「コルチナ・ダンペッツオ」という憶えにくい地名が頭にこびりついていたのは、小生が中学2年生だった1956年、コルチナ・ダンペッツオで開催された冬季オリンピックで、猪谷千春選手が男子回転競技で銀メダルを取り、そのニュース映画を学校行事で見に行き(テレビはまだ普及していなかった)、全員で拍手喝采したからだ。この銀メダルに日本中が湧き立った。敗戦に打ちひしがれ、白人コンプレックスに陥った日本人に再起のパワーを与えたという点で、戦後間もない1949年にノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士の快挙と共に、強いインパクトだった。
当時の猪谷選手は米国の名門校ダートマス大学に留学中で、米国のゲレンデで猛練磨した結果の銀メダルだった。湯川博士も戦前に米国プリンストン高等研究所とコロンビア大学で研究を積み、その成果がノーベル賞になった。二人の活躍で、日本人は米国の豊かさと包容力を実感し、敵国だった米国への民族感情を中和する効果も生んだ。
1956年コルチナ・ダンペッツオ冬季大会の日本選手団は、選手10名、役員7名のコンパクトな陣容だった。その8年後の1964年に東京大会、1972年に札幌冬季開会を開催し、オリンピックが「国威高揚」の役割を果たした。「世界第2位の経済大国」と言われれば「オリンピックでもっと勝てる筈」の圧力が生じ、出場選手に「日の丸を背負って…」の悲壮感が漂った。
今回のミラノ・コルチナ大会で日本は予想を上回るメダルを獲得したが、選手たちに「日の丸軍団」の気負いは見られなかった。「競技を楽しんで、結果が出れば嬉しい」と笑顔で語り、敗けても相手を祝福して喜び合う姿が印象的で、特に「空中ワザ」を競う若い選手にその傾向が顕著だった。彼等の多くは海外に拠点を移し、外国人のコーチ・トレーナーにつき、日常的に外国選手と競い合って新しいワザを編み出している。そんな彼等のアタマに「日本人として…」の意識はないだろう。
やみくもにガンバっても、疲れるだけで良い結果は出ない。何事も「焦り・りきみ」はマイナスに働くのだ。総監督は「成長のスイッチを押して押して押しまくる」と啖呵を切ったが、やみくもに成長を追い求める政策は、格差を拡げ、社会の歪みを拡大し、更に疲弊するだけ。挑戦するワザをしっかりイメージし、練習方法を考え、何をガマンし何を犠牲にするか熟慮し、外国の力も借り、体を作り、ワザを磨き、一喜一憂せず、しぶとく前に進み続ければ、勝てるチャンスが拡がる。そう、政府も国民も、若いアスリートたちがやっていることを、見習うべきではないか。
2004年と2010年の旅で、2026冬季オリンピックの会場になったミラノ、ベローナ、コルチナ・ダンペッツオを訪れていた(正確には「かすめた」だが)。本稿は旅レポート(北イタリア、ドロミテ)から選んだ写真で再構成した。

小生はパリの凱旋門を見たことがないが、似ている。それも当然で、両方共ナポレオンが自身の戦勝を祝うために建設を命じたもの。彼は完成を見る前に失脚し、代わって統治者になったオーストリア・ハプスブルク家が1838年に完成させた。凱旋された側のイタリア人に鬱屈した気分が残りそうだが、領主が入れ替わるのはヨーロッパの常で、今もわだかまりなく「平和の門」(Arco della Pace)と呼び、今回のオリンピックで聖火(平和の象徴)の設置場所に選んだ。
第二次大戦時、主要工業都市だったミラノは連合軍の集中的な空襲を受け、徹底的に破壊された。戦後の復興にあたり、瓦礫を掘り起こして可能な限り再利用し、壁の割れ目まで戦前の姿そのままに再建した。同様の話はドイツ、ポーランド、英国でも聞いた。ヨーロッパ人の執拗なまでの「歴史継承」の精神は、「過去は水に流す」を流儀としてきた民族の理解を越える。
この写真を撮ったのは22年前だが、最近のTV番組でも同型の電車が走っていた。AIによれば、この車両は1920年代に製造され、100年後の今も新車に交じって日常運用されている(保存車両の特別運行ではない)。
ミラノ中心部の大聖堂(ドウーモ)と王宮に囲まれた17,000平方mのドウーモ広場(Piazza del Duomo)は、東京の丸の内駅前広場より少し狭いのだが、ミラノの方が「広場らしさ」を感じさせるのは、取り囲む建物の貫禄に拠るのだろう。
広場に立つ騎馬像はヴィットリオ・エマヌエーレ2世(在位1861-1878)で、北イタリアを拠点にイタリアを統一し、初代イタリア王になった。歴史オンチの小生、イタリアを古い国と思い込んでいたが、19世紀後半(明治維新の頃)に成立した新しい国なのだ。
1386年から500年をかけて完成した世界最大級のゴシック建築で、設計にレオナルド・ダ・ヴィンチが係わり、ナポレオンが完成させた。第二次大戦で連合軍が爆撃を避け、破壊を免れた。135本の尖塔に聖人が立つ精緻な外観に息を呑むが、堂内の高い天井とステンドグラスに囲まれた壮麗な大空間にも圧倒される。
米国ダラスにガレリア(Galleria)なる高級ショッピングモールがあった。米国が発祥と思っていたが、ミラノのガレリアが元祖と知った。ガレリアは「トンネルのような通路」を意味し、1877年にミラノのドウーモ広場に開設された世界初の屋根付き商店街が「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア」と命名され、以来「ガレリア=高級」のイメージが定着し、あちこちの商店街や商品が「ガレリア」を冠するようになった。
ドウーモ広場からガレリアを抜け、スカラ座前の広場に出たところに、レオナルド・ダヴィンチの像がある。何をやっても優れた才能を発揮する天才が稀にいるが、ダヴィンチは桁外れで、Wikipediaの記述を借りれば(以下引用)、芸術家でありながら博学者、科学者、占星術師としての一面も持ち、更に、鏡文字、音楽、建築、料理、美学、数学、幾何学、会計学、生理学、組織学、解剖学、美術解剖学、人体解剖学、動物解剖学、植物解剖学、博物学、動物学、植物学、鉱物学、天文学、気象学、地質学、地理学、物理学、化学、光学、力学、工学、流体力学、水理学、空気力学、飛行力学、飛行機の安定、航空力学、航空工学、自動車工学、材料工学、土木工学、軍事工学、潜水服などの分野に顕著な業績と手稿を残した(引用終り)。それも今から600年も前の、コロンブスが新大陸を発見した時代(日本では戦国時代)だった。ダヴィンチの飛びぬけた才能に、改めて驚く。
ダヴィンチ像の下の4人は弟子で、一人は生活のパートナーでもあったという(超天才の遺伝子を継ぐ子孫はいなかった)。
ミラノからベネツィアへ移動の途中、ヴェローナの円形闘技場(コロッセオ)に立ち寄った。円形闘技場=ローマと思い込んでいたが、ヴェローナの方が少し前の紀元ゼロ年前後に完成していた。用途は同じで、ローマ時代は剣闘士同士の死闘や猛獣との死闘の興行が行われ、中世は異教徒の公開火刑場になった。人間を殺傷する現場を大衆相手の見世物にするのは、現代人のセンスでは考えられないが、戦争の狂気が生じれば再現しないとも限らない。
コロッセオは音響が非常に優れ、バックスタンドでステージの息遣いが聞こえるという。16,000人の収容力を活かして夏の野外オペラ会場に使われるようになり、今回のオリンピックで閉会式場になった。これからも平和な用途であり続けてほしい。

ドロミテに向かう途中で「Cortina d'Ampezzo」の道標を見て、背筋に電気が走った。巻頭に書いた1956年冬季オリンピックの開催地が、ここだったのだ! 残念ながら先を急ぐ事情があり(ホテルのチェックイン制限)、道路脇に車を止めて写真を1枚撮っただけで通り過ぎた。コルチナ・ダンペッツオは今回のオリンピックでも第2会場の役目を担ったが、見てのとおり、人口5,800人(白馬村の半分)の小さな村なのだ。

南チロルにはドロミテ特有のマグネシウム性石灰岩の岩山に囲まれた「絵にかいたような」美しい村があちこちにある。コルチナ・ダンペッツオは写真1枚で通り過ぎたが、前日に泊まったサンタ・クリスチナで、早起きして朝食前に近くの村で早朝の風景を撮った。
カーナビのない時代で、どの村を撮ったか不確かだったが、この記事を書くにあたってAI画像検索し、ヴァル・ガルデーナ谷のセルヴァ村と確認できた。人口2600人の村は、この地域独特のラディン語を母語とし、伝統の木彫り細工と観光業で成り立っているという。今回オリンピックのノルディック競技会場に近いので、さぞ賑わったことだろうが、場違いな高層ホテルなど建てずに、昔のままの桃源郷を守ったに違いない。

コルチナ・ダンペッツオから山道を1時間走ると、「絵にかいたような」湖の景色が現われた。1956年オリンピックでスケート競技会場になったミズリーナ湖だ。この時のスケート競技に参加した日本選手はスピード競技の5人で、最高位は11位だった。フィギュア競技には出場していない。
スケート競技が屋外リンクで行われたのは、この大会が最後になった。屋外リンクは天候に左右され、氷の整備に手がかかり、氷の状態で競技者に不公平が生じやすいが、スポーツは本来屋外で楽しむのがスジで、スケートも例外ではない。当時の記録写真(右)をネットから拝借した。この景色の中で「りくりゅうペア」が舞うのを見たいと思う。