前篇でオーストリアの永世中立にまつわる私見を書いたところ、多くの読者から同感とのコメントを頂戴した。そのオーストリアの地勢を実証するかのように、中東からの大量の難民がオーストリアを経由してドイツに流入する様子が報じられている。身一つで祖国を捨てなければならない難民の苦渋と、それを生んでいる状態に心が痛むと同時に、大量の難民を受け入れる側の度量と葛藤を思う時、この種の緊迫とは無縁な極東の島国で安穏に暮らすありがたさと、たった70年前の自国の痛恨さえ忘却する鈍感さ、それをどうも出来ない無力感が我が胸を交錯する。

オーストリアの国民一人あたりGDPは$46,600でドイツ($44,700)より高いが、人口が870万でドイツの1/10しかない。従って経済規模もドイツの1/10で、雇用機会はドイツより格段に少なく、難民はオーストリアを素通りしてドイツに殺到する。オーストリア経済には観光業も重要だが、主力はドイツと一体化した製造業。要するに「ドイツの下請け」だが、高い技術力を持つ中小企業が高付加価値を維持しているので、ユーロ経済圏のメリットをフルに享受していると言えよう。逆に見れば非熟練労働の場が限られ、低所得層が増えない構造と言えるかもしれない。

旅行者の目で見たオーストリアの印象を一言で言えば「貧乏クサイところがない」。公共の場所は清潔でゴミひとつ落ちておらず、汚れたトイレに一度も遭遇せず、物乞いはもちろん町をうろつく浮浪者もおらず、ルーズな服装の若者さえ見かけなかった。若年層の失業率が結構高く、極右化して社会不安を煽っているとも聞くが、そのような雰囲気も感じられず、オーストリアは誠に住み心地のよい国のように見える。

オーストリアが政治的に安定しているかというと、そうは言えない。少数政党の連立政権が近年の伝統で、選挙結果によって政策が左右に振れる。これは北欧-1で書いたようにヨーロッパの福祉国家に共通するが、この微妙な不安定が、国民の声を政治に届かせる民主主義のメカニズムとして機能し、社会の安定をもたらしているように思える。日本は小選挙区制で二大政党に誘導する道を選んだが、政策決定が「白か黒か」の対決になり、結局は最大与党の思うがままになる。政党が国民の様々な思いを吸い上げられず、政治システムが機能不全に陥っていることは、投票率の低落に如実に表れている。一票の格差でコケにされ続けている一国民としては、憲法よりも選挙制度改革の方が先! と叫びたくなる。


前篇から続く  第6日目~第7日目  ザルツブルグ

ザルツブルグのザルツが「Salt=塩」であることは、前篇の「ザルツカンマーグート」(塩の宝庫)と同じ。ザルツブルグは「塩の砦」で、その名のとおり、旧市街を見下ろす丘に堅固な城塞(ホーエンザルツブルグ城)が聳えている。その城主はザルツブルグ大司教、つまりカトリックの偉い坊さんで、聖職者が領主の歴史は7世紀末まで遡る。当時バイエルン地方を統治していたテオド大公はルーベルト司教の才覚を聞き及び、領地を寄進して布教に努めさせた。教区は8世紀末に大司教区に昇格し、布教活動で領地を拡大し続ける一方、城下を流れるザルツァッハ川の岩塩輸送への通行税徴収で財政が潤い、丘上の堅固な城郭建設を可能にした。

大司祭の城砦は実際に役立った。1077年、神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世と教皇グレゴリウス7世の間で起きた聖職叙任権闘争で、教皇側についた大司教は神聖ローマ軍との戦闘に備えて立て籠もった。1525年のドイツ農民戦争では農民軍に包囲され、長期龍城を余儀なくされたこともある。17世紀初頭に独裁政治を行った大司教ライテナウは、ユダヤ教徒の美女ザーロメをミラベル宮殿に住まわせて15人の子供をもうけたが、製塩権をめぐる争いでバイエルン公に敗れ、自分の城に幽閉されたのは皮肉である。18世紀中期には大司教エロイテリウスが新教徒を迫害し、捕えた新教徒を城の地下牢に押し込めた。モーツアルト(1756ー1791)がザルツブルグで呱々の声をあげたのはこの時代である。

大司教のザルツブルグ統治は1803年に終わる。フランス革命をめぐるの戦乱の中、フランス軍に攻めこまれたコロレド大司教は城を捨て、亡命先のウィーンでザルツブルグ統治権の放棄を宣言する。占領したフランス軍は事前の秘密条約により統治権をイタリアのトスカーナ大公に譲るが、ナポレオン戦争後のウィーン会議でオーストリアに併合された。更に1938年、ヒトラーによるオーストリア併合でザルツブルグはドイツの一部にされたが、この町で生まれ育ったカラヤン(1908-1989)は、併合前の1933年にザルツブルグでナチス党員登録をしていた。戦後の厳しいナチス訴追に「若気の至り」と弁解し、「芸は身を助く」で有罪を免れたものの、その1点が彼の華麗な経歴のキズになった。典雅な音楽の都ザルツブルグの歴史もけっこう波乱万丈だったのだ。

ウィーンで鉄道駅を訪れそこねた小鉄チャンは、ザルツブルグでは何はさておき朝飯前に駅に行く。土曜日の早朝、町はまだ半分眠ったままで乗降客の姿もまばらだが、11番線まであるホームでは近郊電車や中・長距離列車が数分おきに発着。列車編成もバリエーション豊かで、小鉄チャンは見ているだけでワクワクする。ザルツブルグはバイエルン地方の中心都市だが人口は15万しかなく、列車で訪れる観光客も多いとは思えないが、それにしては列車の発着が頻繁。オーストリア国鉄のガンバリはたいしたものだが、(余計なお世話だが)財政は大丈夫だろうか? ちなみに人口15万で観光地でもある出雲市駅の休日の朝8時台の発着は、上り3本に下り2本。

近年の改装でモダンな地下駅舎になった。休日朝の駅前は閑散としている。
ウィーン行きの2階建て電車。
近郊電車。自転車を持ち込めるように出入口がゆったりしている。
近郊用のディーゼルカーが発車。
ウィーン空港行きは重厚な客車仕立て。
清掃スタッフ。

ザルツブルグの観光スポットは狭い旧市街に集中している。旧市街への車の出入りが禁止されているので、観光客は歩くしかない。新市街のホテルと旧市街を結ぶ路線バスの乗り方の説明を受けたが、ドイツ語の長い停留所名は耳にもアタマにも入らない。歩いても15分で治安の心配もないので、もっぱら歩いて通った。

ミラベル宮殿から旧市街とザルツブルグ城を望む。ミラベルは「美しい眺め」の意で、1606年に大司教が愛人と子供の為に建てた(聖職者は公けに結婚できない)。
ミラベル宮殿は市役所として使われている。広間で連夜音楽会が開かれる。
演奏会場の広間に上る階段。
演奏会場の客席は30席ほど(演奏中は撮影禁止)。
ミラベル宮殿の脇からザルツァッハ川越しに旧市街を望む。
歩道専用橋に結び付けられた鍵。近頃の若者の間で流行している妙な風習。
旧市街の商店街。文盲の多かった時代の絵看板の伝統が残る。
モーツアルトはこの建物の4階で生まれた。2階以上が博物館になっている。
モーツアルト広場のモーツアルト像。英雄像のようで音楽家らしい雰囲気を欠く
祝祭劇場。大ホールが3つある。山側は石切り場の再利用でむき出しの岩壁が音響効果を生む。
カラヤン生家前のカラヤン像。あまり良い出来とは思えない…

大司教と共に歩んだ大聖堂。8世紀に創建され、12世紀にロマネスク様式に改築、現在の建物は17世紀にバロック様式に建て替えられたもの。内部にはモーツアルトの洗礼盤や演奏したパイプオルガンがある。カラヤンの葬儀もここでが行われた。
大聖堂裏のザンクトペーター教会。墓地の鉄細工墓標が美しい。
岩壁を繰り抜いて作られた初期キリスト教徒の墓地カタコンベ。
近代美術館から旧市街と城を俯瞰。右下は祝祭劇場。
城の南西面を守る城壁。
城内は大司教の居室を含む宮殿と城砦の機能を備える。左は教会。
城から旧市街を見下ろす。
市街の反対側の風景。遠景はドイツ領の山で、山頂にヒトラーの別荘があった。
郊外のヘルブルン宮殿は大司教の夏の別荘。様々な仕掛けの噴水が優雅な暮らしぶりを思わせる。

ウィーン程ではないにしても、ザルツブルグにも必見スポットが多く、2日間では見きれない。我々のツアーは自由行動が丸1日あり、前日にガイドから得た情報やガイドブックを頼りに歩き回る。限られた時間でどこを見てどれを捨てるか、ハムレットの悩みも旅の楽しみの内で、時間切れや旅疲れで見れなかった無念も、旅の思い出の一部になる。

旧市街の岩塩専門店。巨大な結晶の置物からお土産用の小袋まで各種取り揃え。
ツアーのさよならデイナーは由緒あるレストランで。
ローストポークの付け合せは名物の蒸しパン(団子)。
名物デザートのザルツブルガー・ノッケルは焼きマシュマロのようなもの。
モーツアルト像を真似る芸人。おひねりをもらうと不動の姿勢を崩して絵葉書を渡す。
街角の四重奏団。石壁に響いて素敵な演奏だが、おひねりは滅多にもらえない。


モンタフォン地方の山歩き

ウィーン、ザルツカンマーグート、ザルツブルグの観光を終えた旅仲間とミュンヘンで別れ、我々は南ドイツ在住の長女夫妻に1周間世話になった。行きたいところを聞かれ、ノイシュヴァンシュタイン城、リヒテンシュタイン、スイスのダヴォスで山歩き、と思いつくまま注文を付けたが、ダヴォス山歩きまではムリと却下された。

代案はモンタフォン地方の山歩き。モンタフォンはオーストリアの西端に位置し、スイスと国境を接する地域で、日本の観光案内書には載っていないが、ヨーロッパではクロウト好みのスキーリゾートとして知られ、ここを拠点とするプロスキーヤーも多いらしい。夏のトレッキングルートも豊富で、登山口のアクセスに公共バスの便もあり、有名観光地でないのでコストはリーズナブル、何よりも人が少なくて静かなのが良いという。そこまで熟慮したプランであれば、「老いては子に従う」のが良い。(モンタフォンの位置は前篇の地図参照)

前月レポートしたリヒテンシュタインから車で1時間で宿泊地のザンクト・ガレンキルヒに到着。バス停周辺に教会、観光案内所、小ホテル2軒、レストラン兼土産物屋、スポーツ用具店、地元民用のスーパーがあり、丘を少し登ったところに民宿風のミニホテルが数軒見えるだけの小さな集落である。同じ街道スジのスキー場には大きなホテルやレストランがあるが、観光目玉のない小集落のバス停でも「貧乏臭くない観光業」が成り立つのが面白い。

我々のホテルは貸コンドミニアム(日本流に言えば貸マンション)で、2LDKのゆったりしたスペースに本格キッチンが付いている。料金を4人で割れば一人1泊45ユーロ(約6千円)で、この料金には公共バスやロープウェイ・リフト乗り放題のチケットが含まれ、この分を単純に引くと宿泊費は一人1泊3千円にもならない。娘に言わせればこれでも「チョー高級」の由で、ヨーロッパ人はもっと安上がりに長期休暇を楽しむらしい。


我々は車で来たが、電車で来る方法もある。3両連結の電車が毎時1本走っている。
ザンクト・ガレンキルヒの教会。朝6時から夕方8時まで30分毎に鐘が鳴り響く。小さな教会だがパイプオルガンがあり、隅々まで手入れが行きいている。教会裏の墓地はどの墓も新鮮な花が供えられ、村人の心意気が伺われる。
バス停周辺を外れると農家と牧場が点在する。
街道の通勤時間帯は家畜優先。

山歩き第1日目 シルヴレッタ・シュタウ湖からスイス国境の山へ

ヨーロッパも異常気象で記録的猛暑に襲われ、少しでも涼しい山歩きをしたい。観光案内所で聞き出したおすすめトレッキングコースの中で最も標高の高いルートを選んだ。バスで1時間のシルヴレッタ・シュタウ湖から片道3時間、氷河が見える山小屋を往復するコースである。1時間おきに走るバスの乗客は観光客7割に地元民3割。地元民はプリーパスで乗り降りし、我々の乗り放題切符を運転手がチェックする気配もなく、2度目から見せずに乗降してもお咎めは無かった。都会の公共交通機関でも乗客信用の姿勢に感心したが、日本の不正乗車を断じて許さないシステムとは対照的。

シュタウ湖は地図の地形から氷河湖と思っていたが、行ってみると人造ダム湖だった。オーストリアの発電量の67%が水力、その他自然エネルギー(風力、太陽光)12%で原発ゼロ。化石燃料依存(20%)を減らす為に水力・風力を増強中の由で、原発再稼動を強行する某国の逆を行っている。

ダム湖の湖畔を1時間歩き、湖の奥から山道に入る。
豊富な雪解け水がダムに注ぐ。
ゆるやかな登り2時間で目的地。左のピラミッドは標高3312mのグロッセル山か。
登山道終点のチャペルは聖母マリアを祀る。山の神を祀る日本の山頂の祠とは似て非。
標高2443mのヴィーシュバデネル小屋はなかなかの賑わい。
帰途も同じ道をのんびり下る。

山歩き第2日目  ゴルム丘の腹ペコ山歩き

前日のカンカン照りに目一杯日焼けしてヒリヒリ痛い(小生は日焼け止めクリームがキライなのだ)。この日も朝から好天で気温が上がりそうなので、標高2124mまでゴンドラで行けるゴルム丘を歩くことにする。週末で地元の若者、中年組や家族連れが多いが、日本の山歩きで圧倒的多数派の高齢者のグループは見かけない。

ルートは枝分かれが多いが、随所に立っている標識と地図を見比べて歩けば迷うことはない。クセモノは表示されている目的地までの所要時間で、我々の足では3割余計にかかってしまう。つまり、標準的なヨーロッパ人は我々の1.3倍早く歩くのだ。脚の長さも違うがピッチがやたら早く、お団子を重ねたようなオバサンにまでグイグイ追い抜かれる。

途中の山小屋で昼食の予定だったが、眼下に小屋が見えた時は既に予定時間を大幅にオーバー。小屋に寄って昼飯を食べたら下りのゴンドラ最終便に間に合いそうもなく、昼メシヌキで近道を急ぐことにする。そうなると空腹感は増幅し、気ばかりあせって下り坂で足がもつれる。案の定足を滑らせて肘を擦りむくが大事に至らず、何とか終発前にたどり着いたゴンドラ駅のコーラとアイスクリームが空腹に滲みた。

ゴンドラ終点のゴルム丘(標高2124m)から歩き始める。上部のリフトは動いていない。
週末なので地元の子供連れ家族も登ってくる。
スイス国境の岩山が頭を見せる。
目の前にドルゼンフラー山(2827m)が迫る。
高山植物が咲き乱れる斜面。
登山道の最高点に立つ十字架。ここから長い下りが始まる。

山歩き第3日目  名月湖からトータルフ小屋へ

旅の最終日、貸コンドミニアムの掃除を終えてチェックアウト。帰りの道を途中で左に折れ、ケーブルで標高1979mのルナゼー(名月湖? 発電用ダム湖)に登り、標高2385mのトータルフ小屋を目指す。湖畔から小屋まで標高差400mの急登を一気に登る元気はまだ残っていた。

谷のどん詰まりのロープウェイに乗る。
標高1979mのルナゼー湖畔から登り始める。
前日に見たドルゼンフラー山(2827m)と思われる。
1時間半で目的地のトータルフ小屋(標高2385m)に到着。
細麺のスープにソーセージが乗った1品は山小屋ラーメンを思わせる。
小屋からの下り。残雪はグズグズでアイゼンなしで問題なし。


毎度の言い訳けになるが、小生は植物分類に興味が湧かず、その延長で花をしっかり撮る習慣も技術もない。以下は無造作に撮ったモンタフォンの花たち。日本の高山植物に似た花もあるが、色の鮮やかさが違う。土壌成分の違いだけでなく、湿度や紫外線の強さも影響するのだろうか。