1999年夏、キルギス・日本友好協会が企画したツアーに、縁あって便乗させてもらった。キルギスが観光地との認識はなかったが、旧ソ連時代、イシククリ湖畔に、政府高官用の大規模な保養施設(サナトリウム)があった。それがキルギスに移管され、そこを拠点とする観光開発が進められようとしていた。

キルギスは91年の独立後、旧体制からの離脱を急いだ。日本の支援に対する期待が大きく、日本人学者を大統領顧問に招いたり、大学に日本語コースを設けたりした。我々の滞在中、日本人4名、テロリストに拘束される事件が起きたが、彼等は、タジキスタン国境に近い地域で、鉱山開発の調査にあたっていた技術者だった。その後、親日派の大統領が失脚し、新政権は米軍の駐留を認めるなど、米国との協調を深めていたようだが、最近は、ロシアの圧力復活を思わせるニュースが聞こえる。

キルギスは人口5百余万の小国で、7割がキルギス人である。彼等の風貌は驚くほど日本人に似ていて親近感を覚えるが、騎馬民族でイスラム教徒の彼等は、文化的には日本人だけでなく、ロシア人からも遠いかもしれない。中央アジアの人たちが抱える民族・宗教問題の複雑さ、根の深さは、島国の日本人の想像力を超える。

キルギス地図

首都ビシュケク、アラ・アルチャ自然公園

キルギスには、カザフスタンのアルマトイから、バスで陸路入った。現在のEU圏と同様、国境の検問がなかった。人口130万の首都ビシュケクは、我々が訪れた頃は、旧ソ連圏特有の無骨なビルが並ぶだけで、特に魅力のある町とは思えず、旅程には市内観光もなかった。

ビシュケクは、4千m級の天山支脈の麓にある。市内から40分も走ると、アラ・アルチャ自然公園に着く。清冽な渓流のほとりから峻険な峰々を仰ぐ趣を、同行者は日本の上高地に擬したが、眺めも自然との距離も、こちらの方が上だろう。その公園で日本語を学ぶキルギスの学生たちとの交流会を持った。学生の日本語力にはバラつきもあったが、日本留学を夢見て純真に学ぶ青年達には、好感が持てた。その後の日本が彼等の期待に応えられる国であり続けているか、自信が持てない。


朝のビシュケク市街 郊外の高級住宅地
ヤナギラン咲くアラ・アルチャ公園 コロネット・ピーク
日本語を学ぶ学生たちと記念撮影 キルギス人の母と子
昼食の準備 食欲、湧きますか?


キルギス北部のイシククリ湖は、面積が琵琶湖の2倍以上、水深は1600mあり、透明度の高い水は青インクのように見える。湖底から温泉が湧くので、冬季でも凍結しないという。紺碧の湖に姿を写す天山支脈はまさに一幅の絵で、旧ソ連がこの地に高官専用の保養施設を建てたのも頷ける。

我々が訪れた10年前、リゾートの設備やサービスには旧ソ連流が残っていたが、最近のネット広告を見ると、欧米流の高級リゾートになったようだ。欧米の資本が入ったのかもしれない。


湖畔の岩絵 家路の兄弟
リゾートの看板 朝の天山支脈
花に埋もれたリゾート 湖上からテルスケイ山脈
朝の水浴 祖母と孫


カラ・コルは、イシククリ湖東岸の小さな町だが、探検家ブルジョワルスキーを記念する博物館や、木造の正教会などの観光資源がある。少し山の奥に入ると、赤い岩塔の連なる奇景ジェティ・オグズ(7頭の牛)の麓に温泉が湧き、民宿風の温泉宿もある。更に奥には、ソ連の初期の宇宙飛行士ガガーリンなどが使った訓練所もあるという。

玄奘三蔵は、中国から天山支脈を越え、イシククリ湖南岸を西へと辿ったという。そのあたりに住む鷹匠が、我々のために技を見せてくれた。鷹匠の腕で甘えるようなしぐさを見せた鷹も、放たれて獲物を追う姿は猛禽である。息子が後継者として修業中というのも嬉しい。

カラ・コルに向かう 東方正教会
教会内部 奇景 ジェティ・オグズ
鷹匠 若き後継者
鷹を放つ 獲物を確保


シルクロードの交差点、トクマクと高校生の騎馬戦

シルクロードの交差点だったトクマクは、イシククリ湖と首都ビシュケクの中間にある。玄奘三蔵が、インドへの往路に滞在した、砕葉城の遺跡も近い。目印はプラナの塔と呼ばれる高さ24mの塔だが、この塔が建てられたのは11世紀初めだから、三蔵法師は見ていない。

トクマクの民家を訪れて昼食をいただいた。油で揚げた濃厚な味の伝統的なごちそうは、そろそろ冷ソーメンでも食べたくなっていた我々の胃袋には、少々重く感じられた。食事の後、高校生たちの馬術を見せてもらった。羊の胴体を奪い合う競技は文字通りの「騎馬戦」で、彼等が騎馬民族の伝統をしっかりと守っていることを知らされた。

姉妹 子供たち
客間にて 高校生の騎乗戦
高校生の騎乗戦 高校生の騎乗戦
家路 プラナの塔
石人のコレクション 砕歯城の遺跡