98年に初めて中国に出張した折、上海空港で「ウルムチ行きの出発便は・・」というアナウンスが耳に入った。ウルムチ?聞いた事のない奇妙な地名だ。同道した中国に詳しい同僚が「西遊記で妖怪変化が・・」と解説してくれた。いつか行ってみたいと思った。
2000年に夏休みの旅先を探していると、「ウルムチ」があった。開通したばかりの南彊鉄道でタクラマカン砂漠のオアシス都市を訪れ、西端のカラコルム山中まで足を伸ばす10日間のツァーで、早速申し込んだ。真夏に砂漠を見に行くモノズキツァーに客が集まるか気懸りだったが、我々を含めて7人で催行になった。
中国は米国と似ている、と思うことがある。国土の面積がピッタリ同じ。位置する緯度と東西の幅もほぼ同じ(自然環境が似ている)。弱肉強食の競争社会で、商売となると目の色が変わるところも似ているし、中国語と英語の言語構造も意外と近い。歴史は大いに異なるが、「西部開拓」の部分は重なって見えないこともない。
米国は1776年の独立当時から西部開拓を始め、1869年の大陸横断鉄道開通で、ほぼ現在の合衆国のかたちを作りあげた。「開拓者」は無人の荒野に分け入ったのではない。騎兵隊が先住民インディアンを征圧し、その土地を我が物にした白人が再開発に狂奔したのが「西部開拓」の実像。それを誇らしげに映像化した「西部劇」を、我々は少年時代に見た。米国政府は20世紀末になってその不当性を謝罪し、先住民に対して補償を始めたところだ。
中国西域は中央アジア系遊牧民の領域だが、紀元前から漢人進出の痕跡はある。「西遊記」の「妖怪退治」はその劇画化だったのかもしれない。唐の衰退以降はイスラム化した遊牧民の領域に戻り、1955年に新中国の下で新彊ウィグル自治区となったが、北京政府が本気で「西部開拓」に乗り出したのは、1980年代になって西域の砂漠に「石油」が眠っていることが分かり、且つ核兵器の実験場が必要になってからだろう。その証拠に、その頃から建設ラッシュと独立運動の弾圧に拍車がかかった。
米国政府が「西部開拓」に150年遅れで反省の意を表明したのは、国際社会で「善玉」をアピールするジェスチャーだったのかもしれないが、反省しないよりはマシ。パワーだけでは世界のリーダーとして認められないことを、「大国」となった中国も、是非知っておいて欲しいと思う。
ツァー起点のウルムチへは、関空→広州・西寧経由で遠回りをした。国内線の予約が取り難かったらしい。広州からのB757も満席で、「妖怪変化」にいったい何の用が?と不審に思ったが、着いてみると、ウルムチは高層ビルが林立する人口150万の巨大都市。モハベ砂漠にラスベガスが蜃気楼の如く現れた時よりもビックリした。ウルムチが中国版「西部開拓」の中心で、北京政府の躍進政策と一攫千金の漢族殺到で大ブレイク中とは、全く知らなかった。
我々が1泊したのは40階建のラスベガス風ホテル。見かけは豪勢だが急造の安普請で、家具調度がそれ相応なところもべガスに似ている。ウルムチの都市開発には、米国帰りの漢人デベロッパーが噛んだのだろう。高層ビルに囲まれた広場は漢人の朝市や太極拳で賑わい、その猥雑さは上海の裏町と少しも変わらない。そんな場所にウィグル人の姿はない。
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西安から西に向かったシルクロードは、トルファンで天山北路と天山南路に分かれる。前漢の時代から交易地として栄え、移民した漢人が5世紀に高昌国を建てた。インドに向かう途中の玄奘三蔵が高昌王に乞われ、2カ月滞在して厚遇されたが、帰路に礼を述べようとした時は、高昌国は唐に滅ぼされた後だった。
トルファン盆地は海抜ゼロ以下、年間降雨量20mm以下の灼熱地獄。にもかかわらず農業が盛んなのは、天山山脈の雪解け水を地下水道で導き、人工オアシスを作ったから。特にブドウ栽培が盛んで、灼熱地獄を利用した干しブドウは逸品。手掘りの地下水道はカレーズと呼ばれ、総延長が4000kmに及ぶというから、砂漠の民の努力に脱帽するしかない。
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南彊鉄道は84年にトルファン~コルラ間が開通、98年にクチャに伸び、99年12月に終点カシュガルまで1500kmが全線開通した。東はカルク山脈越え、西はタクラマカン砂漠1000km横断の難工事だが、いかにも「西部開拓」らしい突貫工事ぶり。その全区間を1日1往復の長距離列車が走る。1等寝台(軟臥)、食堂車、2等寝台(硬臥)、2等座席車の計25両の長大編成を、国産の強力ディーゼル機関車が単機で引き、所用時間は約26時間。
我々はトルファン→クチャの夜行区間と、クチャ→カシュガルの昼行区間を分けて乗った。軟臥車は日本のB寝台と同等の設備で、二重窓・空調付きだが、ベッドのカーテンはない。硬臥車(2等寝台)は3段ベッドで、初期のB寝台に似ている。座席車の混雑ぶりは、日本の盆暮れの帰省列車を思い出させる。広軌の線路を機関車が引く重量客車は揺れが少なく、乗り心地は良好。レールの継ぎ目が奏でる規則的なリズムに誘われ、グッスリ眠った。
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夜が明けるとクチャに到着。タクラマカン砂漠東北部の人口40万のオアシス都市で、北彊に抜けるシルクロードの支線とのT字路。前漢の亀茲国の時代から栄え、仏教東進の中継地でもあった。唐の崩壊後のイスラム化と、新中国で新彊ウィグル自治区に組み込まれた事はウルムチと同じだが、さすがにここまで来ると圧倒的にウィグル族の世界(11年後の今は知らぬが)。上海から派遣された漢人のガイドに、ウィグル人の通訳がついた。
農貿市場:日本でも人口40万の都市には大きな中央市場があるが、出入りするのは業者だけ。クチャの農貿市場は、中央市場に消費者向けスーパーが一緒になったようなものだから、その雑踏と迫力には圧倒される。
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仏教は紀元前5世紀にインドで始まったが、釈迦が説いたのは難解な「宇宙哲学」で、「ご利益」など全く無かったから、インドで大衆化しなかったのは仕方ない。後世の宗教家たちが「哲学」を現世に生きる知恵に換骨奪胎した「仏教」が、砂漠を越え山を越え、8百年かけて中国西域に届いた。途中でギリシャの色が付いたり、各地の土着宗教と混ざったりすることで、「宗教」としてのパワーは増幅した筈だ。
クチャの周辺には仏教遺跡が多数ある。殆どが痕跡程度にまで崩壊しているが、西方75kmのキジル千仏洞に残された壁画を見ると、この地が外来文化であった仏教のパトロンとなり、多くの宗教画家を抱えていたことが分かる。洞内の塑像類は泥棒とヨーロッパの「探検隊」が持ち去ったが、近年の文化大革命で破壊されたものもある由。しっかり反省して欲しい。
玄奘三蔵より200年前に経典を漢訳したクマーラジーバ(鳩摩羅什)が生まれたのもクチャ。母は亀茲国王の妹、父がインド人という血筋もクチャの人らしい。384年に亀茲国が亡びた際に捕虜になり、涼州から長安へと移され、女犯で還俗してから経典漢訳に取り組んだ。玄奘三蔵の漢訳経典には、クマーラジーバ訳を下敷きにしたと思われる箇所が多く見られる由で、「copy and paste」の始まりだったかもしれない(笑)
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