本稿は2019年3月に掲載したアルゼンチン-1の続編だが、タイトルを「パタゴニア」に改める(理由は後述)。パタゴニアは南米大陸最南端の地域で、16世紀にこの地に入った探検家マゼランが雪原に残された巨大な足跡を見て、身長4mの巨人「パタゴン」が住む場所(パタゴニア)と呼んだとされる。この地域の先住民は、氷河時代にシベリアからベーリング海峡を渡った蒙古系の人たちで、北米・中米を南下し、約1万年前に南米の先端に達した。彼等が巨人だった筈がなく、雪上歩行で履いたスノーシューの巨大な足跡から、 巨人? と勘ちがいされたのだろう。
南緯49度より南のパタゴニアは、北半球のカナダに相当する寒冷な地域である。中・南米の先住民は、16世紀に進出したヨーロッパ人によって奪取・殺戮され、彼等が持ち込んだ伝染病でほぼ全滅したが、気候の厳しいパタゴニアにヨーロッパ人が本格的に入ったのは、19世紀も後半になってからだった。この地域の先住民テウェルチェ族は、原始狩猟生活のままで定住せず、文字を持たなかったのでその痕跡は希薄だが、入植者側の記録では、1879年にフリオ・ロカ将軍のインデイオ討伐で追い詰められ、1885年に降伏して民族自立を失った。現在生き残っているテウェルチェ族は200人にすぎないが、白人との混血(言うまでもないが、白人男性と先住民女性の混血)は約6千人いるとされている。
パタゴニアは地図では小さく見えるが、日本全土がすっぽり入る。西を縦断するアンデス山脈は、この辺りでは標高2千mに満たないが、湿気たっぷりの偏西風が脊梁にぶつかって大量の雪をもたらし、形成された分厚い雪冠から多くの氷河が流れ出ている。アンデスを越えた偏西風は空っ風となり、東側の平野を年中吹き荒れている。人間が暮らすのに適した土地とは言えないが、パナマ運河の開通以前、マゼラン海峡が太平洋と大西洋を結ぶ重要な航路で、その寄港地として栄えた時代があった。今も高額な運河通行料を嫌う貨物船の往来はあるが、頻繁に行き交うわけではなく、現在のこの地方の主要産業は「観光」と言って間違いないだろう。地球の真裏の日本からは、行くだけで米国経由でまる2日の旅を要するが、それだけの価値があると思う。
本稿のタイトルを「アルゼンチン」から「パタゴニア」に変えたのは、この地域がアルゼンチンとチリの両国にまたがっているからで、国境は複雑に入り組んでいる。アルゼンチンとチリは民族、言語、宗教いずれもほぼ同じだが、仲があまり良くないのは、一種の近親憎悪のようにも見える。国境越えのことは続編で書くつもりだが、軍事衝突に備えて国境の両側に緩衝地帯が設けられているなど、それなりの緊張感がある。緊張が今以上に高まれば、パタゴニアの観光は出来なくなるのではないか。
ブエノスアイレスから国内線で南へ4時間、氷河(ロス・グラシアレス)国立公園の観光拠点エル・カラファテに着く。アルヘンテイーノ湖に面した人口4千人の町で、メインストリートに数軒のホテルとレストラン、土産屋が並ぶ小さな町である。地名はこの地方固有の植物「カラファテ」からとったもので、カラファテ・ジャムが名物になっている。
観光のメインは「ペリト・モレノ氷河」。この辺りのアンデスは、脊梁の雪冠から47の支流が東西に流れ出ている。その中で最もアクセスが容易な氷河がペリト・モレノである。この氷河の上部は特に降雪量が多く、急斜面で且つ気温が比較的高いため、氷河の流速は中央部で1日に2mに達する。一般の氷河の流速は年間数メートル程度だから、この氷河は特別で、このため氷河の舌端で頻繁に崩落が発生し、豪快な光景が観光の目玉になっている。
スケールの大きな風景の中で氷河を遠望すると小さく見えるが、末端部の幅が5km、高さは60mを超える。氷河湖の遊覧船で舌端に近づいたり、氷河上を歩くツアーもあるが、大自然の迫力を体感するには、舌端部と向かい合うマガジャネス半島先端の展望台から眺めるのがベスト。目の前の氷壁がきしんで砕ける衝撃音が響き、10分も待てば小さな崩落を目撃できる。数年に1度、地を揺るがす大崩落が起き、高波で展望台も危険にさらされるという。
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8本歯のアイゼンを着けて氷河の上を歩くツアーでは、ちょっとっした登山家気分が味わえる。氷河の流速が早く表面が土砂で汚れないので、純白の氷の上を歩くことが出来る。クレバス(氷河の裂け目)を渡る時は現地のガイドが手を貸してくれる。ツアーの終わりに、氷河の氷でウィスキー・オンザロックのサービスがある。手近の氷をガリガリ削って入れるだけだが、奥深い味わいが滲み出て、昼間からつい飲みすぎてしまう。
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観光地カラファテは、世界中から集まる観光客相手のアトラクションも多い。本場のタンゴが聴けるレストランでの夕食を楽しみにしていたが、夕方の便で着く筈のアーチストの飛行機が遅れ、代役の歌い手が駆り出された。地元のオジサン歌手もなかなかのタレントで、それなりに堪能。この国では飛行機が数時間遅れるのはあたりまえで、その程度のことで慌てたり怒ったりする人たちではない。別の楽しみはいくらでも作れるのだ。日本人は何事も予定どおりに進まないと気がすまないが、アルゼンチンの人たちの余裕ぶりを、少しは見習うべきかもしれない。
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山の写真の会に入った頃の話だが、先輩が撮ったフィッツロイの威容にうたれた。撮影場所への行き方を尋ねたら「アンデスの山深く、ロバに乗って3日かかる。行っても滅多に見えないよ」と教えられた。ツアーでフィッツロイに行く前に、ガイドに「どこでロバに乗るのか」と訊ねたらキョトンとされた。麓のエル・チャルテンの村まで、立派な道路を大型バスで行けたのだ。さては先輩にからかわれたかと思ったが、道路もチャルテンの町並みも新しく、数年前まで本当にロバで行ったのかもしれない。他界した先輩に確かめようがないが。
「滅多に見えない」は本当で、フィッツロイの現地名 「チャルテン」は 「煙を吐く山」を意味し、雲に包まれていることが多いらしい。我々一行の日頃の行いが良いことは、アコンカグアで証明済みだが、エル・チャルテンに滞在した2日間もフィッツロイは姿を見せてくれた。岩峰の先端は標高3405m、足元の村の標高が500mだから、目の前に3000mの岩塔が突き出ている計算だが、それ程高く見えないのは景観のスケールが大きいからだろう。
岩峰の本名を冠する「エル・ チャルテン」の村は、バラック風の荒っぽい建物が並ぶ新開地だが、それには理由がある。隣国チリとの国境争いに先手を打つために、1984年にアルゼンチン政府が住民を送り込んで急造した村なのだ。領有権主張は「実効支配」が基本で、それには民間人の定住がモノを言う。(その点、1940年に住民が退去して以来放置してあった南の島の領有権は、万全とは言い難いかも)。土埃りが舞い上がる造成地に急造の建物が並ぶ町並みは、西部劇さながらだが、近年観光地として知名度が上がり、道路整備や大型ホテルの建設が進んでいる(2007年当時)。現地の山岳ガイドが日本語で愛嬌をふりまくのも、観光客を増やす努力の一環だろう。だが、神々しいフィッツロイにケバケバしい観光地は似合わない。「ロバで3日」と言った先輩には、そんな思いがあったのかもしれない。
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山の写真撮影は朝夕の斜光が射す短い時間帯にトドメを刺す。一般のツアーは集合時間に縛られ、団体行動から抜け出して撮影ポイントで三脚を立てるチャンスはなかなかない。町中からフィッツロイの眺めはイマイチで、添乗員に相談したら、ホテルから徒歩10分の町外れまで行くように薦められた。この撮影ポイントはかなかの優れもので、朝夕の食事前後に何回も通った。日の出の直前まで岩峰が厚い雲に包まれ、天気運も尽きたかと思ったが、ギリギリのタイミングで雲が上がり、岩峰が朝の光をあびる瞬間を捉えることが出来た。これで旅の目的が半分達成した気分になる。
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