「シルクロード」と聞くと、いにしえの東西交易に思いを馳せ、ロマンチックな気分になる。だが「シルクロード」は、1877年にドイツの地理学者リヒトホーフェンが言い出したもので、その概念に異を唱える学者もいるようだ。何れにせよ、当時の商人たちはそんな呼び方を知らなかったし、街道を歩き通した商人がいたわけでもない。
「シルクロード」にはオアシスが点在したが、定まった「ロード」はなかった。オアシスのバザールを辿る隊商の痕跡は、たちまち風に吹き消され砂に埋もれた。運ばれた商品はバザールで取引され、買った商人が次のオアシスに運んで売った。そんなリレー式の商売がシルクロード交易の姿だったようだ。ウズベキスタンの旅でそのことが腑に落ちた。
オアシスの支配者はしばしば入れ替わった。古代はソグド人、8世紀はアラブ人、10世紀はティルク人が主人公だった。13世紀に蒙古人が侵入して全てを破壊し去った後、14世紀にこの地に興きたティムール朝がオアシス都市を再興した。
140年続いたティムール朝も北から侵入したウズベク人に滅ぼされた。その国も19世紀に帝政ロシアに支配され、革命後は旧ソ連邦の一部となった。1991年の独立後は経済再建の苦闘が続き、歴史遺産に依存した観光事業を進めつつ、鉱工業の開発を急いでいる。しかし、現地でボランテイアをしている友人の話を聞くにつけ、旧ソ連の洗礼を受けたイスラム世界の人心の複雑さには、ただ嘆息するしかない。
ブハラは「僧院」を意味するという。1512年にこの地を都と定めたウズベク族は、360のモスクと80のメドレセ(神学校)を作った。今日我々が見るブハラの史跡の中には、それ以前に建てられて砂に埋もれ、蒙古の破壊を免れたものもあるが、大半は16世紀のブハラ・ハーン国時代のものである。
ブハラはシルクロードの交易場所としても賑わった。タキ(バザール)や商人宿は、モスクや僧院の宗教施設に入り混じって、2平方kmほどの旧市街に密集している。案内人に導かれるまま迷路のような通路を辿ると方向感覚が失われ、思いがけない場所にヒョッコリと出て、魔法にかかったような気分になる。
歴史地区を遠望 | アルク城のゲート |
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アルク城は圧政の限りを尽くしたと言われ、血のにおいがする | 9世紀のイスマイール・サマニ廟。現存するイスラム最古の建築物 | ||
イスマイール・サマニ廟のドーム | マゴキ・アッタリ・モスク。破壊され作り直された跡が3層認められる | ||
マゴキ・アッタリ・モスクのドーム | 崩れかけた城壁 |
1万人収容のカラーン・モスク。左のミナレット(塔)は1127年に作られた | 左のミナレット(塔)は1127年に作られた | ||
カラーン・モスクの内側 | ミル・アラブ・メドレセはソ連時代も開校 | ||
昔の交易所もこんな雰囲気? | カタリダシュ・メドレセ | ||
ラビハウズの池 | 夕日に映えるメドレセ |
タキ(バザール)の外観 | タキの内部 | ||
男はチャイで暇つぶし | 市場にて | ||
ティムールの像 | 史跡で催される民族歌舞。 | ||
胡人の美女に司馬遼太郎も魅了された |
サマルカンドは「青の都」の別名を持つ。ブハラでは土レンガの黄色が砂漠を感じさせるが、サマルカンドでは青タイルの繊細な輝きが心の奥に染み入り、砂漠の中に居ることを忘れてしまう。
一般民衆にとって宗教は「言葉」だけでは成り立たたない。偶像崇拝を禁ずるイスラム教にあっては、信者に「神」を感じさせる仕掛けは心を奪う建造物であり、壁の文様であり、タイルの色である。サマルカンドを歩くとそのことを実感できる。
日本の仏教建築は年を経て彩色を失い、その枯淡さが「ありがた味」を増すが、イスラム建築では、タイルが剥がれたり彩色を失ったりすれば威光が失せてしまう。サマルカンドが世界遺産に登録されたのは2001年だが、我々が訪れた頃はそれに先駆けるように、あちこちで修復作業が進んでいた。作業現場には、焼き上がったばかりのタイルの荷が積まれ、空の青とあざやかさを競っていた。
蒙古に破壊されたアフラシャブ遺跡 | 蒙古の破壊を免れた天文台。巨大な六分儀で暦を管理した。 | ||
蒙古の破壊を免れた天文台。巨大な六分儀で暦を管理した。 | ティムールの一族が眠るグリ・アミール廟。 | ||
グリ・アミール廟の内部の修復には3kgの金が使われたという | グリ・アミール廟。内部 | ||
シャーヒズィンダ廟群。ここにもティムール一族の霊廟が並ぶ。 | シャーヒズィンダ廟群。 |
シャーヒズィンダ廟群の青タイルの壁面 | |||
廟群の外形< | 市場裏のモスク | ||
復の終わったドームとミナレットの鮮やかなタイル | |||
修復中のモスク |
市場脇の古いモスク | サマルカンドの夏は西瓜の季節 | ||
市場の風景 | |||
焼き肉屋台 |
ウズベキスタンの首都タシケントも古代からのオアシス都市だった。蒙古軍による破壊後もシルクロードの要衝として再建されたが、現在のタシケントには遺跡らしいものが殆ど見られない。1966年4月26日に発生した直下型地震によって崩壊した為である。
復興には旧ソ連各地から数万人が動員され、短期間で近代的な都市に生まれかわった。体制の勝利として宣伝されたというが、旧ソ連崩壊の8年後に訪れた我々は、米国が急速に接近する様子を目撃した。その後、もし米国がイスラム圏を敵に回すことがなかったら、世界は別の展開をしていたかもしれない。
地震後に建設された人民友好宮殿。 |
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噴水は市民のプール代わり | 市の中心部 | ||
地震慰霊碑と新婚夫妻 | 米国への憧れ? | ||
日本人抑留者によって建てられたナヴォイ劇場 | 劇場のレリーフ |