何度もしてきた言い訳を繰り返すが、小生の作品は「行ったついでに撮った写真」で、「写真を撮るために行く」ことは滅多になく、「写真が趣味」と言うのもおこがましいと自覚している。日本の山は「百名山」の他はあまり登っておらず、しかも自分が今登っている山の写真は撮れない(昨今はドローンで撮る手もあるが、あれはプロの仕事でシロウトにはムリ)。
山は地殻の変動や火山の爆発によって隆起し、それが風雨で浸食されて地形が形成される。従って素材となった岩石の違いや、その場所の気象条件で山の姿は千差万別になる。地形の目に見える変化は「万年」単位で、仮に1年に1cm変化すると1万年で100mの変化になる(火山はその間に数回爆発するかもしれない)。人間が一生の間に認識できる地形の変化は「山崩れ」や「大噴火」のような極端な変化(災害)で、地球時間の変化は感知できない。
日本列島は複数のプレートがせめぎあう場所に位置し、且つ多雨地帯で浸食も激しく、世界で最も複雑な地形を持つ国と言われる。各々 の山に独特の地形が生じ、しばしば擬人化され、稲作農業の特性もあいまって、日本独特の山岳信仰が生まれた。そうした文化的側面で山を撮る写真家もいるが、その地に住み込むか、頻繁に通わなければできない技である。
そんなわけで、小生の日本の山写真は「山歩きでたまたま出会った景色」であり、シロウト写真の域を出ない。
高い山を高いところから撮ると一層立派に写るといわれる。日本で一番高い山を2番目に高い山から撮ったのだから、これ以上の山の写真は撮れないことになる。シルエットの富士は見事に左右対称で、裾野の伸びやかなラインも申し分ない。この山が象徴するという日本の国も、このようにあってほしいと願う。
NIKON D-200 18-200mm (75mmで撮影) ISO400 f8、1/125 EV-0.7
小生には珍しく「撮りに行った写真」である(写真クラブの撮影会)。富士山の撮影ポイントとして知られる櫛形山は、70項の北岳からの富士の前景になった山で、つまり同じ方角で標高が1300m低い場所からNo.70を撮ったことになる。その分だけ富士の裾野に御坂山塊がかぶり、7合目の雲を下から覗き込むことになり、撮影場所として北岳に軍配が挙がる。夕日がほぼ正面から低い角度で照らしていたので、西斜面の山頂から中腹にかけての大沢崩れの痛々しい傷はあまり目立たない。
ニコンD200、18-200(40mmで撮影) ISO100、 F9.5, 1/20
我が人生で3回以上登った山は、富士山、北岳、立山、筑波山、高尾山しかない。筑波山と高尾山は足慣らしに通い、富士山と立山は海外トレッキング前の高所順応が目的だったが、北岳は達成感と登り易さに味をしめてリピートした。日本で2番目に高い山だが、登山口へのアクセスが容易で(甲府駅からバスで1時間半)、中腹の御池小屋(標高2250m)に一泊すればムリなく登れ、素晴らしい展望と豊かな高山植物が楽しめる。この作品は間ノ岳(3190m)への縦走路(「3千mの散歩道」の愛称がある)から撮った。左奥は甲斐駒ヶ岳(2963m)、赤屋根はNo.70を撮った北岳山荘。
ニコンD200 18-200mm(26mmで撮影) ISO400、F8、1/250
日本第三位の奥穂高岳には気に入った作品がない。どこが山頂かハッキリせず、これと言ったアピールポイントも無く、カッコいいポートレートを撮れなかったのだが、我々(小生と連れ合い)にとって「日本百名山」の百座目に登った記念すべき山で、霧に包まれた山頂で百名山完登のボードを手に記念写真を撮った。小屋で一泊した翌朝は青空になり、隣の涸沢岳を少し登って奥穂の山頂を狙ったが、最高点は陰に隠れて見えない筈だ。(赤屋根は穂高岳山荘)
Nikon D200 18-200mm(18mmで撮影) ISO200、 F8、1/40
ジャンダルムのことは聞き知っていたが、奥穂高の山頂近くで霧の中から突然ヌッと現れてビックリ、慌ててカメラを出した。ジャンダルムはスイスアルプスのアイガーにある岩塔の名を借りたもので、フランス語で「憲兵」を意味する。前項で奥穂高を「これと言ったアピールポイントがない」と酷評したが、最高点から4百m離れたジャンダルムが奥穂高の一部だとすれば、「失礼しました」と謝っておこう。(No.73の右の突起がジャンダルム)
Nikon D200 18-200mm(36mmで撮影) ISO200 f8 1/500
奥穂高岳とは逆に、槍ヶ岳はどこから見ても「絵になる山」である。とりわけ雲の平から見た槍ヶ岳は北壁がスックと立ち上がり、穂高連峰を従えた姿が好ましい。常に逆光になるので陰影が浮き上がって見えるが、モヤがかかるとスッキリ写らない。
槍穂高が火山だと言われてもピンと来ないが、槍の北側の硫黄岳(赤茶けた山)で硫黄を採掘していたと聞けば、納得するしかない。三俣山荘の赤屋根が目立つのは、山小屋のある風景にこだわった頃に意図的に撮ったからだろう。
Nikon D300S 18-200mm(75mmで撮影) ISO400 F9、1/125
富士山と同様、槍ヶ岳を見のがすことはない。晴れていれば槍の穂先は北アルプスのどこからでも見え、ご機嫌に見えればついシャッターを押す。これは大キレット手前の南岳から撮ったが、南斜面に思いがけず大量の雪が残っていた。
Nikon D200 18-200mm (40mm で撮影) ISO200 f7、
1/800 (友山クラブ写真展出展)
山小屋のある風景にこだわった時期があると前述したが、これも北穂山頂にへばりつく山小屋を撮った。この小屋は小山義次氏が建築資材を全て自力で担ぎあげて建てたと、自伝の「穂高を愛して20年」(中公文庫)を読んで感嘆し、ぜひ撮りたいと思っていたが、この小屋が見える場所は限られる。槍ヶ岳から南尾根を縦走して大キレット手前からやっと捉えることができた。雲が湧いている場所が天下に名だたる難所の大キレットだが、我々には通過の技量がなく、右の急坂を槍平に下った。
Nikon D200 18-200mm (90mm で撮影) ISO200 f8、
1/200 EV-0.3
「本格登山はこれで打ち止めかな」と思いつつ、78才の誕生日を前に北穂高岳に登った。涸沢からの標高差800mの急登を何とか登り切って山頂に着いたが、憧れの山小屋で昼食のラーメンが喉を通らず、高山病と自己診断して泊まらずに下山した。涸沢(標高2400m)に下りても食欲は戻らず、高山病は年齢に関係ないと言われるが、やっぱり…と思うしかなかった。涸沢からの北穂の写真は不出来だが、忸怩たる思いも込めて百選に入れることにする。
Fujifilm XT-3 18-135mm (25mm で撮影) ISO2500 f8、
1/40 EV-1.6
上高地を世に知らしめたのは英国人宣教師のウォルター・ウェストンで、猟師の上条嘉門次を案内人に穂高、槍などを踏破し、その記録を「日本アルプス登山と探検」として1886年に出版した。上高地へのバス道路が開いたのは1933年(昭8)で、それ以前は島々の宿から谷を遡り、徳本(とくごう)峠を越えて明神池に入った。ウェストンが絶賛した徳本峠からの穂高連峰の眺めは、まさにこの景色だった筈だ。目を惹くのは左奥の奥穂高岳よりも、中央にどっしり構えた前穂高岳である。
Nikon D300S 18-200mm(31mmで撮影) ISO400、F5.6 1/40 EV-0.7
この作品を見て「キリマンジャロですか?」と尋ねた人がいた。その人はキリマンジャロを見たことがなかったのだろうが、スケールの大きな独立峰の火山という点で共通している。フィルムで撮っていた頃の作品で、日本の山に特有の「空気感」が写っているような気もする。
Nikon N90 Fuji-Velvia 撮影データなし (友山クラブ出展作品)
日本には「氷河」が存在しないとされてきたが、2012年になって立山東斜面の「雪渓」の一部が実は氷河だったと認定された。この写真を見ると、何でもっと早く気付かなかったのかと思いたくなるが、学術的な証拠集めに手間取ったのだろう。この写真は種池小屋から爺ヶ岳を経て鹿島槍ヶ岳に至る縦走路から撮った。これも「山小屋」にこだわった頃の作品で、種池小屋の赤屋根が目立つ。
Nikon D200 18-200mm (123mm で撮影) ISO200 f6.7
1/320