「エベレスト街道」はエベレスト登頂を目指す登山隊がたどった道筋を言う。ネパールで車が走れる道路は、首都カトマンズと第二の都市ポカラ周辺の平野部に限られていた。エベレスト街道の起点は道路終点のジリで、ベースキャンプまで100Km以上の道のりがあった。登山隊はここで数百人のポーターを雇い、3千m級の峠をいくつも越え、1ヵ月のキャラバンでベースキャンプにたどり着いた(近年は道路工事が盛んに行われ、数年前に60Km手前まで開通したと聞く)。
1964年にベースキャンプから40Km手前のルクラに簡易飛行場が作られ、2001年に滑走路を舗装して定期便が飛ぶようになり(19人乗り小型機だが)、ルクラがエベレスト街道の起点になった。おかげで個人の観光山歩き(トレッキング)が容易になり、エベレスト街道は「エベレストに登りに行く街道」から「エベレストを見に行く街道」になった。
先ずルクラ(2840m)からナムチェ・バザール(3440m)まで、高所順応しながら2日かけて歩く。ナムチェは昔から交易市の集落で、登山隊の後方基地に好都合だった。今はトレッキングの中継地として賑わい、登山用品のブランドショップも軒を連ねている。ナムチェを出てキャンヅマ(3600m)の手前でヒマラヤの山岳展望が開け、ローツエからヌプツエに伸びる稜線の上に「エベレストのおでこ」も見える。この辺りで折り返す観光客も多く、近くのシャンボチェの丘には宮原 巍(たかし)氏が1971年に建設した立派なホテルがある。
街道はキャンヅマの先で二手に分かれる。右がエベレスト・ベースキャンプに至る本線、左はエベレスト展望台のゴーキョピークに至る支線で、どちらもチベット系住民(シェルパ族など)の集落や放牧地をつなぐ生活道路だ。小生は本線を2018年4月に歩き(エベレスト街道)、支線を2012年12月(ゴーキョピークトレッキング)と2016年7月(雨季のヒマラヤ)に歩いた。
街道の看板役者はもちろんエベレストだが、出番が少ないことは本シリーズ初回の「8千m峰篇」に書いた。他の8千m級の3峰(ローツエ、マカルー、チョオユ―)が座長クラスの貫禄を見せ(8千m峰篇に既出)、7千m級のギャチュンカン、ヌプツエ、プモリも立役者の存在感を示し、6千m級の峰々も脇役で夫々の味を出している。
ナムチェからキャンヅマまで3時間足らずで昼前に着いてしまうが、1泊して時々刻々の景観を楽しむ価値がある。キャンヅマからの眺めを歌舞伎の舞台に例えれば、中央左の床几に立役ローツエが反りかえり、相対して世話女房役のアマダブラムが顔を上げ、上手裾に若女中役のタムセルクが端正に座している。写真屋はレンズが美形のタムセルクに吸い寄せられ、ロッジの前に三脚を立てて日が落ちるまで撮ることになる。ロッジは江戸時代の旅籠を彷彿させる趣があったが、2017年に火災で焼けてしまった(翌2018年に通った時に再建工事中だった)。
ニコンD300S、24-120㎜(95㎜で撮影)。ISO400、f8、1/100、EV-0.3 (友山クラブ出展作品)
キャンズマの先で分岐を支線に入り、緩やかな坂を3時間登るとモンラに着く。我々はここでも1泊して山岳景観を楽しんだ。キャンズマから方角が時計回りに30度移動して視点が350m高くなり、タムセルクは洋装立ち姿の八頭身美人に変身していた(一般に、高い山は高い場所から見るとより立派に見える)。
ニコンD300S、18-200㎜(120㎜で撮影、トリミングあり)。ISO400、f6.3、1/800、EV-0.3
カンテガは「馬の鞍」の意で、山頂が鞍の形に見える。写真屋にあまり人気がないのは、隣の容姿鍛錬なタムセルクに比べ、カンテガはズングリムックリで不細工に見えるからで、レンズを向ける気が起きないのも仕方がない(右写真はモンラから、左がカンテガ、右はタムセルク)。標高はカンテガの方がタムセルクより80m高いのだが、仰角のせいで低く見えるのも、気の毒と言うしかない。
不細工で無視されがちなカンテガだが、街道を進んで裏側(北東)に回ると俄然カッコ良くなり、鋭い槍が天を突き、鉄壁の盾はクライマーを寄せ付けない。このアングルからのカンテガの雄姿はもっと知られて良い。
NIKON D750 24-120mm(95mmで撮影) ISO800 f10、1/250 EVー1.3
アマダブラムは「母の首飾り」の意だが、母親が子供を抱き寄せようとする姿に見える。「山」の字にも見えるし、たもとを揺らして踊る女にも見え、表情豊かな山なのだ。
この作品には苦い思い出がある。2012年12月31日、ゴーキョピークからの帰り道で体調を崩し、絶食状態で1月2日朝にホテル・エベレストビューにたどり着いた。すぐ部屋に通してもらいベッドに倒れ込むと、窓の外でアマダブラムが「撮ってちょうだい」とポーズしていた。ふらつく足でベランダに出て撮ったにしては爽快な作品だが、ホテルがせっかく作ってくれたおせち料理も胃が受付けず、ヘリで下山した経緯は「ゴーキョピークトレッキング-2」に記した。
ニコンD300s 18-200mm(82mmで撮影) ISO400、F10、1/500秒 EV-0.7
ディンボチェを出発して2時間、傾斜が緩やかになり、ふりむくとアマダブラムが大変身していた。山は見る角度によって姿を変えるが、この鋭峰がアマダブラムだと分かる人は少ないかもしれない。
自画自賛は控えるべきだが、この作品は良く撮れたと思っている。自賛ついでに余計なことを言うと、3人のトレッカーがミソで、山の写真では人物は視線を奪う邪魔物とされるが、敢えて目立つように工夫を施した。手前の大岩はもっと邪魔だが、川口先生は「この岩は結界を表わし、これがあるから人物が活きる」と評して下さった。そんなわけで、この作品はコンテストでは予選落ちだろうが、我が山写真人生の最高傑作と秘かに思っている。
Nikon D750 24-120mm(50mmで撮影) ISO400 F10 1/600 EV-1 (友山クラブ写真展出展)
ナムチェから2~3日歩いて標高が4千mを越えるとディンボチェ(4410m)で、ここで高所順応のため連泊する。じっと休んでいてはダメで、少し高い所まで登って下って休むのが効果的とされる。主街道を外れて東へ1時間ほど登ると、谷の奥にアイランドピークが見えた。
1953年に英国のエベレスト登山隊(1953/5/29に初登頂成功)がディンボチェを通った時、氷海に浮かぶ小島のように見える峰をアイランドピークと名付け、エベレスト登攀の小手調べに登った。標高はそれほど高くないが、高度な登攀技術を試すのに適した場所が随所にあり、今も「ヒマラヤ登山入門」のゲレンデになっているようだ。
Nikon D750 24-120mm (120㎜で撮影、トリミング有り) ISO400 f9、1/20 EV-1.3
街道の入り口から見えるタウツェは凡庸なピークで、わざわざカメラを向ける気が起きないが、カラパタールの帰途、急に雲が去って目の前に姿を現したタウツェの迫力に驚いた。
この場所に遭難したシェルパの100基を超える慰霊碑が立ち並び、下北半島の恐山を彷彿させる。ヒマラヤの登山がシェルパたちの命がけの仕事で成り立っていることを改めて思う場所だ。(右斜面の踏み跡はチョラ峠を経てゴーキョに抜ける近道)
Nikon D750s 24-120mm(28mmで撮影) ISO400 F11、1/800 EV-0.7
小柄なチョラツェが身を傾げた姿に愛嬌がある。この作品はロッジ裏のゴジュンバ氷河のモレーン(石堆)に登って撮った。標高5千m近いゴーキョの日中の気温は0℃程度だが、陽が傾くと急に気温が下がる。ありったけの防寒着と防寒帽に身をかため、カメラ操作で凍える手をポケットのホカロンで温めながら、日没までがんばった。
太陽が沈む時、山は不思議な色に染まる。不思議な雲が漂い、峠の向こう側の山の頂に光が残っていた。地図を見るとこの場所にアイランドピークがあった。
Nikon D300s 24-120mm (105mm で撮影) ISO400 f8、
1/400 EVー0.6 (友山クラブ写真展出展)
8千m峰篇で世界第4位のローツエを「エベレスト隠し山」と呼んだが、ヌプツエも同じ。ベースキャンプからエベレストが見えないのは、前にヌプツエが仁王立ちしているからで、全身を懸垂氷河で鎧い、鋭い気迫を漲らせて守護神を任じている。
Nikon D750 28-300mm (28mm で撮影 トリミングあり) ISO400 f4、
1/4000 EVー1
エベレストの西8kmに位置するプモリは「エベレストの娘」と愛称される。その南麓に街道トレッキングの目的地、エベレスト展望台のカラパタール(5545m、中央右下のピラミッドのピーク)がある。我々は4月30日の朝、薄い酸素にあえぎながら必死に登ったが、霧に包まれてエベレストが見えなかった(ゴーキョピークトレッキングー2)。翌朝、下山の途中で振りむくとカラパタールは晴れていた。1日ズレていたら・・・と無念の涙を呑みつつ撮ったのがこの1枚。
Nikon D750 24-120mm (120mm で撮影) ISO400 f10、
1/250 EVー0.7
ギャチュンカンは8千mに僅かに届かないが、ゴジュンバ氷河の奥に堂々と聳え、エベレストより立派に見える。1964年に長野県山岳連盟が初登頂した山で、同郷人として親近感も湧く。2002年に山野井夫妻が雪崩から生還、その壮絶な記録を沢木耕太郎が「凍」に著した山でもある。
Nikon D300s 24-120mm (35mm で撮影、トリミングあり) ISO400 f9、
1/1250