南米大陸の南端でアルゼンチンとチリの国境が入り組んでいる。我々のパタゴニアの旅は国境線に絡みながら南下し、国境を2度越えた。前篇(7月)で「アルゼンチンとチリは仲があまり良くない」と書いたが、我々が訪れた2007年2月当時は平穏で、国境通過もスムースだった。しかし国境を境に数Kmの無人緩衝地帯があり、両側に兵舎とおぼしき建物もあった。
隣国との緊張関係は世界のどこにでもある話で、民族、宗教、言語が異なれば、両国にいがみ合いが生じるのは理解できる。だが、チリとアルゼンチンは民族・言語・宗教が同じで、建国の時期や経緯も似ている。そんな隣国がいがみあうのを見ると、「国家」が成立すると「いがみ合い」も自動的に生じると思えてくる。
同じような事情は米国とカナダでも見られた。小生はカナダと米国の両国で駐在員を務めたが(40年近く前の話だが)、カナダでは米国に対する根強い反感と警戒心を実感した。我々はつい「米加」と一緒くたにするが、それがカナダ人が最も嫌うことなのだ。商談で米国の事例を引き合いに出して露骨にイヤな顔をされ、親しい顧客に「カナダは米国と違うよ」と注意されたこともある。米国独立時に米加間に軍事的緊張が生じたが、戦闘は起きなかった。それも2百年以上前のことである。大国側に「侵略」の意思が無くても、小国側の警戒心や反感は「本能」のようなものかもしれない。
日本と海峡を隔てた隣国とは、米加の数倍に及ぶ長い歴史の中で、いろいろな出来事があった。近代史では、1910年から35年続いた植民地統治が、支配国の「敗戦」というかたちで終わった。日本の統治は西欧の搾取的統治よりマシだったとか、西欧からの独立を助けたのだという論も聞くが、それは統治した側の思いであって、された側の感情のもつれは、カナダ人の対米コンプレックスより根が深いに違いない。更に言えば、米国人がカナダ人の感情に全く鈍感なように、日本人も相手方の複雑な心情に想像力が及ばず、それが相手側の反感を一層抜けがたくしているような気がする。
隣国とのいがみ合いは「領土争い」に表れる。チリとアルゼンチンは、アンデスの脊梁部と南端のフェーゴ諸島の領有をめぐって一発触発の緊張が続いた。この地域は人口希薄で経済価値も低い筈だが、国家の威信がからむと1寸の土地も譲れなくなる。両国の対立は1983年に「ローマ法王」の調停でやっと決着した。南米のカトリック国の対立は「神様の代理人」の介入で決着したが、アジアでニラミを効かせていた「親分」は「自国ファースト」で神通力を捨てた。神様も親分もあてに出来なければ、当事国同士が「オトナ」の知恵と対応で矛を収めるしかない。
それにつけても、民族意識を煽るリーダーたちが気になる。「民族」を求心力に使ったリーダーが破滅への道をたどったことは、歴史オンチでも知っている。立場が違えば歴史解釈も違うのは当然で、それはそれとして、過去の経緯はハラに収め、共存共栄の道を拓くのが政治の王道だろう。「けんか腰」が選挙で票を集めるパフォーマンスだとしたら、選挙民がもっと賢くなるしかないが。
それにつけても、と再度言うが、人類は危険な方向に向かっているようだ。同種の野生動物は餌場の確保で激しい「なわばり争い」をするが、同種間で「殺し合い」はしないという。争いはその時強かった方が勝つが、負けた方に致命傷を与えない。野生動物に「殺し合わずに折り合いをつける」知恵がはたらくのに、人間の群れは戦うと必ず「殺し合い」になり、強い群れ同士が戦えば「種の絶滅」が現実になる。人類が動物より賢いと考えるのは思いあがりだろう。
フィッツロイから南下して「パイネ」に向かう。パイネの正式な呼び名は「トルレス デル パイネ (パイネの岩塔群) 国立公園」で、その名のとおり、氷河が削り出した花崗岩の尖塔群が覇を競う奇景である。バイネはモレノ氷河のすぐ南隣だが、チリ側にあるので、少し遠回りして国境を越えねばならない。人家のない緩衝地帯の中央に設けられた両国の事務所で、外国人観光客も入念な審査を受ける。麻薬密輸防止のためと言うが、あまり気持ちの良いものではない。もちろんバスも現地ガイドも国境で交代する。
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パイネは想像していた景色と違っていた。小生がパイネを知ったのは写真仲間の作品で、U字型に切れ込んだ岩壁に真横から朝の光がさしていた。その巨大な岩塔がパイネの全てと思い込んでいたが、実際のパイネは大小の岩塔の集合体で、その一部を「どアップ」で撮ったものだった。写真は見せたい部分を切り取って見せる技だが、極端に走ると、美女の目玉の虹彩だけ撮ったりする。「これを見せたかった!」と言われれば「そうか!」と言うしかないが、全体を想像させない「どアップ写真」はあまり好きになれない。
パイネは1953年に国立公園に指定された。年間に訪れる観光客は10万人で、1日平均すると約300人。「行く人ぞ行く」地の果ての観光名所である。公園内の古いホテルは収容力が少なく、トレッカーは山中のキャンプ場に泊まる。公園の境界外にもホテルが出来たが、ハイシーズン中は車で2時間のプエルト・ナタレスを拠点にする客が多いという。その不便さがブレーキになって入園者数がコントロールされ、結果的に自然保護になっている。公園内の道路も未舗装の悪路だが、これも野生動物との共生にプラスだろう。賑わわない観光地があっても良い。
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夕方までパイネで遊び、宿泊地のプエルト・ナタレスに向かう。 フィヨルド最奥の古い港町だが、今はパイネの観光拠点。新築ホテルも出来たが、賑やかな観光地とは言えない。早発ち遅着きの旅程が続いたので、ゆっくり朝食、ゆっくり町歩き、昼食もゆっくりで過ごす。
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草原で地面に穴を掘って暮らすペンギンはピンと来ないが、ペンギンは南半球に生息する飛べない鳥の総称で、生き方は多種多様。マゼランペンギンは、その名のとおりマゼラン海峡の周辺に営巣するが、行動範囲はかなり広いという。
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プンタ・アレナス(砂の岬)は、マゼラン海峡(現地読み=マガリャネス海峡)の中間部に位置する港町。マゼランは1522年に史上初の世界一周を成し遂げたポルトガルの航海者で、1520年10月に大西洋から太平洋に抜ける海峡を発見し、後にその名が付けられた。延長550㎞に及ぶ海峡は、1914年にパナマ運河が開通するまで大西洋と太平洋を結ぶ重要な航路で、プンタ・アレナスは同海峡を航行する外洋船の寄港地として繁栄した。
南米大陸の南端で、チリの領土がアルゼンチン側に大きく食い込んでいるのは、チリが1843年に領土争いで先手を打ち、この地域に入植者を送り込んで永住地域を創設した成果とされる。しかし高緯度の寒冷と年間を通して吹き荒れる偏西風が厳しく、入植が容易に進まなかったため、反乱の怖れのある軍人の流刑地として使われた。19世紀末になってようやく交易地として発展したものの、港町としての繁栄はパナマ運河開通(1914年)までの短い期間だった。
現在はパタゴニア観光の拠点になり、南極への空輸の基地にもなっている。また背後の広大な牧羊地帯で産出される羊毛・羊肉の加工・輸出の拠点であり、対岸のフェゴ島で発見された油田(チリの「先手必勝」がここでも活きた)の開発基地の役割も加わって、人口20万の都市へと再生した。それだけに新築の立派なホテルもあって、我々も久しぶりに豪華なビュッフェデイナーとモダンな部屋での一泊を楽しんだ。
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