米国には、歴代大統領の名を冠した公共施設や建造物が数えきれない程ある。下記のノースダコタ訪問記に出てくるセオドア・ルーズベルト(第26代)国立公園もその一つで、彼の従弟にあたるフランクリン・D・ルーズベルト大統領(32代)の名は、ニューヨーク・マンハッタンの高速道路名に残る。ニューヨークにはジョン・F・ケネデイ(35代)国際空港があるし、リンカーン(16代)センター芸術地区、リンカーン・トンネル、ジョージ・ワシントン(初代)橋もある。初代大統領の名は首都ワシントンDCにも残り、その玄関口はロナルド・レーガン(40代)空港。西に目を転ずればネバダ・アリゾナ州境にフーバー(31代)ダムがあり、アラスカの米国最高峰マッキンリー(25代)も大統領名である(最近先住民の呼称のデナリに改名)。

米国大統領は国民投票によって選ばれる(国民が投票で選ぶのは「大統領選挙人」だが、実質的に直接選挙。他の共和国に多い国会や有識者会議の推挙ではない)。4年毎の大統領選挙は国を挙げての大騒ぎで、2年にわたる選挙戦を通して候補者の識見、人物像から病歴まで徹底的に洗い出され、波乱万丈の選挙戦でボロを出さない即興弁舌とリスク管理能力が試される。そうして選び抜かれた人物が政治権力の頂点に立ち、辣腕をふるって国威を高揚させたとなれば、国民が日常使う建造物にその名を冠し、永く語り継ぐのも当然かもしれない。

米国には歴代大統領のランキングがいくつもある。上位が定位置の大統領はワシントン(初代)、リンカーン(16代)、F.ルーズベルト(32代)、 ジェファーソン(3代)、T.ルーズベルト(26代)の5名で、これにアイゼンハワー(34代)、トルーマン(33代)が続くところから、戦争で名を馳せた大統領の人気が高いと見ることができ、大統領が戦争に首をつっこみたがるのはそのせいだとも言われる。逆に人気度の低い大統領はタイラー(10代)、フィルモア(13代)、ブキャナン(15代)など、南北戦争前のパッとしなかった時代に多く、中には身を持ち崩してスキャンダルにまみれ、ボロクソに言われる大統領もいる。マスコミが無かった時代、いかがわしい人物でも選挙戦を乗り越えられたのだろう。

銃社会の米国では凶弾に倒れた大統領も少なくない。リンカーン(16代)、ガーフィールド(20代)、マッキンリー(25代)、ケネデイ(36代)の他、レーガン(40代)も瀕死の重症を負った。改革派で人気の高かったリンカーン、ケネディの前例に「4代目毎に遭難」のジンクスが重なり、「Change!」を旗印にした初のアフリカ系大統領(44代)の身に不幸が及ぶ心配が消えない。これまでの7年は無事に過ぎたが、残る1年も無事が続くことを祈りたい。

歴史オンチが言うことだから不確かだが、日本には政治家の名を冠した公共建造物が思い浮かばない。我田引水型の大物政治家の地元では「□栄新幹線」「金○道路」「☓沢ダム」等、隠語的に呼ばれる建造物はあるらしいが、「大久保大橋」や「伊藤トンネル」の類の公式施設名は聞いたことがない。「菅原神社」「松陰神社」「明治神宮」は氏名を冠する宗教施設だが、祀られた人が政治権力者だったとは言いがたい。ついでながら「明治」「大正」「昭和」「平成」を冠するものは多いが、天皇を慕ってその名を戴いたというより、「時代」の名を拝借したと考えた方がよさそうだ。

日本にその風習がないのは、国民に敬愛される政治権力者がいなかったのか、橋やトンネルに権力者の名を冠するのが畏れ多いのか、あるいはそもそも日本人が「英雄崇拝」を好まない国民性なのか、けっこう奥深いテーマかもしれない。 (この項 2015/11記)



ノースダコタ州、サウスダコタ州、ネブラスカ州と日本北部を同サイズで表示。緯度もほぼ合わせてある。


ノースダコタ   恐竜の影   訪れた時:1993年9月

ノースダコタは、米国の中で最も辺境の地と言って良いだろう。州の西南端をちょっと擦っただけだからあまり威張れないが、ここまで足をのばした日本人は少ないのではないかと思う。アメリカ人に聞いても、行ったことのある人は皆無に近い。私が見たノースダコタは、ただ荒涼たる荒野だった。私の乏しい表現力では「荒」の字を重ねるしかない。

20世紀初頭にセオドア・ルーズベルトという大統領がいた。第二次大戦時のフランクリン・ルーズベルト大統領の叔父にあたり、キューバをめぐる米西戦争の副将として名をあげ、勢いに乗ってフィリピンの統治権を獲得し、時の英雄としてもてはやされたという。アメリカが欧州列強を追い抜いて世界最強の国になり、モンロー主義を捨てて海外に目を向け始めた頃の、時代の勢いを象徴する人物と言えよう。サウスダコタのラッシュモア山に彫られた有名な四大統領の肖像には、ワシントン、ジェファソン、リンカーンと並んで、意志の強そうな眼鏡の顔が刻まれている。彼はニューヨークの生まれで引退後もニューヨークに住んだ。彼の晩年の住居がロングアイランドに残っている。豪華さはないが、沢山の動物の剥製や膨大な蔵書から、探検家、文人としても誉れの高かった人柄が偲ばれる。

彼は若い頃に母と妻を同時に亡くし、2年間ノースダコタの大自然の中に住んで悲しみを癒したという。その縁でノースダコタ西部に彼の名前を冠した「セオドア ルーズベルト国立公園」がある。私が公園を訪れたのは93年9月で、休暇シーズンは過ぎていたが園内の宿泊施設は満員だった。30キロ程離れた小さな町でやっとモーテルを見つけ、翌朝早く起きて公園に戻った。折悪しく小雨模様で、持っていた薄手のジャケットでは肌寒かった。緯度は樺太と同じだから当然かもしれない。このあたりは、数千万年前に西側の火山性の丘陵から流れ出た土砂が堆積し、後の時代に隆起して剥き出しになった地層が浸食され、小型グランドキャニオンのような景観になったという。地層は鉄分の多い赤土と灰芭の粘土質と砂岩が順々に堆積したもので、雨で簡単に崩れ出し、遊歩道からうっかり踏み出すと泥んこになる。人の背丈より高い植物はなく、しょぽしょぽと生えた雑草群の中で、月見草が冷たい小雨にちぢこまって咲いていた。

小高い展望台に登って見ると、西側はなだらかな丘陵だが、ほかは地平線まで見渡す限りの荒野である。あちこちの水たまりに石油が茶色と黒のまだらになって浮いている。公園の出口では石油井戸が数基、馬のお辞儀のように動いていた。石油は恐竜の体脂肪が液体の化石になったものというから、数千万年前、この辺に恐竜がたくさん棲息していたに違いない。小雨の早秋のルーズベルト国立公園は、今も翼竜が空を舞い、草食竜が地を這っても少しも違和感がない。
(この項 1994年9月記)

ノースダコタの州境。キャッチフレーズは「ダコタ魂!」
ルーズベルト国立公園のゲート。
荒涼とした風景の中をフリーウェイが走る。
この世のものとも思えない景観。
見えにくいが、左下の水たまりに石油が浮いている。

サウスダコタ   ダイナマイトと核兵器  訪れた時:1993年9月

アメリカ名所の一つになっている四大統領の石像は、不便なサウスダコタの山中にあるので、見に行くのに決心がいる。93年9月の連休に思い立って、ダラスからデンバーに飛び、プロペラ機に乗り換え、夜10時過ぎにラピッドシテイに着いた。ホテルの予約をせずに出かけたらどこも満杯で、やっと場末のモーテルを見つけた。翌朝、まだ陽が昇る前に出発して、石像が刻まれているラッシュモア山に向かった。この辺はブラックヒルズと呼ばれる火山性の台地である。半砂漠の平原から針葉樹の緑が濃い丘陵地帯に入り、山あいの道路を曲がると、突然前方の崖の頂部に、朝日を受けてワシントンの横顔がそびえ立っていた。近づくにつれ、湾曲した花崗岩の岩壁に、左からワシントン、ジェファソン、ルーズベルト、リンカーンの胸像が並んだ。ハア、これが本物か、という感慨は湧いたが、どの表情も若作りで威厳に欠け、率直に言うと、やや安手の造り物、という感じがしないでもない。「大仏」は人寄せにはなるが、芸術性やありがた味の点では、必ずしも名作と言い難いのと共通しているかも知れない。

この大石像群は、花崗岩の山をダイナマイトで爆破して彫り出したものだが、周囲の風景が広々としすぎて、さほど圧倒的な大きさを感じない。だが、夫々の大きさが20メートル近くあるというから、奈良の大仏より大きな顔が四つ、頭上高く並んだようなものである。1924年に始まり1941年にかけて作られたが、金門橋やフーバーダムと同様、この時代のアメリカの勢いが、この大掛かりな記念物にも現れていると言えるだろう。この大彫刻は民間事業で始められ、後に連邦政府の手に移されて完成し、現在も国立公園として内務省の管轄下にある。

四大統領の胸像から西に30km離れたところで、インデイアン酋長「シッティングブル」の馬上像の大彫刻を造る事業が始まっている。完成図を見ると、四大統領像よりも更に規模が大きく、彫刻の周りには、インデイアン先住民のための大学、研究施設、文化センターなども計画されている。ある個人が私財を投げうって始めたものだが、現在は遺志を受けた未亡人が、小さな遊園地で資金作リをしながら、細々と制作を続けている。年に何回かダイナマイト爆破をやるらしく、花崗岩の山肌には爆破の傷痕が認められるが、全体像があらわれるのは、おそらく21世紀もだいぶ先になってからだろう。政府の支援は一切求めないと宣言しているようだが、こういう心意気をトウロウの斧と笑ってはいけない。仮に、例のペロー氏が未亡人の事業に感じ入リ、次期大統領選に出るかわリに、酋長像制作に数十億円の寄付をする気になれば、たちまち完成してしまう。こういう篤志家の例が過去にいくらでもあるのがアメリカの面白いところだ。

私のダコタの旅は、3泊4日で2千㎞を走破する旅程だったが、最終日に飛行機の時間まで少し余裕があった。ラピッドシティ郊外に戦略空軍の基地があり、B-52やB-1爆撃機の他、ICMBも配備されているというので、見学することにした。基地に着くと「今からツアーが出発する」と小型バスに急がされた。同乗の客はラッシュモア見物ついでの中年男女20名程。運転手の初老の男性は、基地内の写真撮影自由だからどんどん撮ってくれという。バスはゲートを通って駐機場に走って行く。巨大な鮫を思わせるB-52がズラリと並んだ脇を通って、最新型のB-1爆撃機が14機駐機しているところまで近づいた。運転手は「これは機密ではないから」と念を押しながら、B-1の配備数や搭載核兵器の概要まで説明したうえ、写真を撮る人は降りてどうぞと言う。整備場の脇の空き地には、大型ミサイルのロケットエンジンがゴロゴロと転がっていた。私はカメラを向けてレンズを換えながらバシャバシャ撮ったが、一向におかまいなし。日本人の素人カメラマンから軍事機密が漏れる気遣いはないが、この大らかさにはついて行ききれないところがある。

B-1の脇を通り抜け、格納庫の鍵を開けて入ると、B-29が1機だけ保管されていた。腐食しないように細心の注意を払っているので、フラッシュを使わないでくれ、という。日本の爆撃に参加した機体で、機首に半裸女性の下手な絵の横に、出動回数を示す爆弾の絵が30個以上描かれていた。 (この項 1994年9月記)

サウスダコタの境。「偉大な顔、偉大な場所」がキャッチフレーズ。州知事の名前もある。
車のプレートにも「偉大な顔」。
フリーウェイを牧草満載のトラックが走る。
米国最僻地に向かう車両輸送車。見るたびにうまく積むものだと感心する。
道路を横切るバファロー。あまり近寄らない方が安全。
鹿も現れる。

マウント・ラシュモア国立記念公園 (Mt. Rushmore National Memorial Park)

この地に観光振興で巨大石像を作る企画は、地元の歴史家ドアン・ロビンソンが彫刻家ガトスン・ボーグラムに制作を依頼したことに始まる。ロビンソンの当初案は探検家や先住民酋長など地元ゆかりの英雄像だったが、ボーグラムは国家的英雄像を主張、有力上院議員を巻き込んで国家プロジェクトに仕立てあげた。場所も当初候補地の岩質が脆かったため硬質花崗岩のラッシュモア山に変更、更にボーグラムの当初デザインは4大統領の全身像だったが、予算不足で現在見るような胸像になった。400人の石工によって彫り出された像は1941年10月に完成したが、第二次大戦の影響で完成式典が行われず、50年後の1991年にジョージ・ブッシュ(父)大統領によって公式に開園された。(この項2015/11記)

森を抜けてカーブを曲がると、突然あの景色が目に飛び込んだ。
真正面から朝日をあびる4人の大統領。左からワシントン(初代)、ジェファーソン(第3代)、T・ルーズベルト(第26代)、リンカーン(第16代)。
彫刻の作者、ガトスン・ボーグラムの胸像
見学を終えた帰途、薄曇りで少し景色が変わった。石像の下にビジターセンターが見える。
更に遠くからの眺め。こんな風景の中にある。

バッドランズ国立公園

バッドランズ(Badlands)はその名もズバリ、風雨による浸食作用で形成された荒々しい地形で、人間の活動はおろか野生動物の生存さえ許さない。元々は先住民スー族の儀礼用聖地で、 1868年の「第二次ララミー砦条約」により、合衆国政府はスー族にバッドランズ一帯を「永久にスー族のもの」と保証したが、1889年にこの条約は破られて合衆国が没収、一方的に国立公園に組み入れた。1980年になって合衆国最高裁判所は1世紀前の没収を違法とする判決を下したので、現在は合衆国が公然不法占拠しているかたちだが、スー族には奪還して自主管理するパワーは残っていないようだ。

バッドランズ国立公園のゲート。
柔らかい粘土質の地形で、舗装路を外れるとドロンコになる。侵食の速度が早そうで、この地形は遠からず消滅しそうだ。
侵食で深く削られた谷。
展望台からの眺め。
公園の出口近くから振り返る。

サウスダコタ鉄道博物館

旅の最終日、ネブラスカのチャドロンからラピッドシテイの空港に戻る途中、鉄道博物館の看板を見つけた。小鉄チャンとしては、そのまま通過するわけにはゆかない。米国には動態保存の蒸気機関車(SL)のある観光施設がたくさんあるが、ここは小生が持っているマニア用ガイドブックには載っていない。ヤードに3台のSLが出ていて、内2台が煙を吐いている。サドルタンク式の小型SLが引く列車が出発するところだったが、既に満員で乗れない。次の出発を待つ時間がなく、線路に沿った道路を先回りして数枚をカメラに収めた。

車庫前で整備する開拓時代のSL。動態保存のSLが数台あるようで、レールも広軌と狭軌の共用が敷いてある。
水槽タンクがボイラーを跨ぐサドルタンク式の小型SL。
サドルタンクSLが引く観光列車を追いかける。

エルスワース空軍基地・ 航空宇宙博物館

上記の訪問記にも記したが、帰りの出発便までの時間を使ってラピッドシテイ郊外の戦略空軍基地を見学することにした(基地手前のフリーウェイで「次のマクドナルトまで200マイル」の看板を見て一人で大笑い。ダコタとはこういう所なのだ)。訪問した1993年はソ連崩壊で東西冷戦が収束していた為か、戦略空軍は爆撃機を並べて臨戦態勢を崩していないものの、何となく緊張感を欠いていた。

小生は兵器オタクではないが、乗り物好きの延長で飛行機にも興味があり、少し古い機種なら一目で型名を言い当てる自信がある。空力的に究極までつきつめられた軍用機には空を飛ぶ鳥に似た美しさがあり、その非人間的な役目を忘れて見惚れてしまう。

空軍基地に隣接する航空博物館。C54 輸送機(DC-4軍用型)と思われる。
B25 爆撃機と思われる。
格納庫内で大切に保存されているB29 爆撃機。
無造作に放置されたICBM(大陸間弾道ミサイル)やナイキ地対空ミサイル。
B52戦略爆撃機。
Bー1超音速戦略爆撃機。


ネブラスカ  インデイアンと保安官   訪れた時:1993年9月

どの州にも一つくらいは興味をそそられて、行ってみたいと思う対象があるものだが、ネブラスカには何も思い当たらなかった。93年9月、ダコタ旅行の途中で無理に南にはみ出し、ネブラスカ西北端のチャドロンという田舎町に泊まって、50州踏破の実績を作ることにした。州境近くのダコタ側に「傷付いた膝」(Wounded Knee)いう妙な地名がある。1890年、スー族が騎兵隊に包囲されて全滅した地である。インデイアンの抵抗はこれが最後になった。「傷付いた膝」は、岩がごつごつと突き出て牧場にもならない起伏の多い荒れ地だった。車を止めて外に出ると、折からの小雨もようで、夕暮れの薄暗やみの向こうから、傷付いたインデイアンの亡霊が、馬に乗って現れて来るような気がしてきた(右)。

チャドロンに着いた時は、もうすっかり日が暮れていた。米国の農村地帯はどこでも豊饒を感じるのだが、チャドロンは挨じみた寒村だった。飯場のような食堂で夕食をとり、安モーテルの寝心地の悪いベッドにころがって、インデイアンの歴史の本を読んだ。数万年前にベーリング海峡越えて北米大陸に渡った蒙古系東洋人は、北米大陸から中米、南米の先端にまで広がった。北米大陸では白人の蹂躙で混血が重なリ、東洋系の風貌は薄れてしまったが、アラスカや中南米の先住民には、日本人と見まがう人達も多い。インデイアンの歴史を読むと、文明が持つ身勝手で残酷な側面が見えてくる。モーテルの遠くの部屋の微かな水音や、何かわからぬ獣の吠え声を聞いているうちに、寝酒が効いたのか、いつのまにか眠っていた。

翌朝まだ暗いうちに起きた。ミルクのように濃い霧がたちこめていたが、30メートル位は見通せるので、そろそろと出発した。道路脇も霧の中だが、すぐに町並みが切れて畑の中の一本道とわかった。次第に明るくなり、行き交う車もないので、大胆になってスピードが上がった。霧の中に珍しく対向車のライトが見え、すれ違った瞬間、シェリフ(保安官)のバトカーとわかった。65マイルを少し越えていたので、シマッタと思ったが後の祭り。速度をおとしてバックミラーを見ながら走っていると、追い付いてくるライトがある。識別できる距離まで近づくと、赤と青のピカピカがついた。あきらめて路肩に停車し、バックミラーを見ていると、保安官は右手をさり気なく腰のピストルに置いてゆっくり近づいて来る。この辺では大抵の人が銃を持っているので、警官には西部劇ばりの早撃ち技が必須なのだ。

若い保安官だったが、近くに来ると、黒い髪と黒い目が先住民混血の特徴を表していた。「お早うございます。どこから来ました? どこへ行きますか? 何故止めたかおわかりですね、こっちの車に来てください」と、パトカーの助手席に乗せられた。無線機やレーダーなどがところ狭しと並んでいる。パソコン端末のようなキーボードに免許証の番号をたたいて、15秒もすると私のデータが出てきたらしい。テキサスの免許証だが、全国どこからでも照会できるようだ。伝票のようなチケットにいろいろ書き込んで「ここの制限速度は55マイル。私のレーダーには66マイルと出ていましたよ。霧の中ではゆっくりと運転するべきですね。裁判所に出頭するのが本来ですが、今回は警告に留めます。警告書を良く読んで、サインして返送するように。では安全運転で楽しい旅を!」  (この項 1994年9月記)


追記:20年前のネブラスカの印象は上記の如しだが、その後、ネブラスカを見直すことになる。小生の米国駐在時代からの友人で、ネブラスカ大学で学位を得て米国の大学で教鞭をとっていた日本人女性の学者がいる。その後日本に帰国されたが、今も毎年8月上旬にネブラスカを訪れておられる。目的は8月6日に州都リンカーン(これも大統領名が由来)で行われる "the lantern float"(原爆犠牲者追悼灯籠流し)の催しに参加するためで、この行事は ”Nebraskans for Peace"(平和を願うネブラスカ人の会)という平和と人権を守る市民団体が32年前に始めたもの。今も多くの市民が参加していることは右の写真が示している。セレモニーでは原爆文学研究者である彼女が毎回スピーチを求められ、核廃絶への思いを込めたスピーチは地元の新聞に好意的に報じられている。

広島、長崎の原爆投下を正当化する人たちが多い米国で、ネブラスカでこのような催しが続けられていることに驚きを感じる。そう言えば、19世紀末に「人民党」(People's Party )という政党が結成されたのがネブラスカだった。その名が示すように労働者と小農民を基盤とした政党で、1892年の大統領選挙では民主・共和の二大政党に対抗して独自の候補を立てて4州で勝利した。人民党は民主党との選挙協力で勢力拡大を目指したが、結局は民主党に取り込まれて消滅した。米国にそんな政党が活動した時代があったことも驚きで、120年後のネブラスカにその残り火が見えるような気がするのは、小生の勝手な思い込みかもしれない。(この項 2015/11記)