米国で「まさか?!」が起きた。おおかたの予想に反し、トランプ氏が第45代大統領に選ばれたのだ。そのショックは株価の乱高下に如実に表れた。トランプ優勢の報にあわてふためいて大暴落、直後の勝利宣言で「まともな大統領」ぶりを発揮したことで「アレっ?」となって一挙に回復。何かにつけて世の中を揺さぶる株価は「重要な経済指標」の筈だが、本来の企業業績と無関係にドタバタ動くのを見ると、違法賭博と同列ではないかと思ってしまう。トランプ氏はその後も選挙中の罵詈雑言を忘れて殊勝な言動に終始し、ご祝儀相場は一向に下がる気配がない(11月28日現在)。

当雑記帳4月1日号「マサチュセッツ・バーモント篇」でトランプ氏の「君子豹変」を予言した小生だが、ホッとしたり喜んだりしているわけではない。むしろ二重三重に気懸りが強くなっている。その第一は、民主主義の基盤である選挙のあり方で、刺激的な言動と演出で大衆票を集め、当選したらケロリと態度を変えるのが政治家の常とは言え、世界を動かす米国大統領の選挙で、ここまで露骨で下品な選挙戦が堂々とまかり通り、しかもより下品だった方が勝利したことで、米国型民主主義の行く末が見えたような気がしてくる。

選挙予想が外れて面目丸つぶれのメディアは、言いわけやら反省やらで取り繕っているが、要するに「米国社会の底流の変化を読みきれなかった」と言いたいらしい。社会の底流を読んで警鐘を鳴らし、世の中に「理性」を呼び戻すのがメディアの役目だと思うのだが、視聴率・売上(利益)優先では、「大衆の興味」を煽って「下品」を増幅することになる。言論・表現の自由が保障されている以上、「下品」で稼ぐメディアがあっても仕方ないが、ジャーナリズム本来の役割を担う気骨あるメディアが、これ以上衰退しないことを祈るしかない。

「アメリカ社会の分断」と言うが、米国はそもそも国の成り立ちからして、「人種による格差」や「競争で生じた格差」など、様々な「分断」を複雑、深刻に内包している国なのだ。その分断を「自由・平等」の「たてまえ」で強く縛り、「理性」によって分断を封じてきた国と言ってよい。そのことは米国で暮せばすぐ実感する。差別的言動は犯罪行為で、訴訟されないように「たてまえ」の墨守に神経をすり減らすが、同族の仲間内では「あいつは×××系だから…」などと差別的会話がヒソヒソ交わされる。聞き耳の気配に目くばせで制し合うのは、どこかの独裁国家と違わない。

人間は誰しも「個人的感情」(不平不満)を抱く。米国ではそのまま発露する者は「ダメ人間」で、感情を「たてまえ」のレベルまで理論化して表明できなければ、世を渡れない。今回の選挙で「分断」が露呈したとすれば、「自由・平等」の「たてまえ」を守ってきた「理性」のエネルギーが、急速に薄れている証拠かもしれない。「たてまえ」のタガが外れれば、フツウの人間は「情動」で動く。そんな社会になれば、人種や格差による「分断」が解消する筈がない。

トランプ氏が掲げる「強いアメリカ」は、これまで100年間求め続けてきた(良し悪しは別として)「世界の規範となる強いアメリカ」はなく、「中流白人が自己満足できるアメリカ」に聞こえる。そんな世論に迎合すれば、対外的に身勝手を抑制できず、国内の分断も更に深刻さを増すだろう。国際社会で孤立し、国内の軋轢を収拾しきれなくなった国家が、「戦争」の引き金を引いた例は歴史上幾つもある。米国がその轍を踏まないという保証はない。

とは言え、米国人の多くは冷静に理性を持ち続けるに違いなく、ナチスドイツのような国民的大暴走は、心配のし過ぎと思いたい。「チェンジ」で新たな理想を掲げたオバマ現大統領は、議会とのネジレでやりたかった事の半分も出来なかったが、核兵器廃絶に向けてのメッセージには心を打つものがあった。ネブラスカ州で毎年8月6日に行われる「原爆犠牲者追悼灯篭流し」について、雑記帳11 南北ダコタ・ネブラスカ篇(2015/12/1号)の追記欄でご紹介したが、「ヒロシマ・ナガサキ」を「我がこと」と考えて行動するアメリカ人が、少なからず居ることにも心が休まる。

その団体のリーダーが「私たちはこの核の時代に、核攻撃のターゲットになることを拒否する」という声明を発し、活動にかかわってきた友人から和訳のご提供があったので、この機会に掲載(PDFファイルにリンク)させていただき、よその国の心配はひとまず忘れることにしたい。(実は、こっちの国の方が、もっとヤバイ方向に走っていると思う。)


 ワシントンDCと周辺   地図原稿:by Google

ワシントンDC アメリカ番外地

星条旗には50州を象徴する50の星が描かれている。ワシントンDC(以下DC)はどの州にも属さない特別区なので、アメリカの首都でありながら、国旗から外れていることになる。DCにはかつて自治権がなく、71年まで国会議員も選出できなかった。現在は市長もいるし議員も出せるようになったが、数年前(本稿執筆の1994年当時の)にDCの黒人市長が麻薬取締りのオトリ捜査の網にかかって入獄した事件は、DCのかかえている問題の一面を象徴しているような気がする。

DCは言うまでもなく連邦議事堂や大統領官邸、諸官庁、各国大使館が集まるアメリカ合衆国の首都である。山手線内の半分程の狭い区画だが、その中でも政治家、外交官や観光客が立ち入るのは南西(SW)のモール周辺だけで、残りは白昼に街頭で麻薬が取引されるようなスラムである。命が惜しければ絶対に踏み込むな、と言われているが、私は一度だけ道に迷って乗り入れてしまったことがある。路地で信号待ちしていると、車の周りに寄ってきた不気味な人たちに窓ガラスをドンドン叩かれた。背広姿のよそ者をからかっただけだろうが、命の縮む思いをした記憶がある。こういう場所にも平気で出入りすれば、アメリカ社会を分かったことになるかもしれないが、避けた方が無難というものだろう。(今から30年前の話だが、今もあまり違わないと聞く。2016年12月追記)

DCに限らず今のアメリカでは、どの大都市にもこのような無法地帯が存在するのが現実である。人種問題の実情をあからさまに云々するのはタブーだが、ヒスパニックや東洋系の届住地域よりも、黒人地域が最も荒廃して粗暴な状況にあることは間違いない。奴隷解放からまだ百年少々、公民権法から30年で、黒人が少数とはいえ社会の上層に浮上し始めた事は、アメリカ社会の努力をほめるべきだが、マイナスからスタートさせられた階層の大多数は、マイノリティ保護のハンデをもらった位では、最下層にコビリついた状況から離脱できないのではないだろうか。

日本の場合、明治以来の急速な成長過程で、伝統的な家族主義の枠組みの中で、あらゆる階層の労働力を安定的に吸収してきたが、アメリカの成長過程では、能力主義一辺倒の競争社会で、最下層は常に切り捨てられて浮浪者化し、慈善の対象とされてきた。恒産なくして恒心なしの喩えで、彼等が犯罪予備軍になってしまうのは自然の流れだが、これがアメリカ社会の本質的な構造に根ざしているところに深刻さがある。

50年代から人種間の平等、マイノリティ優遇を決めた連邦政府のお膝元のDCでは、この「たてまえ」が字義どおりに実行されてきた。その結果、資格を要しない低レバルの職業は黒人が独占するところとなり、彼等の親戚縁者までDCに流入し、白人は郊外に脱出した結果、DCの居住者の8割以上が黒人という状況が出来上がった。DC内に住んでいる白人は大統領一家とジョージタウン大学の学生だけ、という冗談さえある。アメリカには現在も非合法移民や難民がどんどん流入している。だが、移民のエネルギーを国力に転化してきた昔日のアメリカの勢いは、もう再現しないだろう。アメリカ全部が浮浪者で溢れるという想像は突飛ではあるが、首都ワシントンDCに不気味な前兆が見えないわけではない。
(この項 1994年9月記)

モール中央に立つワシントン記念塔。169mの展望台までエレベーターで昇る。
展望台から東の国会議事堂を望む。モール左右にスミソニアンの博物館や美術館が並ぶ。
北の足元にホワイトハウスが見える。
ホワイトハウス正面玄関はワシントン記念塔の反対側。
テレビによく出るのは裏庭の側。
裏庭に接続する広場でクリスマスツリー点灯。各州のシンボル50本と中央に大ツリーが立つ。
国会議事堂はキャピトル・ヒルと呼ばれる地域に立つ。1793年に着工、1811年に完成後も改築を重ね、現在の形で完成したのは1904年。高さ88mの中央ドームは日本の国会議事堂の1.4倍。
議事堂正面の石段のテラスからモールを見下ろす。
議事堂の反対側に立つリンカーン記念堂。
独立記念日(7月7日)の花火大会見物はリンカーン記念堂の石段テラスがベスト。朝から座り込んで席を確保する人が多い。

「ポトマックの桜」は、1912年に当時の東京市長だった尾崎行雄が、日露戦争の講和でお世話になった米国に、日米の友好関係強化を望んで贈ったとされている。しかしこの件は日本側から発議したわけではない。1885年にナショナル・ジオグラフィック協会の初の女性理事エライザ・シドモアが日本旅行から帰国し、桜の植樹を提案したが実現できなかった。1906年になって植物学者のデヴィド・フェアチャイルドが日本から1000本を輸入、メリーランドに植樹したことが契機となり、シドモアがタフト大統領夫人に支援を求めた。それを知った日本総領事の水野幸吉が尾崎に話をもちかけ、尾崎の奔走で寄贈が実現したと伝えられる。

1909年に2000本が届けられたが、病虫害に汚染されていたため止む無く焼却処分された。1912年に再度ソメイヨシノ1800本他計3020本が寄贈され、大統領夫人も列席して植樹祭が行われた。1935年に市民団体による春の桜祭りが始まったが、1941年12月の太平洋戦争勃発で戦後の1948年まで中止された。この間、交戦国「日本の桜」は「東洋の桜」と呼び代えられ、首都の名所として守られ続けられた。この点では、先頭に立って「鬼畜英米」を叫んだ敵方の政府よりも、米国政府の方が少し度量が広かったと言えるかもしれない。  (この項 2016年12月記)

日本から寄贈された桜並木で有名なポトマック河畔で飲食は厳禁。対岸はジェファソン記念館
第3代大統領のジェファソンは独立宣言の起草者。
ワシントン桜まつりパレードでは大使館職員のお嬢さん方の出番。
秋の収穫祭のパレードにも日本組の出番がある。
ポトマック河畔に先立ってメリーランドの住宅街に植えられた桜並木。よく手入れされ、年数を経ている分、貫禄がある。

バージニア  事情が違う首都圏開発

バージニアは英国のエリザベス1世(在位1558~1603)に因んだ州名で、コロンブスの大陸発見から125年後の1617年に、バージニア州南部のジェームスタウンに北米大陸最初の英国植民地ができた。日本では江戸幕府が出来た頃である。清教徒がメイルラワー号でプリマスに上陸した1620年には、ジェームスタウンではもう黒人奴隷が移入され、煙草農園の経営が始まっていた。ジェームスタウンに近いウイリアムズバーグには、植民地時代の建物を保存した施設があり、スタッフが当時の服装で様々な職業や生活を再現している。楽器職人や鍛冶屋、鉄砲職人達の実演はなかなか面白い。

19世紀の初めに、連邦政府の首都がワシントンDCに建設された。DCは一辺10マイル(16㎞)の正方形で、四分の三をメリーランド州側、四分の一をポトマック川対岸のバージニアに押し込んだ形だが、バージニア側は後に州に返還され、現在のアーリントン郡になっている。ここに国防総省(ペンタゴン)、中央情報局(CIA)、アーリントン国立墓地、ナショナル空港などの連邦政府の施設がある。これらの周辺に民間団体や企業の事務所が集まり、ノーザン・バージニアと呼ばれるビジネス地域が出来たが、この発展が本格化したのは、50年代の冷戦体制で連邦政府の機能が強化された以降のことである。私が勤めていた会社も、半官半民の国際衛星通信会社とのビジネスで、69年12月にナショナル空港に隣接したクリスタルシティに小さな支店を設け、ここを拠点に通信幹線用機器の事業を展開した。

私が70年9月に初めて出張した当時、国道1号線の北側のクリスタルシティには、会社の事務所も入っていたオフィスビル、高級アパート、マリオットホテル等のモダンなデザインのビルが建ち、未来都市的な雰囲気があった。これとは対照的に、道路の南側は、平屋の安モーテルが3軒、フォルクスワーゲンを一日1ドルで貸すレンタカー屋の掘っ建て小屋と、雑草の空き地があるだけだった。我々出張者は、北側の小さな事務所と南側の安モーテルを根城に、アメリカ中を行商したのである。80年代後半になってこの界隈は再開発され、高級ホテルや高層ビルが林立して見違えるばかりになった。現在(1994年)は、ここから車で30分以上離れた、昔は牧場や農場だったあたりまで、ビルや住宅が立ち並んでいる。

私は82年~86年の駐在を含め、ほぼ25年間にわたってこの地域が発展する様子を見てきたのだが、大雑把に見れば、日本の高度成長時代の状況とあまリ違わなかったと言えるだろう。農地が事業用地や宅地用に開発され、地価が跳ね上がった点も同様だが、相違点もある。土地の大部分が大牧場で、土地にしがみつく小農民が居なかったこともあるが、開発のコアを分散させたため、特定地域への極端な集中がなく、結果として、地価の高騰がある程度避けられたことである。

住宅は夫々のコア周辺に大規模に開発されたので、安価でゆとりのある土地が提供できた。駐在員時代に私達が借りた家は、都心から南西25KMのヴィエナという町に72年に開発された、100戸程の規格建売り住宅団地の一戸だった。建屋は2百平米の典型的な中流家屋だが、土地は2千平米の芝生で、毎週末にエンジン付き芝刈り機で3時間の奮闘を要した。その奥は地主不明の雑木林で、リスやアライグマが住んでいた。同規格の隣家が売りに出され、値段が15万ドルだったから、土地の値段はほぼタダということになる。

85年にDCからこの近くまで地下鉄が延びてきたが、住民も企業も歓迎しなかった。公共交通機関が出来ると低所得層(黒人)が流入し、資産価値が下るし、労働力の質も低下すると考えられたからである。この理由を表立って口にすることはタブーだが、ビジネスも住民も無言のまま脱出するのが現実である。会社の事業所は、69年から10年少々の間に、アーリントン郡、フォールスチャーチ郡、フェアファックス郡と3回引越し、その都度DCから遠ざかった。そのフェアファックスにも徒歩圏内に地下鉄駅ができ、小生が帰国後の87年にダレス空港近くのハーンドン郡に再移転した。空き家になったフェアファックス事業所は、今も(1994年)借り手がつかないというから、誰も同じ心配をしているということになる。

日本では殆どの大企業が東京に本社を構えるが、米国では首都圏に本社を置く著名な企業は皆無ではないかと思う。DCは19世紀の初めに首都になっていたのだから、それ以降に出現した大企業は、意図的に首都に背を向け続けてきたと言ってよいだろう。彼等はロビイストを雇って政府に圧力をかけることはあっても、いわゆる許認可申請や役人への「お伺い」で、政府と日常的に接触する必要はないし、その気もない。だから首都圏には情報活動で最小限のスタッフおくだけ、ということになる。私の家の周囲にも、何の仕事かわからない得体の知れない人達が沢山いた。

私の勤めた会社は、北バージニアで技術や製造を含む「実業」をやっていたのだが、情報工作がらみの拠点と誤解されることがしばしばあった。北バージニア経済開発局が企業誘致のPRビデオを作った際、私も30分以上カメラ取材されたが、出来上がった試写を見せてもらうと、私の顔のアッブで「北バージニアは世界の情報が集まるワシントンDCに隣接し…」という僅か15秒のコメントだけ使われていた。前後の脈絡を省かれると「私のところはスパイ事務所です」と聞こえかねない。抗議したが何とかかんとか言い抜けられ、そのまま使われていたようである。 (この項 1994年9月記)


アーリントン国立墓地

墓地を観光名所にするのはいかがなものかと思うが、アーリントン国立墓地は、間違いなくこの地域で最大の観光スポットである。小生は駐在を終えた1986年春以降も数回訪れる機会があったが(2001年が最後)、その都度、駐車場、場内バス、公衆トイレ、土産物店など、観光地としての諸設備がグレードアップされていた。

国立墓地は1864年に南北戦争戦没者の墓地として開かれた。用地は敗軍となった南軍のリー将軍の住居跡で、首都中心部のモールと背中合わせの一等地にある。戦死者だけでなく、米軍の軍歴があれば本人や遺族誰の申請で埋葬が許可され、宗教は問われない。3平方km(青山墓地の約15倍)の敷地に30万基の墓石が立ち並ぶのは壮観だが、軍人がこれ以上増えないで欲しいとも思う。  (この項 2016年12月記)

広々とした公園墓地。初期の墓標は様々な大きさで個性的なものもあるが、大半は小ぶりの標準の墓石が使われ、軍歴(地位)による違いもないようにだ。土葬が原則なので、墓標間はゆったりと間隔が保たれている。
墓地の中央に野外劇場がある。
丘の上に立つ南軍リー将軍のマンション(邸宅)。その直下の一等地にケネデイ大統領一家の墓地が設けられた。

アーリントン墓地でも特に人気の名所は「無名戦士の墓」で、1時間毎に行われる衛兵交代に大勢の見物人が集まる。墓には各戦役で戦死した兵士の遺体各一体が代表として祀られている。衛兵はこの地域の防衛を担当する陸軍第3歩兵連隊から「容姿端麗」な兵士が選抜されるが、人種平等のルールに従って、アフリカ系やアジア系の兵士も任務に就く。

無名戦士の墓。
衛兵交代に集まる見物人。静粛と脱帽(男子のみ)が求められる。

衛兵交代は1時間毎で、10分ほどかかる。カッコ良く、軍隊嫌いでも魅せられる。

通称「硫黄島の星条旗」(海兵隊記念碑)は墓地の北側に隣接。

バージニアには他にも観光地や史跡が多いが、小生が駐在した頃は、週末は子供の日本人学校の送り迎え、食料品の買い出し、借家の芝刈り(ゴルフではない)に追われ、休暇シーズンは遠出を優先したので、近場の観光スポットにはあまり足が向かなかった。

マウントバーノンは、初代大統領ワシントンが晩年を過ごした農園。夫妻の墓もある。
ポトマックを車で45分ほど遡った場所にある公園。
車で2時間のウィリアムズバークでは、植民地時代の街並みと暮らしを再現している。
ダレス国際空港にスペースシャトルを背負ったB747 が飛来(カリフォルニアの基地からフロリダへ移動の途中)。背後の滑走路でロンドン行きコンコルドが離陸中。

1982年秋にカナダのトロントからバージニアに転勤になり、家族共々自家用車で引っ越しをした(荷物はトラックで)。借家探しで、事務所に近いこの一戸建に行き当たった。家賃は予算ギリギリだったが、日当たりが良く、自然豊かな環境が気に入った(日本人は南向きの日当たりの良い家を求めるが、米国では「暑いし、家具が傷む」と言って好まず、家は方角を気にせずに建てられる)。家と庭の広さは「ウサギ小屋」に慣れた我々には感動的で、集中冷暖房や薪の暖炉のある居間など、米国の中流の暮らしの豊かさを実感した。

Googleの地図を検索したら、この家と周辺の様子は30年前のままだった(上、Googleがいつ撮影したか不明)。黄色の線で囲んだのが我々の借家の敷地で、2千平米と書いたのは少しオーバーだったが、そのくらい広く感じたことは確かである。家賃を滞納したこともなく家もきれいに使ったので、大家さんは東洋人は誰でもそうするものと思い込んだらしく、我々の後に中国系レストランオーナーに貸したら、従業員寮に使われて酷い目に遭ったと、後日伝え聞いた。

ヴィエナの借家。
広い裏庭は芝刈りと落葉拾いが大変。
表庭もそれなりの手間がかかる。
ヴィエナ商店街にも秋が来た。ハロウィーン用かぼちゃが山積み。
ひと冬に何度か豪雪に見舞われる。家の前の歩道はすぐ雪かきしないと、近所からクレームが来るが、裏庭ではクロカンのスキーが出来た。