前々号で「米国がアフガニスタン武装勢力に対する攻撃基地をパキスタン国内に置く以上、テロリスト(ゲリラ)の攻撃対象にされることは避けられない」と現在形で書いたが、誤りだったようだ。改めてパキスタンの米軍基地を調べると「none」(なし)だったのだ。在パキスタンの米軍関係者は僅か31名で、戦闘部隊は全て撤退したらしい。前々号の記事は2008年に現地で聞いた記憶で書いたが、最新情報の確認を怠ったことを陳謝し訂正させていただく。

「敵の敵は味方」と俗に言うが、米国は宿敵ソ連と友好関係にあったインドと敵対するパキスタンを支援し続けてきた。だがこのところ両国の関係はギクシャク度を増しているようだ。本年9月、米政府はパキスタンのテロ対策を不服として3億ドルの援助を凍結し、IMFに対してパキスタン救済停止の圧力をかけているという。不仲の発端は、2011年に米国特殊部隊がアルカイダ指導者のオサマ・ビン・ラディンをイスラマバード近郊で殺害した際、米国はパキスタン政府を信用せず秘密裏に作戦を展開し、パキスタンはこれを「主権侵害」として反発したことに始まる。パキスタンにはインドに対抗する勢力としてイスラム過激派のタリバンを温存したい事情があり、米国への協力を続けられなくなったのだろう。そんな事情でパキスタンから米軍基地が消えても、パキスタンの国防には何ら影響せず、ある意味、米国のヒモ付き援助を捨てて「国家主権」を重んじたと言えるかもしれない。米国が後退すると中国が前に出るのが今の流れで、中国海軍がパキスタンに基地を作るというウワサもあるが、パキスタンはどう対応するのだろうか。

上記を調べる中で、米軍の海外派兵数のデータ(Wikipedia)が見つかった。資料の原典をチェックしてないが、端数まで書かれると信じたくなる。ご参考に駐留米軍の多い国とアジア・大洋州諸国の状況を以下にリストアップする:

主要駐留国 駐留人数
日本 53,660
ドイツ 35,369
韓国 26,045
イタリア 12,645
アフガニスタン 約10,000(非公開)
英国 9,132
イラク 約5,000(非公開)
スペイン 3,607
クウェート 1,816
シリア 約1,000(非公開)
    
アジア・大洋州 駐留人数
フィリピン 305
タイ 303
シンガポール 209
パキスタン 31
インド 22
インドネシア 20
カザフスタン20
マーシャル諸島 19
台湾 10
ニュージーランド

先ず目立つのは断トツに多い在日米軍だが、日・独・伊の3国に米軍の大部隊が駐留している事も気になる。まさか「三国同盟」の再興を怖れているわけではあるまいが、第二次大戦後の占領の痕跡を感じないわけにはゆかない。欧州では、東西冷戦終結から30年近く経過した今も、被占領国(独・伊)の米軍基地を温存してロシアへの睨みを緩めず、アジアでは、在日米軍の役割が日本の占領統治から朝鮮・ベトナム戦争の基地へと変化し、その後も対ソ連、対中国の戦略基地として機能し続けている。米軍は日米地位協定を盾に日本各地で勝手気ままに軍事行動しているが、現政権が「戦後レジームからの脱却」を政治課題に掲げるのであれば、先ずは「占領軍の駐留解消」と「主権回復」から始めるのがスジかと思われる。

日本以外のアジア諸国では、米軍が今も戦争当事者である韓国とアフガニスタンは別にして、米軍基地はナシに等しい。米軍に撤退を求めたフィリピンをはじめ、アジア各国は米国との距離感を保っているが、その分在日米軍の大部隊が重く見える。米軍は日本防衛のために駐留していると勘違いする人もいるらしいが、25万の自衛隊を有する主権国家が自国の防衛を他国に委ねる筈がなく、在日米軍も日本の防衛が任務と思ってはいない筈。その日本が米軍に「思いやり予算」(4180億円)まで付けて全国140か所の基地と施設を提供しているのは、「緊密な同盟関係」の証左として米国の世界戦略への関与を表明したい為だろうが、その米国が「アメリカ・ファースト」を公言してはばからない昨今、在日米軍の存在が日本の安全保障にプラスとは、ますます考え難くなっているのではないだろうか。


フンザの里

フンザは1974年までフンザ藩王が支配していた地域を指す。パキスタンと中国新疆ウイグル自治区を結ぶカラコルムハイウェイの途中にあり、7000m級のパミール高原の山々が迫る辺境で、村や谷は4月になると杏の花でピンク色に埋め尽くされ、「桃源郷」と呼ばれている。ひと山越えれば紛争地帯のアフガニスタンだが、1973年の内戦以降もフンザ観光の客足が途絶えることはなかったという。しかし2001年の米国同時多発テロ以降フンザも危険地帯扱いになり、我々が訪れた2008年には他の旅行者は殆ど見かけず、ホテルはガラ空きで土産物店も大半が閉まっていた。しかし村人は昔ながらの平穏な暮らしをとり戻したようにも見えた。2013年にギルギットで外国人旅行者が襲撃されて9人が殺害される事件もあったが、ようやく今年(2018年)になって日本からフンザへの一般観光ツアーが再開されたのは喜ばしい。

フンザは「伝統の里」とも言われる。昔ながらの暮らしを続けているという意味の他に、フンザの住民が自分たちをアレクザンダー大王東征(前4世紀)で残留した人たちの末裔と信じていることがあるかもしれない。言語分析やDNA鑑定では証明できないようだが、域外の人たちと顔つきや暮らし方に明らかな違いがあり、そのような誇りにつながっているのかもしれない。フンザの谷にはいくつかの異なった種族の集落があって、異種族間の通婚には今も制約があるそうだ。今も結婚相手は親が決め、婿が都市に出稼ぎに出て、時々親元で暮らす嫁のもとに通う一種の通い婚が多いという。それでも婚姻関係が乱れないのは、個人生活を強く律するイスラムの教えが機能しているのだろうか。

我々のガイドはフンザ出身の青年で、暮らしぶりの話を聞いたり、親戚の家などを見せてもらうことが出来た。小生は平素人物写真を撮らないが、パキスタンでは無遠慮にカメラを向けさせてもらった。フンザの人々に限らず、パキスタンの人たちは10人が10人「絵になる顔」をしている。民族的に彫りが深く表情豊かな大きな目のせいもあるが、呆けた顔や下品な顔を見ないのは、パキスタン人の生き方に起因する何かがあるような気がする。

険しい山と森に囲まれたフンザの村。
訪れた家の主人、75歳。
妻(三人目)43歳。
子供たちは老人の孫ではなく実子。夫はあと一人作って打ち止めにすると言っていたが…

聖母子のような親子。

この子はちょっとご機嫌ななめ。
どの子もフンザ美女の候補。
さくらんぼ。

フンザは「長寿の里」とも言われる。その秘密は油を使わない料理にあるようだ。味はマイルドで我々の口に合う。特にジャガイモなどの野菜が美味い。

フンザ伝統料理の一部。長寿の秘密は油を使わない料理にあるらしい。
食事の後、村人が集まって伝統音楽と踊りが始まった。


長谷川記念学校

ヨーロッパアルプスの三大北壁(マッターホルン、アイガー、グランドジョラス)の冬季単独登攀に世界で初めて成功した登山家の長谷川恒夫は、1991年10月にカリマバード裏山のウルタルⅡ峰(7338m)で雪崩に遭い遭難死した。彼の遺族と友人たちの拠金により、カリマバードに長谷川記念学校が設立された。

我々が訪れた2008年当時、幼稚園から高校まで400名余の生徒が英語で教育を受けており、この地方きってのハイレべルの学校とされ、生徒増に応えて増築工事が進んでいた。偶々訪問者の中に長谷川が通った高校(県立神奈川工業高校)の先生だった方がおられ、朝礼で全校生徒を前に印象深い訓話をされた。このようなかたちで日本人とパキスタンの人たちとの絆を深められるのは素晴らしいことである。

長谷川記念学校の正門。背後にウルタルの尾根が見える。
右側に校舎を増築中。
校章に日本・パキスタンの国旗と挑戦の文字。
玄関に掲げられた長谷川の遺影。
始業の鐘をたたく。
始業前のリラックスした時間。
校庭から雪煙を上げるデイランが見える。
朝礼で校庭に整列した生徒たち。
長谷川の母校の元教諭が訓話。左が校長、我々のガイド(右)が通訳を務めた。
高学年の生徒たち。
中学年の生徒。
幼稚園の教室。同年の日本人の子供より大人びている。


Eagle's Nest(鷹ノ巣)

フンザ滞在の最終日、カリマバードから四輪駆動車で山奥の集落を見学した後「鷹ノ巣ホテル」に移動。標高が高くなればなる程山の撮影の楽しさが増す。このホテルは「鷹ノ巣」と名付けただけのことがあり、ラカポシ、デイラン、ゴールデンピークなどの名峰を鳥の目で見ているようだ。

四駆車に分乗、更に奥地に向かう
ウルタル(7388m)を望む展望ポイント。
乾燥した山中にポッカリ現れる緑の集落。
日本の支援で古集落の保存が行われた。
集落の周りに畑。
古い集落で昔ながらの暮らし。
地階に家畜が暮らす。暖房の役に立つという。
「鷹ノ巣」ホテル。
ホテル裏(北側)にフンザピークとレディスフィンガー(貴婦人の指)と呼ばれる岩塔。
東側にスパンテイーク(通称ゴールデンピーク 7027m)。
南に夕暮れ近いラカポシ。
アッ、ラカポシに大雪崩…!

 

何事も無かったようにラカポシが赤く焼ける。
ゴールデンピークも夕暮れの景色に。
翌朝のゴールデンピーク。


ギルギット

フンザの観光を終えてギルギットに移動。1泊して翌朝の国内線でイスラマに戻る予定だが、飛行機が飛ぶかどうかはその日の天候次第で、飛ばなければバスで丸一日走ることになる。幸い我々は朝一番のフライトで飛ぶことが出来た。

ギルギットの人口は21万。高い山に囲まれた盆地で、立地と雰囲気が松本に似ていないこともない。この地方は紀元2世紀頃のカニシカ王の時代に仏教がもたらされた。その後アフガニスタン勢力によってイスラム化されたが、破壊されずに残った仏教遺跡がある。1846年に英国がインド西北部を統合してカシミール王を指名し、王は1947年のパキスタン独立に際してインドへの併合を決めた。これに対してフンザ一帯の住民はパキスタン帰属を主張して反旗を翻し、第一次インドパキスタン戦争(1947~49)が勃発した。ギルギットの有力者ハーンがその中心となってカシミール王を捕縛したが、国連の仲介で停戦となり、その時の暫定停戦ラインが現在のインドとの境界戦(地図では点線)になっている。カシミールの領有を巡って1965~66年に第二次インドパキスタン戦争が再発したが、この時も国連の仲裁で停戦した。その後も両国は東パキスタンの独立を巡って紛争を繰り返し、宿敵関係は遂に核兵器の開発・保有にまで至った。

市民生活でも、隣家との関係がこじれると住み心地が悪くなり、イライラが嵩じて体調をくずしたりして、良いことは何もない。相手の事情を察してさり気なく気を遣い、多少ガマンして平穏に暮らすのがオトナの知恵だが、両方が頑迷老人だったりすると仲裁の入る余地も無くなり、あげくの果てに暴力沙汰になったりする。国際関係も同様で、隣国とは何かと軋轢が起きやすい。日本と韓国の関係もギクシャク度を増しているが、政治家が対立を煽ったりするのは論外で、お互いに感情を昂らせることなくオトナのつきあいを望む。

「鷹ノ巣」から下ってハイウェイに戻る。
崖の上にフンザの集落。
こんな厳しい道も見える。
ギルギット盆地へ。
カラコルムハイウェイ工事の犠牲者慰霊碑。
地上から30mに彫られたカルガーの摩崖仏。像の高さは約5mで、7~8世紀のものとされる。
市内をインダス支流のギルギット川が流れる。
橋のたもとにフンザ老人。
小さな商店。
大麻は合法。露店に山積みして売っている。