4回にわたって30余年前のカナダ駐在員時代の思い出話を書いてきた。自分が若い頃は、老人に捉まって昔の話をクドクドと聞かされるのを迷惑に思ったものだが、いつの間にか自分もそっち側に移ってしまったらしい。老人の体験談は概して参考にならないものだが、自ら反芻して今日的な意味を探る作業は、自分のボケ防止には役立つかもしれない。そんなわけで、締め括りにカナダという国を総括し、何か参考になるものがあるかを考えてみたい。
小生はJICAボランテイアとして南太平洋のバヌアツ共和国で2年間を過ごしたが、バヌアツ人は人なつこく、歩いていると見知らぬ人に声をかけられる。それが決まって「チャイニーズ?」で、言われる度にムキになって「ノー! ジャパニーズ!」と言い返した。小生は嫌中症でも民族主義者でもないつもりだが、隣国人と間違えられると反射的にムカッとなる。冷静に考えれば、バヌアツでは日本より中国の方がはるかにプレゼンスが高く、50余名の大使館員が全国津々浦々に出向いて、事ある毎に援助の大盤振る舞いをするが、日本国はバヌアツに大使館はおろか領事館すらない。バヌアツ人に中国人と思われても仕方ないのだが、凡人は理性より感情が先に走る。
カナダ篇の第1回冒頭で、カナダ人がアメリカ人といっしょくたにされると甚だ不愉快になると書いたが、カナダ人の気分は小生のバヌアツ体験よりも根が深い。カナダの憂鬱は隣に油断のならぬ兄貴が居ることで、この兄弟は顔つきはそっくりだが性格がまるで違う。兄は腕っぷしが強くてカネもうけも上手い。若い頃に親とケンカして独立し、親譲りの権謀術策の才に磨きをかけ、他人の争い事に潮時を見計らっては首をつっこみ、泣く子も黙る大親分にのし上がったのだから、かなりのクセモノに違いない。一方の弟は内気な性格で親離れができず、今も母親の肖像を後生大事に飾っている。広い敷地の農園経営でそれなりに食って行けるので、外でガンガン稼ごうという覇気はない。そんな弟にとって兄は警戒すべき人物で、いつ乗っ取られるか気が気でない。ズカズカ入って来られないように垣根を頑丈にしているが、枝や根を越境させる庭木や、垣根をくぐって糞をするネコには目をつむるしかない。
弟には他人に言えない家庭の事情もある。フランス系のカミサンが時々離婚話を蒸し返すのだ。好きでもない男とムリに結婚させられたのを今も恨んでいるらしい。本気で別れる気はなくダダをこねているだけと知りつつも、波風が立たぬようにカミサンのご機嫌をとり続けるのが、いかにも彼らしい。農園の仕事に世界中から住み込みで働きに来ているが、彼等は自分の意志で来た人たちで、住み心地も悪くないので、争い事が起きる心配はまずない。それにあまり大きな声では言えないが、広い敷地の下に化石燃料や鉄、ニッケル、ウラン、稀少金属など無尽蔵に埋まっている。世界市場で枯渇したら掘り出して高く売れば、子々孫々の代までカネの苦労は無い。
カナダは隣りの巨大国家との同質化を意識的に避け、一定の距離を置いて来た。そのスタンスは、目先の損得勘定ではマイナスだったかもしれないが、国力10倍の隣国に振り回される度合いは少なかったのではないか。パクス・アメリカーナの時代が終焉を迎え、カナダは憂鬱を脱して存在感を強めるに違いない。日本も太平洋を挟んで巨大国家と隣り合わせているが、カナダとは逆に、積極的に同質化することで国を保ってきた。だが、これからはイヤでもすぐ隣の新興巨大国家と向き合うことになる。顔つきは似ているが性格は全く違い、歴史的確執の根も深い。国力(GDP)の差はまだ2倍だが、人口比の10倍にどんどん近づく筈で、日本はカナダが味わった憂鬱とは比較にならぬほど、難しい対応を求められるだろう。この国に、それができるだけのオトナの知恵と身のこなしが備わるだろうか?(この項2014年4月記)
サスカチュワン州には、日本の本州と同じ広さの麦畑にの中に、リジャイナ、サスカツーンという奇妙な名前の町がポツンポツンとある。州都のリジャィナには14階建の高層建築が一本だけ立っている。サスカチュワン州立電話会社の本社ビルで、私は戯れ半分にリジャイナタワーと呼んでいた。だだっ広い土地に高層ビルを建てる必要は全くないが、カナダでは電話会社と銀行がステータスシンボルとして高層ビルを建てる。タワーの最上階は従業員用のカフェテリアで、我々訪問者も利用できる。リジャイナの市街はタワーの足もとにチョコチョコとあるだけで、その先は地平線の彼方まで麦畑で、地球が丸いことをしみじみと納得できる。
12月中旬のこと、リジャイナでの用事が伸び、サスカツーンに飛ぶ最終便にタッチアウトになった。急いでレンタカー屋に戻ったが、残っていたのはレモン(欠陥車)と評判のク社製のセダンだけ。いつ雪が降り出してもおかしくない冬の夜、ポンコツ車で250kmを単独ドライプするのは、正直言ってあまり気乗りがしなかったが、仕事とあれば仕方がない。
リジャイナの町を過ぎると真っ暗。ライトを上向きにすると、道路の両側の背の高い防雪林が遠くまでまっすぐ見える。30分走るとラジオは雑音だけになってしまった。対向車は全くない。遠くを動物の目玉がツツッと横切る。エンジンのうなり、タイヤの鳴る音、車体が風を切る単調な音、それらが一瞬スゥーッと遠のく。居眠り運転で死にたくない。
風切り音が不規則になった。風が出てきたらしい。窓に向かって白い小片が飛んでくる。雪が舞いはじめた。だんだん量が増し、真正面からワァーッと白い泡を吹き付けられるようだ。対向車が2台あった。カナダ人は親切だから、事故っても助けてもらえるだろう。スビードを落して遅くなるよりも、目一杯に走って早く着きたい。遠くの空に明りが薄く反射している。サスカツーンだ。対向車も出始めた。ここまで来れば安心。こんな運転は二度としたくない。
サスカツーンは人口10万の田舎町にしては辣腕の政治家がいたらしく、麦畑のど真ん中に国策通信機メーカーが光ケーブル工場を建てたり、サスカチュワン大学が通信機メーカーを起業したりした。多分この政治家の画策だろうが、当社がタイトルスポンサーの女子テニス国際大会を、サスカツーンで開催する話が進んでいるという情報が入った。駐在員としてはカナダ誘致に獅子奮迅の努力をするべきところだが、サスカツーンで開催されたら大変な不評を蒙り、会社の立場が無くなると私は確信した。第一にまともなホテルは1軒だけ。大会期間中は大学の寮を空けさせて宿舎にするというが、学生寮は洋の東西を問わず監獄に毛の生えたようなものだ。気の利いたレストランもない。アクセスは中型機のローカル便が1日に2便飛ぶだけ。何もサスカツーンでなくても、カナダにはもっとマシな都市があるではないか。
本社から担当の課長が事前調査に来て私の意見に同意した。あとは断る理由だけだ。滅多に閃かない私の頭が、この時ピピッときた。そうだ、あの一件がある!カナダの国策メーカーが当社を相手取って商標の使用差し止め訴訟を起こしていた。この会社と当社とは英語社名の頭文字が同じで、世界市場でぶつかるようになって混乱が起きたことは確かだが、カナダメーカーは数年前に社名変更して商標も変えていたから、訴訟継続はいやがらせでしかない。「商標を使えないのでカナダでは開催できない」と国際テニス連盟に通告したら、1週間後、カナダメーカーが訴訟が取り下げたという連絡が届いた。政治家氏がメーカーに因果を含めたのだろう。だが、その間に国際大会の開催地は米国に決まっていたので、政治家氏とメーカーは歯ぎしりして悔しがったに違いない。 (この項1994年記、写真は1枚もありません。)
私のビジネス経験は北米だけなので、他の地域を引き合いに出すのは適切でないが、カナダのビジネス環境は、隣国の米国よりも、むしろヨーロッパや日本に似ているのではないかと思う。私が経験した70年代のカナダには、産業政策があり、行政指導があり、各種の強い規制が存在していた。当時はトルドー首相率いる「自由党」の長期政権下で、政策は社会主義に近かった。主要産業の多くは連邦政府や州政府の所有で、国民の20%以上が何らかの形で公務員であった。非関税障壁やカナダ企業優遇も露骨だったが、そうでもしなければ、アッという間に米国に併呑されてしまう、という恐怖感がカナダ人につきまとっていた。
一見米国風に見えながら、保守的、封鎖的な面が多いカナダで、アルバータには米国流のオープンな雰囲気があった。州の最大の産業がエネルギー関連で、その大部分が米国系企業であることが、アルバータの気風に影響を与えたのだろう。電話会社や電力会社は州政府が所有する公営企業だったが、資財調達は他州に比べるとずっとオープンだった。そういうビジネス環境は駐在員には何よりのご馳走で、アルバータはトロントから飛行機で3時間かかるが、頻繁に出張した。
当時の私の事務所は、駐在員一名と秘書一人だけのこぢんまりとした陣容だったので、私は受注活動だけでなく、技術者の真似事や、工事があれば使い走りもするし、必要があればトラックの運転手もつとめた。アルバータでの受注案件の一つに、電力会社の小規模な光ファイバー通信システムがあった。主契約者がカナダの電線メーカーだったので、据付け工事もやってもらったのだが、他社のマイクロ波通信装置との接続がどうしてもうまく行かないという。仕方なく日本から技術者に出張してもらい、エドモントンでおち合って、200km南東に建設されたばかりの火力発電所に出かけた。
厳冬を過ぎたとはいえ、アルバータの4月はまだ春に間がある。一面の麦畑も、秋に刈り取った後の褐色の土がむき出しのままだ。ハイウェイを2時間走り、未舗装の田舎道にそれて20分程走ると、褐色だった路面が真っ黒になった。低い丘の向こうに煙突があらわれ、やがて火力発電所の巨大な建物が見えてきた。建物から原っぱに向かって長いベルトコンベアが延び、その先の大きな機械が爪の生えたベルトで地面を削っている。始めは何のことか分からなかったが、ハタと気が付いた。我々が立っている地面も、発電所が立っている地面も、石炭そのものなのだ。石炭の塊の上に発電所を建て、足もとの地面を削って燃やし、蒸気タービンを回して電気を起こす仕掛けなのだ。黒土を手にとってみると、田舎の高校の教室で焚いていたストーブの燃料と同じ手触りと匂いがした。
アルバータの北半分の地下には、タールサンドが無尽蔵に眠っているという。粘性の強い原油を大量に含んだ砂岩で、高温高圧の蒸気を地下に押し込み、石油分を溶かし出して採取するので、原油価格が1バレル45ドルを越えないとペイしないという。開発は凍結されたままだが、21世紀のいつの日か中東の石油が枯渇したら、アルバータはエネルギー大国として世界に君臨することになるだろう。 (この項1994年記)
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ブリテイッシュコロンビア(BC)を直訳すると「英国的な」(ブリティッシュ)「米国」(コロンビア)で、その名のとおり、英国の重々しい伝統と米国の若々しい活気が混在する独特の雰囲気がある。州都のヴィクトリアは英国風だが、バンクーバーには現代的な米国の匂いがあり、私が北米で一番好きな街である。市街地も清潔で美しいが、緑の山があり、穏やかな内海があり、海の幸が豊かで(特に鮭と雲丹)、住人はしっとりと落ち着いている。バンクーバーには東洋系の移民が多く、中華街はサンフランシスコについで北米第二の規模を誇る。戦前は日系も多かったが、大戦時に東部に強制移住させられ、今は少数派に属するが、20年前に大橋巨泉がカナダ観光ブームに火を付け、昨今(1994年当時)の円高カナダドル安のおかげで日本人旅行者が増える一方で、日本語の看板を掲げた土産物屋や料理屋が目障りなほど立ち並んでいる。
BC州の電話会社のBC Telは、カナダでは珍しく米国電話会社のGTEの資本系列だった。トップマネジメントは英国系の紳士が占めていたが、中堅の技術者には中国系とインド系が多かった。私の経験では、北米の電話会社とのビジネスは、殆どの場合中堅以下の担当技術者で話が決まってしまう。トッブは儀礼的に会ってくれるが、デシジョンに関わるケースは少ないようだ。従って、中堅技術者と良い関係を築くことが肝要だが、業務以外の彼等との付き合いは、オフィスに座り込んで冗談を交わしたリ、時折安い昼飯に連れ出す程度で、接待攻勢のようなものは迷惑がられる。
BC Telでの私の主たる相手は、中国系のマネジャーと、彼の配下の中国系2人、日系1人の技術者のグループだった。BC Tel自体が小さな会社だし、売り込める商品も限られていたから、ビジネスの量は知れたものだったが、私はこのグループにかわいがられ、いろいろと業界情報をもらってありがたい思いをした。
電話会社では装置によって担当する技術者が違う。私が売り込みたいと思っていた某装置は、上記の東洋系グループとは別のインド系の技術者が担当していた。この装置は他の電話会社も採用済で、私としては自信を持っていたのだが、数回プロポーザルを出してボツにされ続けた。彼の上司は公平な評価を約束してくれるのだが、インド系技術者はいろいろと理由をつけて却下する。昼食もつきあわない。何度か接触する内に個人的な敵意を察知した。表面は冷静なのだが、意固地な態度が見えるし、時折目に怒リの色が浮かぶのだ。私は特に失礼なことをした覚えはなかったが、更に押しても関係が悪くなるだけなので、ひとまず引き下がることにした。
ある日、日系二世の技術者が昼食を食べながら、例のインド系技術者の父親が大戦中に日本軍に殺されたらしい、と教えてくれた。実は自分も彼とはうまくゆかないという。それなら、中国系の技術者がどうして日本人の私をかわいがってくれるのか、という疑問が湧いたが、それを中国系の上司と同僚を持つ日系二世氏に質間する勇気はなかった。
まだ歴史のフィルターが薄い多民族国家では、水面下で遺恨のこもった民族感情が渦巻いている。同じ頃、オタワのトルコ大使館が爆破される事件があり、犯人のブルガリア人(だったと思うが)は「一世紀前の紛争で曾祖父がトルコ人に殺された報復だ」という声明を出した。一世紀の歳月では民族の恨みは消えないのだ。日本とアジアの関係についても、日本人が忘れてしまっても、相手はそう簡単に忘れてくれないと考えておくべきであろう。 (この項1994年記)
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