永世中立国と言えば先ずスイスが思い浮かぶ。スイスの永世中立はナポレオン戦争終結後の1815年に締結されたウィーン議定書で承認されたもので、列強に取り囲まれた小国を維持するには非同盟に徹するしかないとハラを決め、周辺国を納得させたと言われる。第二次大戦では四周を枢軸国の独・伊に囲まれながらも中立を維持し、非同盟なるがゆえに戦後の国連発足にも参加しなかった。2002年に国民投票の結果を受けて国連加盟、現在はPKOに武装兵を派遣しているが、戦闘には参加せず人道支援に徹している。
隣国のオーストリアも永世中立国で、第二次大戦後の1955年に承認された。同国は第一次大戦初戦でドイツを巻き込んで主役を演じたものの、戦争が長期化して消耗戦になると自壊して敗戦国となった。第二次大戦でもナチスドイツに巻き込まれたかたちで敗戦国になり、英、仏、ソ、米の4国に分割占領される憂き目に遭う。独立回復時に永世中立を宣言したのには、占領国側の意向もあっただろうが、オーストリア自身戦争がコリゴリだったに違いなく、国家間の同盟が「勝ち組に都合の良い時だけの仮証文」でしかないことも、かつてはそれを弄ぶ側だったオーストリアは身に沁みて知ったに違いない。
永世中立は宣言すれば成立するわけではなく、周辺国がその国の永世中立を承認し尊重しなければ意味がない。国際法では ①他国と軍事的同盟関係を持たず、②自衛の他は戦争する権利を放棄し、③他国が戦争状態にある時は中立を守り、④戦時に於いて他国軍の通過を認めず、⑤それなりの自国軍を保有(他国に攻め込まれたら自分で防衛するしかない)が条件とされる。ラオス、トルクメニスタン、コスタリカなども永世中立を宣しているが、周辺国がマジメにとり合わないので、現在国際的に認められている永世中立国はスイス、オーストリアの2国だけとされている。
日本は現時点では①(他国との軍事同盟)を除いて永世中立の条件を満たしている(⑤日本は世界トップクラスの自衛戦力を保有)。実は第二次大戦後に日本の永世中立化が検討され、旧ソ連がそれを強く推したが、米国が拒否して沙汰やみになった経緯がある。対日戦に出遅れた旧ソ連の悪あがきと読めるが、出遅れたことで日本が分割占領を辛くも免れたのは不幸中の幸いと言うしかない。以来続く米国との同盟を更に一歩踏み込みたいのが現政権の目論見で、そうなると永世中立の条件を満たすのは ⑤(自国軍保有)だけになり、「戦争不参加」のタガは全て外れる。
同盟の前提には必ず「共通の仮想敵国」がある。日米の仮想敵国は、冷戦時代は「旧ソ連」、今は「中国」であることは間違いない。だが米国にとって「ソ連」と「中国」では意味するところが全く異なる。ソ連とは何事につけ水と油の関係で、経済的利害もなく、軍事的優位だけが関心事だった。しかし現在の米中は経済相互乗り入れが深行し、中国に於ける外国トップブランドの過半は米国企業と言われる。米国在住の中国系人口はユダヤ系とほぼ同じ5百万人超で、政治的に黙殺できる数字ではない。加えて、14億の人口を持ち資源豊富な中国と戦争したらどうなるか、米国には朝鮮とベトナムでの苦い記憶が残っている。その米国が日本のために中国に砲口を向けてくれるとは到底考えられず、「ケンカの仲裁」が精一杯ではないだろうか。一方の中国も米国と直接戦火を交えることは絶対に避けたい筈で、そう考えると、日本の「集団的自衛権」の有効性は根底からアヤシくなる。
「積極的平和主義」者は「戦争できない国は三等国」と思い込んでいるフシがある。だが武力(軍隊の衝突)で決着がついたのは19世紀までで、20世紀の戦争は国家総力戦になり「物量」がモノを言った。「物量」が無いことを思い知らされた日本は「積極的不戦主義」を掲げて今日に至り、それによって国は富み、他国にも迷惑をかけず、平和国家を体現してきた。米国は時にイライラしたかもしれないが、自分がそうさせた事だから表立って文句を言えない。その日本が永世中立に準ずる「積極的不戦主義」の看板を、いま急いで捨てなければならない事情は思いあたらない。米国の片棒を担いで世界のあちこちに敵を作るより、「21世紀は戦争しない国が一等国」と言い続ける方が、日本にとってよほど得策ではないのだろうか。
小生が名所旧跡巡りの旅にそれ程熱心でないのは、中高時代に歴史が不得意科目だったトラウマで、せっかく有名な史跡を訪ねても歴史的脈絡がアタマに入らず、ガイドの説明も聞かずに写真を撮りまくるだけになる。だが少し前に当ホームページに旅の感想を書きながらふと思った。歴史オンチを自認する上は、歴史的脈絡など勝手につけて「ああ、そういうことだったのか」と自分で納得すればよいではないか。それがカン違いであったとしても、歴史に詳しい読者にバカにされるだけで、別に誰にご迷惑をかけるわけでもない(政治家の独善的歴史観は戦争のモトになりかねないが)。そう考えるとトラウマの霧が半分晴れた。
「歴史」はダメだったが「人文地理」の成績はマアマアだったので、今も歴史年表より地図を見る方が楽しい。 オーストリアは8カ国に囲まれている。その西半分は旧枢軸国(独、伊)、東半分が旧ソ連圏の国々で、この国が地勢的にヤバイ場所に位置していることが分かる。国に勢いのあった時代は、周辺の国々を睥睨して従わせるのに好都合だが、一旦パワーを失うと、巻き添えを食ったり袋叩きの目に遭うことになる。ハプスブルグの栄華の時代から暗転し、20世紀に2つの大戦で敗戦国となったオーストリアが永世中立の道を選んだ理由が、地図の上に見えるような気がする。
花のウィーンの初日は雨模様、しかも観光のしょっぱなが「中央墓地」と聞いてオヤオヤと思った(東京見物が雨の青山墓地から始まったら…)。ところがこれが大正解、ウィーンの華やかさと落ち着きをこれほど見事に象徴する場所は他にない。中央墓地は1871年に市内5ヶ所にあった墓地を統合したもので、その際に著名音楽家の墓を1区画に集めた。貧窮していたモーツアルトの遺体は共同墓穴にゴミ同然に葬られたので墓は無いが、モーツアルト抜きでは画竜点晴を欠く。そんなわけで、ベートーベンを太刀持ち、シューベルトを露払いに従えた記念碑を建てた。要するに楽聖たちの墓を客寄せの目玉にしたのだが、150年後に大型バスがゾロゾロ来ているのだから、古都ウィーンの観光戦略は大当たりで、その場所を混雑前の朝一番に訪れた我々のガイドの戦術も大当たりだった。
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ウィーン旧市街はリンクと呼ばれる環状道路に囲まれている。リンクは19世紀半ばに中世の城壁や堀を壊して作ったもので、巾58mの広い道路は両側に歩道、その内側に街路樹、その内側に路面電車の複線線路と3車線の一方通行車道がある。当時の都市造りとしては歴史遺産を再利用した巧みな手法と言ってよいだろう。そのリンクの内側の旧市街全部が世界遺産に登録されている。第二次大戦の空襲と市街戦で大きな被害を受け、終戦後は旧ソ連の占領地域になった。復興で歴史的建造物は昔の姿に復したが、戦後型の中層ビルになった建物も多い。その状態での現状保存が原則で、無愛想な実用本位の戦後型ビルでも、高層建築への建て替えは許されない。
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ウィーンは昔も今も国際都市の顔を持つ。ロンドン、ニューヨーク、パリに続いて開かれた1873年のウィーン万博には日本が初参加し日本館を建設した。江戸から明治になってまだ6年で、尊王攘夷から西欧化への舵切りの素早さに改めて驚く。第二次大戦後、永世中立国となったオーストリアは国連の実務機関の事務局を招致し、1957年の国際原子力機構(IAEA)を皮切りに多くの機関がウィーンに本拠を置くようになった。その影響かどうかは知らぬが、第4代事務総長(1972-1981)にオーストリア出身のヴァルトハイムが就任した。
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ヨーロッパの都市をあちこち歩いたわけではないが、行く先々で路面電車を見る。落ち着いた街並みを走る路面電車はととても羨ましい。クラシックな旧式車両も味があるが、連接型の新型電車も不思議に周囲の景観とマッチし、交差点の急カーブを巧みに身をよじらせて走る姿が魅力的だ。日本の路面電車は高度成長期に自動車の邪魔者にされて引っぺがされたが、エコ志向だけでなく、都市に落ち着きを取り戻す公共交通機関として、ぜひ復活して欲しい。
ウィーンの路面電車は乗車・降車時に切符のチェックが全くなく、乗車時に自分でタイムスタンプを押すだけ(バスや地下鉄も同じ)。定期券や回数券はノーチェックで無賃乗車は容易に見えるが、不意に乗り込んで来る検札員に不正乗車がバレると高額な罰金を取られるという。日本のような超管理社会では考えられないシステムだが、ある意味成熟したオトナ社会を象徴しているようにも思う。(切符に関する限り、日本人は徹底した「性悪説」に立つ。)
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ハプスブルグ家の居城シェーンブルン宮殿は地下鉄で20分ほどのウィーン郊外にある。ベルサイユ宮殿を凌ぐ規模を目論んだが、財政難で果たせなかったという。現在の宮殿は18世紀のマリア・テレジア女帝の時代に完成したもので、女帝はここで18人の子供を生み、政略結婚でハプスブルグ家の勢力拡大と安泰を計った。6歳のモーツアルトが女帝の前で演奏したのも、ナポレオン戦争後に「会議は踊」ったのもこの宮殿である。
宮殿内の見学は完全予約制で、飛び込みの我々は小1時間待たされた。とにかく規模が大きすぎ、見る物も多すぎ、印象が薄まって何を見たのか記憶に残らない。内部撮影禁止をキチンと守ったので、記憶を呼び覚ます写真もない。(傍若無人に撮りまくる某国の団体を傍目に見て、コッソリ隠し撮りする気も失せた。)
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ドイツ在住の娘に「ウィーンに行ったらワルツを踊る馬を見なきゃ」と言われていたが果たせず、滞在2日では以上の観光が精いっぱい。音楽やオペラを楽しもうと思ったら、少なくとも1週間は要りそうだ。そんな1ヶ所ジックリ型の旅をする前に我が人生は終止符が打たれそうだが、日頃抱えている諸々の雑用やオカネの制約を考えれば、これからも短期間アチコチ型の旅を目いっぱい楽しむしかない。
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ウィーンを出て西へバスで3時間、ザルツブルグの手前で南に折れ、ザルツ・カンマーグートの山岳・湖沼地帯に入る。ザルツは Salt(塩)で、ここは世界有数の岩塩の産地。ハプスブルグ家にとって岩塩鉱山は最重要の財政基盤で、一帯を直轄地にして開発と経営にあたった。山の中から塩が採れるということは、この辺りが太古の昔海底だったことを意味する。イタリア半島が大陸とぶつかり、海底が盛り上がって出来たシワがヨーロッパアルプスで、ザルツ・カンマーグートはその東端近くに位置し、石灰岩の山を氷河が削り出した、文字通り「絵に描いたような景色」が点在する。
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小鉄チャン的には、シャフベルク登山鉄道が本ツアーの目玉。「サウンドオブミュージック」に出たというが、恥ずかしながらその映画を見ていない。そんなことはどうでもよく、小鉄チャンの興味はもっぱら急勾配用超小型SL(蒸気機関車)。1893年に開通した当時の石炭焚きのSLも健在だが、週末しか登場しないとか。普段走っているのは1992年建造の重油焚きSLだが、構造は原型と同じという。ボイラーが前のめりなのは、急勾配で空焚きが起きないように傾けて取り付けてあるためで、小鉄チャンはそんなことにもいちいち興奮する。残念だったのは、我々が乗った列車が往復ともDL(ディーゼル機関車)牽引だったこと。
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ザルツブルグに移動する道すがら、湖畔の町ザンクト・キルゲンに立ち寄る。モーツアルトゆかりの地で、母親の実家が今は博物館になっていて、モーツアルトの生涯や名曲解説のビデオを見せてくれる。ちょっと立ち寄りのつもりが引き込まれ、誰も席を立たない。音楽隊のパレードが行く気配に、小生だけ飛び出して追いかけたが、驚くほど歩調が速く、演奏を終えてドンドン行ってしまった。旅をしていると曜日の感覚を失う。この日は日曜日で町の通りに市が立ち、路上のカフェで朝からビールを楽しむ人たちがいっぱい。 ザルツブルグのレポートは次号に続く。
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