「雨季」を承知でヒマラヤに出かけたが、これ程降るとは思っていなかった。ツアーパンフの殺し文句「雲の合間から白い頂が見えた時の感動…」は「違うじゃないの」と言いたかったが、添乗員氏は「今年の天候は異常で、現地の人もこんな雨は初めてだと言ってます」と弁明する。カトマンズに戻って現地の英字新聞を見ると、トップに「未曽有の洪水」の大見出しに一面水浸しの写真があった。ヒマラヤの大雨が下流のインド国境の農業地帯に洪水災害をもたらしていたのだ。添乗員氏の弁明が裏書きされ、ヘボ写真屋は「白い頂」のスケベゴコロを逸らされたシリを「地球的異常気象」に持ってゆくしかない。
「白い頂」は空振りだったが、この旅に収穫がなかったわけではない。「夫婦そろって5千m」をやり直し、ブルーポピーも撮ったが、何よりの収穫は、酔狂なツアー仲間と共に「雨季のヒマラヤ」をトコトン味わったこと。負け惜しみではない。「旅は人生」と言うではないか(「人生は旅」とも言う)。我が人生をつらつら顧みるに、晴れの日ばかりではなかったし、見たいものが必ず見えたわけでもない。雨の日や見えなかったことを無価値と決めつけては、人生がその分ムダだったことになる。期待の裏側が出ても「それもオモシロイ!」と楽しむ酔狂心があれば、人生の味も少し奥深くなりそうな気がする(後期高齢にして得た「悟り」がこの程度では、残り少ない人生もたいしたことなさそうだが)。
前編では、大雨で崩落した登山道を恐怖のバイパスで通過し、ゴーキョ第1池でブルーポピーと出会ったところまでレポートした。ブルーポピーは日本では「ヒマラヤの青いケシ」と呼ばれて人気の高山植物だが、ケシとは別のメコノプシス属(ケシもどき)の一種で、アヘンの原料にはならない。メコノプシスには1年草と多年草があり、花の色は赤、青、黄、白などいろいろで、花の形もさまざま。「ヒマラヤの青いケシ」(メコノプシス・ホリドゥラ)は標高4500mの岩場に生える1年草で、雨季の7月に2週間ほど神秘的なブルーの花をつける。この季節にヒマラヤに来るトレッカーのお目当てはこの花で、雨季に「白い頂」を撮ろうなどと考えるヘボ写真屋は異端なのである。
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標高4750mのゴーキョは、ゴーキョピーク(5360m)を目指すトレッカー、エベレストベースキャンプ方面からチョラ・パス(5330m)を越えて来たトレッカー、我々のようにレンジョパス(5345m)を目指すトレッカーが集まる交差点で、4年前よりロッジが4軒も増えていた。山小屋らしくないデザイン過剰の新築ロッジには「バス・トイレ付き」の部屋もある由。ヨーロッパ人のトレッカーはミニマム設備の「山小屋」が常識だが、「豪華飯店」は中国客を呼び込むのが目的らしい(日本人もひっかかりそう)。標高5千mの山小屋も「客商売」には違いなく、客のニーズを読んで先手を打つのが商売のイロハではあるが、中国観光地流のケバケバしい風情を5千mに持ち込むのは、いかがなものか。
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第7日目は到着が遅れた場合の予備日。予定通りに着いていた場合は「ブルーポピー散策日」だが、朝からの雨に意気が上がらず「午前中休息」で衆議一致。午後になって雨脚が弱まったのを見計らい、ロッジ北側のモレーンに登ってブルーポピー探しを楽しむ。時間を持て余して、ポーターのトランプバクチに刺激されてババ抜きに興じていると、傍で見ていた現地スタッフがルールを理解して参加、日・尼(ネパール)友好ババ抜き・七ならべ大会で盛り上がる。
第8日目の予定はゴーキョピーク(5360m)登頂だが、雨は容赦なく降り続いている。今回のツアーは「全員無事にレンジョ・パスを越えることが肝心で、雨の中をゴーキョピーク登頂を強行して体調を崩す人が出ては困る」というのが添乗員氏の意見で、我々も異議ナシ。翌日の峠越えに備えての高度順応で、ピーク中腹の5千m地点まで登って引き返し、ロッジに戻ると「友好ババ抜き・七ならべ大会」を再開。 (2012年ゴーキョピーク登頂レポート)
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今回の目玉はレンジョ・パスからのエベレストの展望だが、天候回復を待ちを続けても「白い頂」が見える見込みは薄く、よほど天気が荒れない限りレンジョ・パス越えを敢行と前日に決めてあった。ゴーキョから5345mの峠を越えて宿泊地のルンレまで、行動時間の目安は8時間だが、老人登山隊の雨中行軍はもっと時間がかかりそうだ。コース途中に避難小屋やエスケープルートがなく、1人たりとも落伍が許されない。厳しい1日はいつもより2時間早い午前4時起床に始まり、朝食の「おじや」で腹ごしらえをして、雨具に身を固めて6時に出発。
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10:57 レンジョ・パス到着。雨は氷片が混じってみぞれに変わり、長居をすると体温を奪われて危険が増す。感慨に浸る暇もなく、大急ぎで記念写真を撮ってカメラをザックに収めて下りにかかる。峠の向こう側は段差の大きな石段の連続で、急な下りは登りよりも筋肉を酷使する。酸素不足も加わって疲労が急速に蓄積し、半ば意識朦朧でヨタヨタと下る。1時間ほどで少し平らな場所に出て、やっと「休憩!」の声がかかった。路傍にへたり込んでいると、スタッフが「弁当です」と紙袋を配ってくれる。冷えたチベット・ブレッド(小麦粉を練って焼いたもの)に固茹で卵のパサパサランチは喉を通り難いが、まだ先は長い。少しでも食べないと体力がもたないと思い直し、水筒のお湯でムリに流し込む。
高度計が5000mを切って急坂が終わると、気分は少し楽になるが、雨は相変わらずで、白一色の景色では地図を見ても現在地が分からず、高度計が目的地のルンレの標高4290mを示すまで、黙々と下り続けるしかない。足が棒になった頃、やっと霧の中にカルカとロッジが現れた。着いて直ぐに出してくれた熱いミルクティーは生命の味がした。
1週間以上過ごした4000m超の世界から、やっと富士山頂より低いところに下る。この日の行程は標高差800mの下りでラクチンに見えるが、移動距離は長い。ルンレを出て急流に沿って谷を下る。連日の雨で水量の増した川は濁流が怒涛の如く走り、鉄骨を組んだだけの橋を渡る時は、高所恐怖とは別種の恐怖に身が縮む。
出発から3時間で里に出る。ここから先は平坦でラクかと言うと、そうは問屋が卸さない。日本の山歩きでも経験するのだが、山を下りてからの長い里歩きが結構辛いのだ。ネパールでは集落と集落が尾根で遮られ、次の集落へ行くには川沿いから尾根筋まで登り、峠を越えてまた川まで下ることになる。地図に表れない数十mのアップダウンの繰り返しが、消耗した心身にダメ押しのダメージを与える。「もうマイッタ」と言いたくなる頃、ターメで昼食になった。
ターメのレストラン兼ロッジのオーナー、アパ・シェルパ氏はエベレスト登頂回数の記録保持者で、壁一面に飾られた写真や賞状の中で、ギネス認定証(21回登頂)がとりわけ光を放つ。エベレスト登山隊をサポートするシェルパはこの周辺の住民が多く、彼等の夢はエベレストで稼いでロッジを建てることだが、この仕事の危険度は改めて言うまでもない。アパ・シェルパ氏のように、命を落とさずに20回以上も登頂できた者は、本当にラッキーなのである。
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トレッキング最終日(と思っていた)の朝、久しぶりに山が見えた。雨具なしで歩けるのは嬉しいが、もっと嬉しいのは午前中にエベレストビューホテルに着いて、昼食に親子丼を食べ、11日ぶりにシャワーを浴びること。ターモからホテルのあるシャンボチェ(往路にヘリを降りたところ)まで400mの登りだが、酸素が濃くなったおかげで足取りは軽い。
エベレストビューホテル訪れるのは3度目。最初は1996年11月の写真ツアーで、カトマンズからヘリでホテルの庭先に降り、僅か1時間の滞在で飛び帰ったので、お茶を飲む暇も無かった。2度目は2013年1月、ゴーキョピークの帰途に1泊したが、猛烈な胃腸障害でダウン、せっかくの正月料理をフイにする無念が残った。今回はそのリベンジでもある。
前回と違うのはシャワー室が出来たことと、客が我々だけだったこと。ホテルの部屋にバスタブはあるが使用できない。ホテルが使う水はクムジュン村のオバサン達がポリタンクで担ぎ上げ、燃料もポーターかヤクの背で運び上げるので、お湯をジャブジャブと使うわけには行かないのだ。前回はバケツのお湯で体を拭いたが、今回はシャワーを交代で浴びることが出来た。他に客がいなかったのは、雨季で客足が少ないこともあるが、飛行機が飛ばないと客が来れないという、このホテル特有の事情がある。ルクラへの国内線もヘリも雨や風で飛べない日が多い。この日も予約客が到着できず、客は雨を突いて歩いて来た我々だけ。種々困難な状況の中で40年経営してきた苦労は想像に余りあり、応援したい気分になる。
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当初の日程ではホテル滞在は1泊で、翌朝1番にホテル前からヘリでルクラに下り、国内線でカトマンズに戻る予定だったが、この天候ではヘリが飛べないことはシロウトでも分かる。ホテル延泊は追加料金になるが、エベレストは見えなくても、世界最高地点のホテル連泊の贅沢を味わえばヨシ、わずかでも売上増に貢献するのもまたヨシ。食材と水を人力で担ぎ上げる制約の中で、食事にも精一杯の工夫と心遣いが感じられ、宮原氏が40年前にこのホテルを建設した当時の心意気が、現在の現地スタッフにしっかりと受け継がれていることを感じる。
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第14日目(7月27日) ルクラ → カトマンズ
第13日目、東面の部屋から見た朝の天気は前日より良好。雲高が6千m辺りまで上がって太陽が透けて見え、もう少しでローツエやアマダブラムが姿を現しそう。前日に決めた作戦は3段構えで、朝一番でヘリがホテル前まで上がれば満点、ダメな場合はナムチェのヘリポートまで1時間歩いてヘリを待ち、それもダメならルクラまで1泊2日で歩く(ナムチェとルクラの間にヘリポートなし)。6時半に朝食、部屋で待機していると、飛行ルートの雲が厚くて見込みナシとの連絡が入る。歩いて下山となると荷物を担ぐポーターの手配や途中の宿の予約が要るが、そこはネパール語完璧の添乗員と地元に自前の拠点を持つツアー会社の強みで、短時間で諸準備が整って8:20にホテル出発。ホテル前の崖から下界を見下ろすとルクラの谷は雲海で埋まっている。これでは飛べないと納得、ハラをくくって歩き始める。
ナムチェから先は4年前にルクラから登って来た道で、記憶が多少残っている。標高差600mの「ナムチェ坂」を下り、高度恐怖症には試練の長い吊り橋を渡ると、国立公園入口の検問所があるモンジョ。ここで昼食時に重大発表があった。この日は途中で1泊の予定だったが、翌朝1番にルクラからカトマンズに飛ぶ便を確保できたので、今日中に一気にルクラまで歩くと言う。地図を見るとまだ1/3も来ていない。残る距離は直線で約8㎞だが、地図に見えない曲折やアップダウンの多い山道は6時間を要すだろう。日が暮れてしまうが、ヘッドラランプは不覚にもポーターに預けた荷物の中だ。添乗員氏は「皆さんなら大丈夫」とゲキを飛ばすが、内心は穏やかでない筈。
結果から言うと、明るい内に(18:30)ルクラの宿に着いた。添乗員氏によれば、シャンボチェからルクラ直行の前例はあるが、平均年齢がもっと若い山岳会OBのグループだったという。我々老人登山隊はものすごくガンバッたのだ。小生もアクセル全開で歩いたが、ビールを2本飲んで爆睡、翌朝はどこも痛くなくケロリと起きた。後期高齢まで残り1ヵ月の身だが、まだまだイケルということか。
第14日目、朝1番の便は予定通りに飛び、全員無事にカトマンズに帰着した。予備日を2日食ったので(ホテル・エベレストビュー延泊、ルクラ泊)、カトマンズの滞在は5泊から3泊になったが、その使い方は別の機会にレポートしよう。
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