1993年5月18日の夕方、筆者はサント島のホグ・ハーバでロクロク夫妻をインタビューした。夫妻の子息のシロスとジェイコブに加え、カロリス・シエルが同席した。その場にはジョナサン・オウェとレックス・ケッド、マーチン・チャーリーもいた。ロシーナ、ローランド、アニータ、レスターなど、子供たちも集まって話を聞いた。
その晩に収録されたテープを、1993年当時オネスア高校の10年生だったロクロク夫妻の孫のジョ二-・ウィルソンが聞き、学校が休暇になってから祖父母の暮らしていたホグ・ハーバーに行き、更に多くの話を祖父母から聞き出した。
チャーリー・ロクロクの氏話
米軍が来た時、チャーリー・ロクロクは19歳だった。彼はサント島で米陸軍のために働き、船舶から荷物を下ろす仕事をして、1カ月に40ドル稼いだ。米陸軍が住居と食糧を提供した。サント島、マレクラ島、アンバエ島の男たちもいた。
彼等はアメリカ人から、サント島を日本軍から守るために来たのだと聞かされた。兵隊たちが言うには、ソロモン諸島ではたくさんの人達が殺され、骸骨がまるでサンゴのようにあちこち転がっているということだった。アメリカ兵があちこちの海岸に展開して、日本軍の艦船や飛行機、潜水艦を監視していた。
チャーリーは奇妙なトラックを見た記憶がある。それは実は戦車だった。そんなものは見たことがなかったが、別に恐ろしいとは思わなかった。陸に上がってトラックにように走るボートもあった。
ある日、昼飯時に休憩していると、米軍のレーダー基地から長いサイレンの音が聞こえてきたことがあった。ただちに米軍の飛行機がソロモン諸島の方向の空に向けて飛び立った。米軍の飛行機は、サントを爆撃しに来た単機の爆撃機を取り囲み、サントに誘導して無傷のまま着陸させた。
パリクロに着陸して飛行機から操縦士が出てくると、それが日本人の女性だとわかった。チャーリーは、その飛行機の前頭部が滑らかに丸くなっていて、星のマークが付いていたのを記憶している。その女性パイロットがその後どうなったのかは知らない。捕虜を見た記憶もなかった。
チャーリーによれば、彼は白人兵よりも黒人兵と働く方が楽だったという。黒人兵と仲良くなって、魚釣りに連れて行ったこともあった。
アンナ・ロクロクさんの記憶
戦争が始まった時、アンナ・ロクロクは13歳で、飛行機が非常に怖かった。彼女は日本軍の飛行機には日の丸が描かれているので判別出来た。それまで飛行機を見たことがなかったし、それが鳥のように飛ぶかどうかも知らなかった。学校の外で友達と立って見ていると、その下の畑に飛行機が墜落した。二人乗っていて二人とも助かった。アメリカ人が来て、飛行機を片づけて船で運んで行った。
アンナは、船首が開いて貨物を出し入れする船も見た。それも奇妙なものだった。
ソロモン諸島で戦争が終わったと聞き、アメリカ人が自分たちを日本人から守ってくれたことが嬉しく感じられた。
サレ・ワルセン氏(92歳)の話
サレ・ワルセン氏は北サントのキロス岬に土地を持っていた。とても大きな丘陵で、いかなる車両もその原始林に登ることは出来なかった。だが、アメリカ人は何とかしてその頂上に小さな監視塔を作り、日本軍の艦船や潜水艦、飛行機を監視した。その監視所には巨大なかがり火(サーチライト)、大砲、レーダーと電話設備が備えられていた。
アメリカ人は丘の頂上の最も強い木に鉄のワイヤーを縛り付け、もう一方の端を丘の麓に垂らした。アメリカ軍のジープやトラックが食糧や医薬品、武器などを運んで来ると、トラックの前部にワイヤーを巻き付けて監視所に引っ張り上げた。彼は、一体どうやったのかうまく説明出来ないと言っていた。
サレ氏は3人のアメリカ兵と一緒に働いていた。ある日の昼中、アメリカ人が、飛行機が1機、煙を引きながら狂ったように海に突っ込むのを見た。その飛行機が敵か味方か分からず、ニュージーランド軍の駐屯地のスルンダの本部に電話をかけた。それはニュージーランド軍の飛行機だった。
数時間後、アメリカ人の一人とサレ氏が銃を持って海岸を歩いていると、驚いたことに、彼らが見たのは、水陸両用飛行機が海上に浮いている飛行機に向かって急降下し、水面に出ていた左翼につかまっていた三人の兵士を救助したことだった。救難機は男たちを手当てするために本部に輸送した。
モルバラウ氏(99歳)の話
第二次大戦の間、モベア島の住民は島から退去させられ、ツツバ島に移住させられた。モベア島が米軍の射撃訓練の標的として使われた為である。現在マテブルカレッジのある丘の麓に大砲やサーチライトを備え付け、モベアに向けて砲撃したのである。
島の緑は全く失われた。完全に廃墟にされたのだ。数ヵ月後、島民は島に帰るように命令された。土地はすっかり痩せて植物が育たなくなっていた。フランスと英国の政府が島民の面倒を見た。
軍用犬のこと
サント島ホグ・ハーバーのチャーリー・ロクロクは、1994年4月6日、筆者に再び話をしてくれた。彼の息子のジョニー・ロクロクが、ホグ・ハーバー語からビシュラマ語に通訳してくれた。
大きなアメリカの軍艦がスルンダに入港した。その船には1千頭の犬が積まれていた。その犬たちは、ソロモン諸島のジャングルで日本軍と戦闘する為に連れて行かれるものだった。
いろいろな毛色の犬たちが首輪をつけられて上陸し、1週間の訓練を受けた後、再び乗船して戦闘地域へと出て行った。チャーリーは犬の面倒を見る仕事をして、犬に餌をやったりした。(チャーリーは、「大きな犬」と言いながら、引き綱に引っ張られる真似をした。)
その直後に広島に原子爆弾が落とされ、戦争が終わったので、犬たちはアメリカに帰還した。