国名を聞いても、どこにあるのか、どんな国なのか、ピンと来ない国がある。キルギスもそんな感じだったが、行ってみるとなかなか興味深い国で、日本とのかかわりも浅からぬものがあった。
今から25年前のキルギスの旅は、その2年前にモンゴルでお世話になったツアー会社から「日本・キルギス友好協会のツアーに余席がある」と誘われたもので、隣国のカザフスタンとウズベキスタンの観光も含まれ、シルクロードの旅に興味が湧いて参加を決めた。旅のレポートはキルギス共和国、カザフスタン、ウズベキスタンの記事でご覧ください。
旧ソ連の一部だったキルギスは1991年に独立し、脱ソ連の独自路線を模索した新政権は成長モデルを日本に求め、この地域の地勢と歴史に詳しい人類学者の加藤九祚氏(創価大、国立民族博物館等で教授を歴任)を大統領特別顧問に迎えた。日本政府の援助で1995年に首都ビシュケクに人材育成センターが開設され、我々の「友好協会ツアー」の日程に、センターの幹部やスタッフとの懇親パーテイと、日本語クラスの生徒たちとの交流ハイキングが組まれていた。
ハイキングは無事に行われたが、夕方に予定されたパーテイはドタキャンになった。その日の昼、南西部のタジキスタとの国境地帯で鉱山の調査にあたっていたJICA派遣の技師4名が、イスラム過激派に誘拐される事件が勃発したのだ。我々が訪れる地域は安全と判断してツアーを続け、技師もその後開放された。このニュースは日本で大きく報じられ、身代金での解決に是非が論じられたが、被害者を無事に取り戻す手段は他にない。キルギスがそういう地域にあることを身をもって知る旅でもあった。
キルギスは人口5百万の小国で、その2割が首都ビシュケクに集中している。我々が訪れた当時、旧ソ連圏特有の無骨な建物ばかりで、お世辞にも魅力的な都市とは言えなかったが、高い山に囲まれた盆地の地形と標高800mの爽やかな空気は、小生が中学時代を過ごした松本市を思い出させ、ホテルから見える山なみも穂高岳~常念岳にそっくりだった。
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ビシュケクが松本市とすれば、車で40分のアラ・アルチャ自然公園(その後国立公園になった)は「上高地」だ。標高1700mは上高地とほぼ同じで、穂高岳・明神岳に似た岩峰を望み、梓川を思わせる清流と大正池もあった。
アラ・アルチャ自然公園で日本語クラスの生徒たちとの交流ハイキングが行われた。生徒は大学生と社会人の約30人で、日本からの友好協会員は学校の先生が多く、生徒のたどたどしい日本語を丁寧に指導しながら山道を歩いたが、非会員の小生は写真撮影を優先させてもらった。
キルギス人は体つきや顔つきが日本人に似ているので、集合写真ではキルギス人も日本人も区別がつかない。アップで撮ると雰囲気が多少違うが、親近感が湧く。
ビシュケクから東へ200kmのイシククリ湖周辺は、雪を頂く岩峰、澄み切った湖、爽やかな気候から「中央アジアのスイス」と言われる。旧ソ連時代はモスクワの高級官僚の保養地で、一般人と外国人は立ち入り禁止だった。ソ連崩壊で保養施設がキルギスに移管されて国際観光地に再生中で、我々一行は接客の稽古台だったらしく、分厚いアンケート用紙を渡された。
遊覧船で湖上から見ると(上写真)、4階建の宿舎群は背の高い針葉樹林に隠れて目立たない(中央の白い建物は野外劇場)。居室は米国のリゾートの長期滞在コンドミニアム風だが、お湯の出が不安定なのは老朽化のせいか、それが旧ソ連の標準だったのかは不明。料理の食材は悪くなかったが盛り付けがイマイチだったのも、サービス業の概念がなかった旧ソ連の標準だったかもしれない。
宿舎の3階のベランダからイシククリ湖越しに朝日に赤く燃える天山支脈を撮った。翌年の写真展に出展すると、川口先生が「天地悠久」とタイトルを付けて下さり、対岸のシルクロードを西にたどってインドに旅する玄奘三蔵の姿が目に浮かんだ。
イシククリ湖は不思議な湖だ。広さは琵琶湖の9倍、水深が666mあり、透明度はバイカル湖に次いで世界2位。流れ出る川がなく、北緯42度の高緯度と1600mの標高でも冬季に結氷しない。あちこちに水没した遺跡があることも確認されている。
朝食前に湖畔を散歩していると、前を歩いていたオジサンが衣服を脱いで湖に飛び込んだ。ろくに泳げない小生、水深660mと思っただけで引き込まれそうで、背筋に電流が走った。
イシククリ湖東端のカラ・コルを訪れた。イスラム圏のキルギスにロシア正教の教会があるのは、19世紀半ばにロシア人探検家のブルジェワルスキーがこの地方を踏破し、ロシア人とウクライナ人が入植して町を拓いたからで、宗教を否定した旧ソ連時代はロシア人の体育館になっていたという。
ソ連崩壊でロシア人が去り教会は放置されていたが、我々が訪れた時は外装がきれいに修復され、内部の祭具を工事中だった。ガイドによれば、教会の復活よりも観光資源化が目的とのことだった。
天山山脈はキルギス東部のカザフスタン・中国との国境で標高を上げ、主峰ポペータ(7439m)やハン・テングリ(7010m)を目指す登山隊はカラ・コルから入山する。15kmほど進んだところに奇景ジュテイ・オグズ(7匹の牛)があるが、ややこしい伝説はアタマに入らなかった。更に奥の山中に初代宇宙飛行士のガガーリンが訓練を受けた施設があったという。
現役の鷹匠の実演を見せてもらった。日本の鷹匠のパフォーマンスでは餌に死肉を用いるが、キルギスの鷹匠は生きた野兎を放った。おびえて身をすくめる兎が可哀そうな気もするが、狩猟は元々生き物の命をもらう業で、ホンモノの狩りに感傷が入り込む余地はない。
修行中の息子も技を披露したが、やはり年季の差は歴然。息子が修行を重ねても、野生の生き物を獲る目的で狩りをすることはないのではないか。伝統技の継承は大切なことだが、観光ショーが目的の修行では、技の変質は避けられないだろう。我々は最後のホンモノの鷹匠を見たのかもしれない。
シルクロードと聞くと特別な旅情が湧くが、中央アジアはどこへ行ってもシルクロードだらけで調子が狂った。歴史オンチの小生、シルクロードは「中山道」のように特定の街道の呼び名だと思い込んでいたが、「古代の通商路を総称する概念」と知り、やっと納得できた。
ビシュケクとイシククリ湖の中間地点のトクマクは「シルクロードの交差点」で、玄奘三蔵が滞在して厚遇を受けた砕葉城の遺跡がある。交差点に立つ高さ24mの「プラナの塔」は11世紀初めの突厥時代の見張り塔で、玄奘三蔵は見ていない。
トクマクはガイドの出身地で、高校の後輩を動員してキルギス伝統の「騎馬戦」を見せてくれた。羊の皮に詰め物をした袋を人馬一体で奪い合う騎馬民族ならではの競技だ。
我々が子供の頃、騎馬戦は運動会の花形競技で、ハチマキの奪い合いではなく、敵の騎手を引きずり下ろすまで闘った。弱虫の小生はもっぱら馬の後足だったが、日頃は成績劣等で肩身の狭い子がこの日ばかりは抜群の働きで称賛を浴び、そんな子が成人して立派な棟梁になったりもした。出血したり脱臼する子もいたが、騎馬戦に多少のケガはつきもので、学校側を糾弾する親はいなかった。騎馬戦が禁止になった頃から、この国の凋落が顕著になったような気もする。
騎馬戦が終わり、見物に集まった子供達が家路につくところを撮った。騎馬民族の伝統を持つキルギスでは、学齢前の子供も身丈に合った仔馬やロバを与えられているようだ。イイ感じで撮れたので写真展に出すと、川口先生が「キルギスの山々を里として」とタイトルを付けて下さった。
写真には「まぐれ当たり」があるが、タイトル付けは豊かな語彙とセンスなしではサマにならない。先生が「自案がなければ私が付けてあげます」とおっしゃるので、出展作品のタイトルは毎回先生にお任せした。「良い作品は見た瞬間にタイトルが浮かぶ」由で、俳句の巨匠と同じ境地と拝察する。(小生愚作のタイトル付けは3日3晩苦吟の末だったのだろう。スミマセンでした) (出展作品集)