本稿は2007年2月に訪れ、帰国直後の3月に掲載したパタゴニア・ツアー記事の焼き直しである。「また焼き直しか」と言われそうだが、そう頻繁に旅に出られるわけがなく、ネタ切れを埋める策として、昔の記事に写真を追加してその後思いついたことを書き加え、お色直し(画面デザイン更新)で再登場させていただく次第。パタゴニアの旅行記は続編に譲り、本稿では旅の起点ブエノスアイレスと寄り道したアコンカグアを再録する。
話はそれるが、JICAシニアボランテイアでアルゼンチンに派遣された人の帰国報告を聞くと、仕事でフラストレーションを感じた人が多いようだ。派遣目的が経営指導(改善活動)のケースでは、「マジメに話は聞くが、活動を持続できず、自発的に活動を展開しないので、効果が出ない」らしい。発展途上国に「会社員OB」を派遣する目的は、日本の高度成長の「成功体験」伝授と言ってよいだろう。敗戦から立ち上がって世界第2位の経済大国にのし上がった日本は、さまざまな工夫をこらして優秀な工業製品を生み出し、高い品質とリーズナブルな価格で世界を席捲した。その成功のノウハウを教えて欲しいと言われれば、悪い気はしない。そんなわけで、国の予算で指導員を派遣する制度が1990年に発足した(小生も2004年から2年間バヌアツ共和国で活動)。
指導員のフラストレーションはアルゼンチンに限らず、成果が出ずに「空振り」のケースが少なくない。特にアルゼンチンで落胆が目立つのは、この国の西欧先進国的な風貌と実態とのギャップが大きい為かもしれない。小生はバヌアツでビジネス研修の立ち上げを支援したが、首都を一歩出れば素裸で暮らす自給自足の国でビジネスの話は絵に描いたモチで、即効は期待できないと分かっていれば、それなりに活動のしようはある。一方、首都ブエノスアイレスが「南米のパリ」と呼ばれるアルゼンチンでは、「クロウトの話が通じる」と思い込んでもムリはなく、それだけに空振りがガックリくるのだろう。
植民地時代と独立期の動乱の歴史はさておき、独立以降の経済状況を追ってみると、19世紀後半に農業国として発展し、世界第5位の富裕国になって「南米のパリ」も出現した。しかし1929年の世界恐慌から再起できぬまま時が過ぎ、民政の行き詰まりと軍事政権の失政が繰り返されて国家財政が破綻し、債務不履行が1951年、1956年、1982年、1989年、2001年、2014年と度重なった。「借金踏み倒し」常習犯に産業振興の投資など起こる筈がなく、タコが自分の足を食う状態から抜け出せない。国民は頑張っても先の展望が開けず、「食えればOK」とその日暮らしに慣れてしまう。そんな環境で「日本の成功体験」を聞いても、自分の行動にはつながらない。ちなみに国連の世界幸福度報告2018によればアルゼンチンは156ヵ国中29位で、日本は54位。「これでイイのだ!」と言われれば、「そうかもね」と言うしかない。
相手に「成功体験」が伝わらないと「国民性の違い」(優劣)と思いがちだが、そもそも「成功体験の海外展開」は思い上がりかもしれない。日本が世界市場で「成功」したのは、欧米の衰退とアジア諸国の未成熟が重なった1965年頃からせいぜい25年の話で、その間日本は大いに頑張って優れた製品を世界に送り出し、世界第2の経済大国にのし上がったが、その成功は「その時日本で」起きた「事象」であって、時と場を超えた「法則」ではない。その証拠に、直後の「失われた30年」で自身の「成功体験」が活きたとは思えないし、昨今は日本を代表する企業から政府までゴマカシの常習犯。アルゼンチンが日本の30年前の「成功体験」のマネを出来ないからと言って、見下せる立場にはない。
先人の成功体験を学ぶことがムダというわけではない。日本の成功のカギとしてもてはやされた「カイゼン」は、米国の軍事産業が大戦中に確立した「標準化」が起源とされる。「標準化」は、非熟練作業者でも高度な作業を完璧に遂行できるように諸手順を構築、生産性と信頼性を両立させるプロセスで、大戦末期の2年間に4千機のB29爆撃機を生産するなど、世界最強の工業国の地位を確固たるものにした。だがその地位は長く続かず(国策・税金で守られた軍事産業は別として)、日本の台頭を許すことになる。
「標準化」は専門家が綿密に手順を構築して、作業者はその手順を厳守することが前提だが、日本はそれを「カイゼン」に換骨奪胎し、現場作業者を手順の改善に参画させることで、高品質の工業製品を低価格で世界に送り出す原動力にした。「カイゼン」のコンセプトをマネジメント全般に拡大して、国際規格化を目指したのが「ISO-9001」だが、期待したほど普及しないのは、万国共通の「成功の定型化」が存立し難い証左かもしれない。先人の成功体験は参考になっても、マネすれば成功するわけではない。自分の知恵と工夫で新たな価値を生み出すことが「自由経済」の原動力で、定型化は陳腐化の出発点にもなる。
閑話休題。アルゼンチンが経済破綻から再起できないのは、政治の不安定が最大の要因だろう。だが政治が安定(政権がが長続き)している国で万事がうまく行っているわけでもない。アルゼンチンの政治の不安定は、この国の「文化」の一部のような気もする。このままではジリ貧かもしれないが、国民がその気になって打開するしか道はなく、よその国の「成功体験」がヒントの一つにでもなれば、教えた甲斐があったと思ってよいではないか。
アルゼンチンの首都ブエノスアイレス(以下ブエノスと略す)は地球の真裏で、成田から米国経由で丸二日かかる。今回は経由地のデトロイトで入国審査に2時間余を要し、マイアミへの乗継便に飛び乗ったものの、荷物のチェックインが間に合わず生き別れになった。復路でもマイアミで入国審査に時間を食って乗り継ぎ便を逃し、帰国が1日遅れた。添乗員の奮闘と旅なれたツアーメイトの和やかな雰囲気に救われて楽しい旅行になったものの、米国のテロ対策は常軌を逸している。米国がテロリストに狙われるのは、米国が彼等の母国で戦争当事国になっているからで、米国が海外で戦争をやめない限りテロの根絶は望めない。日本が米国の戦争の片棒を担いだら、同じ目に遭うことも間違いない。
早朝ブエノスに着くとダウンタウンに走り、下着ショップの開店を待って飛び込んだ。生き別れになった荷物といつどこで出会えるか分からないので、とりあえず3日分を買い込み、代金を保険求償するので領収書をしっかりもらうように、添乗員から指示が出た。下着屋からドラッグストアに移動して化粧品も調達(今回も大半が女性客)。緊急ショッピングを終えて市中心部の公園でちょっとひと息つく。海外旅行に「想定外」はつきもので、こんなピンチを面白がるのも「旅上手」と言えるかもしれない。
国内線用の空港はラプラタ川の河畔にある。ターミナルの屋上から見えるラプラタ川は泥水に濁った海のようで、対岸40㎞先のウルグアイは見えない。明治時代に日本に来たヨーロッパ人が「日本の川は川ではない、滝だ」と言った。彼等にとって「川」は幅広くゆったりと流れるもので、日本のせわしない奔流は「滝」に見えたのだろう。ラプラタ川を見てそのことを思い出した。
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ブエノスから国内線で西へ2時間、アンデスの麓のメンドーサに飛ぶ。アルゼンチンはワイン生産量で世界第4位で、その7割をメンドーサ地方が産出する。アンデスに遮られた偏西風が東麓のこの地方に適度の乾燥気候をもたらし、良質のブドウが優れたワインを醸す。この地方産のワインの多くはアンデスを越えてチリに運ばれ、瓶詰されてチリワインのラベルが貼られるという。味はともかく、ブランド力でチリワインの後塵を拝しているらしい。
ワイナリーを見学してバスに戻り、山中の宿場町ウスパジャータの宿にたどり着いたの午後8時。成田を出て既に丸2日が経ち、熱いシャワー、皿に盛られた食事と平らなベッドの有難さが身にしみる。
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アコンカグアに登りに行ったわけではない。三浦雄一郎氏が撤退を余儀なくされた如く、気楽に登れる山ではない。標高6962mは南北アメリカの最高峰且つ西半球の最高峰で、ヒマラヤ以外では世界最高峰なのだ。登攀技術的にはそれほど難しい箇所はなく、1968年に植村直己が「日帰りで登った」という逸話もあるが、高山病のリスクに加え、ビエンド・ブランコ(白い嵐)と呼ばれる悪天候で行動困難に陥ることが多く、登頂成功率は3割程度という。
そのアコンカグアを眺めるために、パタゴニア・ツアーの冒頭3日間を割き、アコンカグアの麓まで2000㎞の寄り道をした。それだけに晴れて欲しいのだが、太平洋岸から100㎞のアコンカグアは偏西風の影響をまともに受けて、天候は気まぐれ。天気図では低気圧が波状的に襲来中で、晴れ男・晴れ女の念力に頼るしかない。
ウスパジャータから西へ、整備された国道を走る。この道路はパナマ運河の高い通行料を避けるための「陸の航路」で、アンデス越えの大型トラックの輸送路になっている。このルートには19世紀末に延長248㎞、標高差2450mの「アンデス横断鉄道」が敷かれ、急勾配用の特殊な電気機関車が貨物列車を引いていたが、1984年に線路の崩壊が起きて運航休止になったままで、線路や設備の荒廃が進んでいる。我々が訪れた2007年には、石油高騰や環境保全から鉄道再建工事が近く始まると聞いていたが、今もその気配は無いようだ。国際列車の窓からアコンカグアを眺める「鉄チャンツアー」を期待していたが、その夢はかないそうもない。
ガイドが国立公園事務所に何度も電話して空模様の変化を聞き、途中の観光スポットで時間調整しながら展望ポイントにバスを進め、駐車場に入ると舞台の緞帳が上がるように雲が上がり、アコンカグアが全姿を現した。20分ほどの「写真タイム」が終わると同時に緞帳が下りた。この時以来、自分が「奇跡の晴れ男」と信じている。
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余談になるが、スーパー添乗員のことを書いておきたい。海外ツアーではしばしば想定外のアクシデントが起き、添乗員の気転や危機管理能力が旅の思い出を左右する。我々は概して「添乗員運」は良いと思っているが、パタゴニア・ツアーを引率した添乗員には「スーパー」を冠したい。気転の1例を掲げると、我々はデトロイトで荷物と生き別れになった。通常の処置は、荷物の現在地を確認→「後便で送れ」でOKだが、彼は別の航空会社でチリのサンチャゴに転送するように交渉し、国境越えの陸路で(我々がアコンカグア見物で走ったルート)メンドーサに回送させた。リスクが増えそうな気もするが、「アル航空は全くあてにならないが、チリ航空は引き受けたら必ずやる」という。おかげで1日遅れで荷物と再会できた。完璧なスペイン語について尋ねると、米国テキサスの大学でスペイン語で経営学の学位をとったという。その後同僚だった添乗員から仄聞したところでは、スーパー氏は添乗員を辞めてどこかの温泉旅館に婿入りした由。探して泊まってみたい気もする。
今回のツアーにはブエノスで宿泊の予定がなく、往復の飛行機の乗り継ぎ時間で市内の要所を観光することになっていた。「南米のパリ」にしては軽い扱いだが、都市観光には興味がなさそうな「秘境ツアー客」に合わせた旅程なのだろう。それも往路は緊急ショッピングでつぶれ、復路もウスアイアからのフライトが悪天候で大幅に遅れ、ブエノスに着いたのは午後4時。帰国便チェックインまでの3時間で1ヶ所だけ見学することになり、「タンゴ発祥の下町」と「レコレータ墓地」のチョイスで、客が選んだのは「墓地」の方。地球裏側の「南米のパリ」まで行って墓を見て帰ってきたわけだが、日本にも高野山奥之院や泉岳寺の赤穂浪士墓など、わざわざ見に行く墓がないわけではない。
レコレータ墓地は驚くべきものだった。高級住宅街地の一画の墓地は、1880年にブエノスが首都に定められて「高度成長」が始まった1882年に開設されたもの。歴史と立地、敷地の広さは東京の青山墓地と似ている(青山霊園は明治5年(1872)開設、敷地面積26万平米、使用者1万5千、埋葬者12万体)。敷地内に整然と立ち並ぶ6,400基の納骨室は「墓」というより「石造り一戸建」で、「住める人」は当然ながら名家・名士に限られる。
中でも訪問者が絶えない「人気墓」はファン・ペロンとその妻エバ・ペロンの墓という。二人の墓が別々なのは、妻が先に亡くなって夫が再婚したからか、夫妻別墓が習慣なのかは知らない。ファン・ペロンは3度大統領に選ばれた。最初は1946~1952で、大戦後の国民主義的意識の高まりの中で「青年将校」のペロンが勝利、大戦時の農産物輸出で貯め込んだ外貨を使って工業化・国有化を進め、労働者保護にも力を入れて熱狂的な支持を得たが、妻エバの人気に支えられた面もあったらしい。エバは不遇の身から女優になり、大統領夫人に登り詰めた人物で、その数奇な生涯は、映画・ミュージカルの「エピータ」で今に伝えられている。2期目のペロン政権は金を使い果たした上に、エバの若死(33歳)も重なって人気が去り、軍事保守派のクーデターで亡命。その軍事政権も行き詰まり、亡命先から戻ったペロンが3度目の政権に就くが、1974年に病死。後妻で副大統領のイザベル・ペロンが世界初の女性大統領に昇格したが、1976年のクーデターで失脚。その軍事政権も行き詰まり、国民の不満を逸らす目的でフォークランド戦争(1982年)を起こした。
上記はアルゼンチンの政変劇のほんの一端にすぎず、本稿冒頭で書いたように、日常化した「政治の不安定」はこの国の文化の一部と思わざるをえない。政権が「民意」を保つための「ばらまき政策」で野放図な借金財政に走り、債務不履行が繰り返された。最近の国家債務のデータを調べたら、2017年はGDPの57.6%で世界77番目。「まあまあ優良」はちょっと意外だが、「借りたくても貸してもらえない」のかもしれない。とはいえ、ダントツ1位の借金大国日本の237.6%に比べれば「傷は浅い」(ちなみに第2位はECを追い出されかけたギリシャの181%)。日本の信じがたい巨大財政赤字も、アルゼンチン同様に「民意(票)を保つための盛大なバラマキ」の結果で、これも「民主主義の落とし穴」かもしれない。歴史を振り返ると、穴の底で待ち構える魔物は「ファシズム」の可能性が高い。要注意ですゾ!
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