宮の近くなので、久しぶりに拝観しようと思ったが、入場時間を過ぎていた。参道の長い下りで脚に疲れを感じたが、駅まで30分なのでバスを待たずに歩くことにする。
商店街を半分ほど歩いたところで、歩道と車道の接続部の傾斜に脚を取られて車道側に転倒、カメラを放り出しメガネも飛んだ。連れ合いに助けられて立ち上がったが、縁石のコンクリートでズボンが擦り切れ、ジャンパーの肘も裂けて血が滲んでいた。倒れた頭のすぐ横を車が通過したので、タイミングが悪ければ轢かれていたかもしれない。春の筑波山での転倒もあり、喜寿の筋力・反射能力をしっかり自覚しなければ、と思った次第。
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