この地域を頻繁に訪れている友人が、最近の様子を知らせてくれた。小生は2000年に訪れたウルムチが「近代都市」だったことに驚嘆したが、その後の10年で、ウィグル族の情緒豊かな町だったトルファン、クチャも、すっかり「ウルムチ化」したと言う。加えて、中国人の旅行ブームで、鼻白むような観光地化(俗化)も進んでいるらしい。田舎の素朴な風物が失われるのは残念だが、それが「経済成長」がもたらす一面でもある。
我が日本をふり返れば、40年前の「高度成長」、「ディスカバー・ジャパン」の時代は、まさにそのような光景だったのではないか。地方にも雨後のタケノコのようにビルが立ち、観光地には突飛な客寄せ施設が作られ、アッという間にGDP(経済規模)が世界2位になった。マンハッタンの土地建物や、世界各地の名門ゴルフ場を買い漁ったのも、その頃だった。
日本の「栄華の時代」はバブル崩壊と共に終わり、米国に次ぐGDP2位の座を中国に譲った。その中国が米国から1位の座を奪うのは、もはや時間の問題だろう。なにせ中国は米国の4倍(日本の10倍)の人口を擁し、国民の「商売ッ気」は米国以上。天然資源は豊かで、食糧も自給可能。日本が地団太踏んでも勝てない状況は、第二次大戦時の対米国と同じ。下手なケンカをせず、我慢強くWin-Winの関係を築くしかない。それが日本が敗戦という代償を払って得た教訓の筈だ。
その中国が抱える火種がウィグルの分離独立運動。彼等は1933年~34年、44年~49年の2次にわたり、短期間ながら「東トルキスタン・イスラム共和国」という実効的な独立政権を樹立した実績がある。それを後押ししたのは旧ソ連だったが、現在はその亡命政府が米国の首都ワシントンDCにあり、ウィグル人の大統領・首相がいるという。国際情勢はまことに「複雑怪奇」で、短視の「その場思考」では「想定外」ばかりが生じる。(解説するまでもないが、昭和14年、独ソ不可侵条約を知った平沼騏一郎内閣は、「欧州情勢は複雑怪奇」の声明を残して総辞職した。)
クチャで2泊の後、南彊鉄道に再乗車してカシュガルへ。早朝出発の疲れが出たのか、上段の寝台でウトウトしている内に昼食の時間になった。食堂車の通路で順番を待っていると、足元に白菜が転がって来た。コックが使い残しを、通路脇の食材庫に放り投げそこねたらしい。食材庫を覗きこむと、野菜類が裸のまま床に転がっている。料理は全て炒め物で、衛生上は問題ナイ。気にシナイ気にシナイ。
クチャから12時間で終点のカシュガル到着。全線開通からまだ半年で、駅舎や駅前広場は未整備のまま。2千人の乗客を出迎える車や馬車が巻き上げる砂塵に「西部開拓」を感じる。やっと出迎えのバスを探し出し、雑踏をかき分けて向かった先のホテルは、昔の小学校の木造校舎を思い出させてくれた。
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住民120万の殆どがウィグル族で、イスラムの戒律に従って全身を覆う女性の姿が目に付く。玄奘三蔵は「仏教が盛ん」と書き残したが、400年後に入って来たイスラム教に払拭され、仏教の痕跡は全く無い。砂漠に生きる民には、砂漠で生まれた宗教の方が肌に合うのだろう。
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ウィグル族の生活空間は爽やか。爽やかなのはカラッとした空気だけでなく、掃き清められた街路にスッキリと立つ街路樹が爽やかで、行き交うウイグル人の服装も爽やか。とりわけ子供たちの爽やかさは、ウィグル人の家庭と社会が健全であることを覗わせる。
カシュガルの爽やかな空気を乱すものがあった。朝夕、漢人の武装兵士を満載した軍用トラックの隊列が、轟音をことさらに轟かせて走り抜けるのは、ウィグル人市民への威圧としか思えない。反感を買って逆効果と思うのだが、「占領軍」の心理では、そうせざるをえないのだろう。
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中国とパキスタンを結ぶ古代からの「シルクロード」が、「カラコルム・ハイウェイ」になった。カシュガル~イスラマバード間1500kmの自動車道路は、正式には「中国パキスタン友好道路」と呼ばれ、両国政府の連携で1957年から20年かけて建設された。世界で最も標高の高いところを走る舗装道路で、標高4780mのクンジュラブ峠を越るが、そのたたずまいは、「~ハイウェイ」よりも「~街道」の方が似合う。
カシュガルから西南へ走る。街道脇の市場に集まる農民の荷車や羊の群れを追い越し、農村地帯を抜け、2時間ほどで崑崙山脈の山裾に至る。急峻な山道をグングン高度を上げ、軍の検問所を過ぎ、標高3000mの高原に出ると、街道は幻想的な風景になる。
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道路が左にカーブすると、突然、ムスタグ・アタ(標高7546m)が正面に姿を現わす。なだらかな山容で、簡単に登れそうだが、見た目よりもスケールが大きく、天候が崩れると遭難しやすいという。左の崑崙山脈主峰コングール(7649m)も、さほど高峰には見えないが、カシュガルで出会った日本人登山家は、3週間がかりでタックしたが登頂出来なかったという。
我々の目的地カラクリ湖は標高3800m。撮影ポイントを求めて歩き回ると息切れするし、茫漠たる風景はシロウトのカメラには納まらない。昼食を含めて1時間の滞在で帰途についたが、更に南に進めば、玄奘が山賊に象を奪われたというタシュクルガンを経て、パキスタン国境のクンジュラブ峠が近い。その先は2008年に訪れたフンザの里である。
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日本では「落石注意」の看板は無視されるが、カラコルムハイウェイでは「今しがた落ちて来ました!」と言いたげな岩石がゴロゴロしている。「注意」と言われても、道路に覆いかぶさる崖面にはコンクリートの防壁も金網も無く、落石に遭ったら「運が悪かった」と思うしかない。
我々は幸い落石には遭わなかったが、帰路に鉄砲水で足止めをくった。氷河の水溜りが壊れて急斜面を奔り、しばしば道路が遮断されるという。小規模なら土砂崩れに至らず、奔流が治まるのを待てば良い。1時間ほどで水勢が弱まると、両側に溜った10台ほどの車の運転手たちが状況を確認しあい、お互いに車を誘導し、泥にはまった車を引っ張り出し、バス乗客の渡渉に手を貸す。こんな時は、パキスタン人、ウィグル人、漢人もなく、心が一つになって快い時間が流れる。
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