2007年2月、南米のパタゴニア地方をバスで縦断するツアーに参加した。南半球の季節は日本と逆で、2月は日本の8月にあたる。夏の真っ盛りだが、南緯50度を越える高緯度なので(樺太とほぼ同じ)、旅をするのに程よい気候と言って良い。
パタゴニアは「パタゴンが住む場所」を意味し、この地を探検したマゼランが雪面に残された巨大な足跡を見て、伝説の巨人「パタゴンがいる」と言ったことに発するという(実は先住民が雪上歩行で用いる「かんじき」の足跡だった)。この地域の先住民は、アフリカに発した人類が、アジアからベーリング海峡を渡り、アラスカから北米・中米を経て、12,000年前にたどりついた人たち(18,500年前の説もある)の末裔で、パタゴニアは人類の長い旅路の終点だったのだ。この地域は気候が厳しく経済的な魅力に乏しいので、白人が定住するようになったのは19世紀も後半になってからだった。大半が血気盛んな壮年男子で、あっという間に先住民(女性)と混血が進み、先住民の純血統はほぼ消滅、文化の痕跡も残っていない。
中南米の近代史はヨーロッパ人の粗暴で無秩序な侵略に始まり、その伝統は今も「荒々しい政変」の形で続いているが、冷戦時代の「政変」に米国CIAの謀略的な関与があったと言われる。昨今の「ドンロー主義」とやらもその延長上かもしれないが、トランプ政権の粗野で露骨な関与に唖然とする。相手を脅して屈服させる手法は、彼が生業としてきた「地上げ屋」そのもので、彼はそれを「取引」(Deal)と呼ぶが、正しくは「脅迫・強奪」だろう。その生業で6回「会社更生法」のお世話になり(AIに拠れば内5回がカジノがらみ)、なお且つ「法律を利用して債務を軽減し(踏み倒し)、その都度破産から蘇生した経営手腕は、我ながらスゴイ!」と自慢してきた(だから「ガザ地区の住民を移住させ、跡地に米国がカジノを建てる」などと臆面もなく公言する)。そんな人生の総仕上げで地球規模の地上げに励んでいるが、本気で止める者が現われなければ、「世も末」と思うしかない。


アルゼンチンの首都ブエノスアイレスから国内線で南へ4時間、高度を下げて雲の下に出ると、アンデスの雪の峰々と氷河湖が見えた。パタゴニアの旅の出発点エル・カラファテは人口4千の町で、この地方特産のジャムの原料となる植物「カラファテ」からその名をとった。

太平洋を渡って湿気を吸った空気がアンデス山脈にぶつかって大量の雪を降らせ、氷河になって斜面を下る。ヒマラヤやアルプスの氷河の移動は1年に数mだが、降雪量が多く気温が高いアンデスの氷河は1日に2m流れ、末端に押し出されて頻繁に崩落を起こす。その様子をペリト・モレノ氷河の展望台から間近に眺めることができる。
![]() 展望台のすぐ近くまで氷河が迫る |
![]() ほぼ10分毎に崩落が起きる |
![]() 氷河の上を歩くツアー |
![]() 氷河の氷でオンザロック |

エル・カラファテからバスで北へ走ると、行く手に怪異な岩峰群が現われる。中でも威容を誇るのがフィッツ・ロイ(標高3405m)で、この旅の目的の半分はこの岩峰の写真を撮ることだった(いきさつはパタゴニア-1に記した)。
「フィッツ・ロイ」はダーウィンを乗せたビーグル号船長のロバート・フィッツロイからとった英語名で、現地名の「チャルテン」は「煙を吐く」を意味する。常に雲をまとって滅多に姿を見せないからだが、我々一行はよほど日頃の行いが良かったのか、麓の「エル・チャルテン村」に滞在した2泊3日の間ほぼ晴れが続き、時々刻々変化する岩峰の姿を存分に撮ることができた。

パタゴニアはアルゼンチンとチリの2国に跨る。我々のツアーはアルゼンチン→チリ→アルゼンチンと国境を2度通過し、その都度バスを乗り換えた。隣り合った国が不仲なのはよくある話で、この両国も例外でなく、国境争いで一発触発の場面が何度もあった。突端の部分は1983年にローマ法王の調停で境界線が引かれたが、山岳地帯には今も境界不明の箇所が残っている。
氷河とフィッツロイの観光を終え、国境を越えてチリ側のトレス・デル・パイネに向かう。この記事を書くにあたり、経路を確認しようとGoogle地図を調べたが、国境越えの道路がない。場所の見当をつけて拡大すると、細い線が現れた。我々が通ったのは「農道」クラスの田舎道だったが、境界の両側に検問所と兵営らしき建物があり、境界の両側2kmが緩衝地帯になっていた。見通しのよい草原に家屋はもちろん農地も牧場もなく、軍事行動を起こせば丸見えだが、ミサイルなどの「飛び道具」は防げない。

国境を越えて西へ1時間、トレス・デル・パイネ国立公園に入る。埼玉県の半分ほどの面積(1800平方km)に花崗岩の岩峰群と湖、森林がぎゅっと詰まった自然公園だが、アクセスが悪く宿泊施設も限られている。その不便さがブレーキになり、訪れる観光客は1日平均300名程度で、結果的に自然保護になっている。公園内の道路も未舗装の悪路で、これも野生動物との共生にプラスだろう。観光開発で大量の客を呼び込むのが世の常だが、賑わいのない自然公園を守り続けるのも良き文化ではないか。
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「ガウチョ」=牛飼い(カウボーイ)と思い込んでいたが、スペイン人と先住民の混血で、スペイン軍の兵士として雇われて先住民の制圧に武勇を発揮した人たちを指すようだ。その役目を終えたガウチョが、この地方で盛んになった羊毛業の羊飼いに転じたという。その一人が野外トイレ休憩で停まったバスの脇をカッコよく通り抜けた。

子羊をひらいて熾火で燻し焼きする「アサード」は、ガウチョの食文化を起源とする。アサードを焼く職人は「いなせな若者の仕事」として人気があるという。

1914年にパナマ運河が開通するまで、マゼラン海峡が大西洋と太平洋を結ぶ重要な航路として使われた。海峡の中央部に位置するプンタ・アレーナスは寄港地として栄え、旧市街に当時の雰囲気が残っている。その頃に後背地の草原で始まった羊毛業が世界有数のレベルに発展し、今もその取引センターとして10万を超える人口を擁している。
パナマ運河の開通後も、混雑と通過料を避けて南回りする船舶が少なくないが、年間を通して強風が吹き岩礁も多いマゼラン海峡を避け、南端のホーン岬を大回りする。海運の要地としての役割を終えたプンタ・アレーナスは、南極大陸に近い空港として南極航空便の発着基地になり、各国の観測隊の補給や極地観光で利用されている。

ペンギンは「南半球に生息する飛べない鳥」の総称で、18種類いるといわれる。マゼランペンギンは、その名のとおりマゼラン海峡の周辺でコロニーを作って繁殖する中型のペンギンで、ペンギンには不似合いな草原の穴で営巣する。
地ネズミや野ウサギが掘った穴を借用するのかと思ったら、オスが短い脚と嘴で掘るらしい。えさ取りで海岸まで数kmをヨチヨチ歩きで通勤するのも、何ともご苦労なことだが、それがこの種にとって最適な生き方なのだろう。

再び国境を越えてアルゼンチン側のウスアイアへ。南緯54度48分のウスアイアは「世界最南端の町」を名乗り、「地球の果て」(Fin del Mundo)を観光のキャッチフレーズにしている。ビーグル水道の南側のチリ領の島にも人が住んでいるが、「オレの方が…」と目くじらを立てないのは、チリの方がアルゼンチンよりちょっとオトナなのかもしれない。
「地球の果て」にヨーロッパ人の町が出来たのにはワケがある。1873年にアルゼンチンがこの地域の領有権を確立する目的で、重罪人(主に政治犯)の流刑地にする決定を下した。1896年に最初の囚人が送り込まれ、以来半世紀にわたって囚人が周辺の森から木材が切り出して収容所を築き、それがウスアイアの基になった。監獄は1947年に閉鎖され、囚人は北部の監獄に移されたので、現在の住民が重罪人の子孫というわけではない。
北半球の北緯54度にはグラスゴー、エディンバラ、コペンハーゲン、モスクワなど大都市がある。人間が十分に文化的に暮らせる緯度で、将来の人口増加次第で南半球の「果て」にも大都市が出来るかもしれないが、その前に人類が自滅するのではないか。

ウスアイア最大の観光資源である「地球の果て鉄道」(El Tren del Fin del Mundo)は、囚人によって建設された人員輸送・木材搬出用の森林鉄道を復活させたもの。オモチャのような蒸気機関車が小型客車を引っ張って走る40分の旅は、鉄道ファンでなくても楽しい。終点は国立公園内にあり、ビーバーが作ったダムや、警戒心の薄い野うさぎをまじかに見ることができる。アラスカから延々と17,848km続くパン・アメリカン・ハイウェイの終点標識があるのも、いかにも「地球の果て」らしい。

パタゴニアの旅の最後は、ビーグル水道に点在する小島に棲息する海鳥や海獣を見るショートクルーズだった。ビークル水道はチリとの国境線でもあり、両国に紛争が起きればクルーズどころではなくなる。仲良くしてもらいたいものだ。







