改めて書くまでもないが、「米国」の正式国名は「United States of America」。敢えて遂語和訳すれば「アメリカという場所にある国々の連合体」となろうか。「America」は、1499年〜1502年に新大陸の周辺を航海し、1503年に論文「新大陸」を発表したイタリア人探検家アメリゴ・ヴェスプッチに由来する。(コロンブスが1492年に「発見」したのは、カリブ海のサン・サルバドル島とキューバで、 しかも彼はその場所をインドと思い込んでいたのだから、アメリカの発見者とは言い難い)。その「America」にあって、1781年に連合規約(Article of Confederation and Perpetual Union )に署名した13の「State」が 「Unite」(連合)して成立した国が「United States of America」である。
日本では「United States of America」を「アメリカ合衆国」と表記するが、「State」に「衆」の意味は無いので、「合衆国」ではなく「合州国」と表記するべきとの論があるらしい。しかし、国名の英文表示を遂語和訳で表記するべしというルールはなく、Chinaを「陶磁器国」、Japanを「漆国」とは訳さない。「合衆国」が「民衆による共和制の国」という意味の造語とすれば、それはそれで含蓄のある表記と言えないことはない。
「State」は「主権を持つ国家」を意味し、国家主権に関する事項を総括する筆頭閣僚が「Secretary of State=国務長官」。「United States of America」の「States」は地方自治体の「州」を指すが、夫々の「州」が「主権国家」に近い権能を保持し、大統領を頭とする「連邦政府」の中央集権を極力抑制する理念が、この国名に象徴されていて、建国250年を経た今も、イザという場面で、「民衆による共和制の国」の復元力を発揮させるテコになっているような気がする。
小生が米国に駐在したのは20年以上前だが、会社の業務や日常生活にかかわる法律や制度が「州」毎に異なることに戸惑い、州によって住民の「気質」が大きく違うことにも驚きを覚え、それが「50州雑記帳」を記す動機になった。ビジネスにとって会社設立法や税制の違いは大きなインパクトがあり、人種・性差別に対する規制や労働組合の扱いの微妙な違いにも気を配らねばならず、地理的立地と州法や制度をにらみ合わせて最適の活動拠点を選ぶことになる。個人レベルでも、税制だけでなく、婚姻法や義務教育の学制まで州によって異なるので、自分や家族にとって少しでも好ましく有利な場所で職探しをする。このような地域選択のプロセスを通じて経済活動が分散し、時代のニーズによっても流動するので、日本のように極端な一極集中が固定化することがない。
ユタ州はこの世とも思えぬ荒野の只中にあり、大戦中に日系人強制収容所の大半がこの地に作られた。東部で迫害を受けたモルモン教徒がこの地に定着したのも、「こんな所まで追手は来ない」と考えたからで、ユタ州の開拓はもっぱらモルモン教徒によってなされた。小生はモルモン教徒と働いたことがあるが、超マジメ・超勤勉で、部下としてこれほど信頼できる人たちは少なかった。モルモン教団が創立したブリアム・ヤング大学は米国屈指の名門校で、同大卒の人材と鉱物資源を基盤として発展したハイテク産業(軍事、宇宙開発など)によって、ユタ州は米国で最もビジネスがやりやすく豊かな州と言われ、人口の増加も顕著で、「山間僻地=過疎」とは無縁である。
某国では昨今「地域創生」が叫ばれているが、地方が独自の原資(カネ)を持ち、地方の人材が知恵を競ってビジネスや人を引き付ける仕組みを作らない限り、従来型の陳情とバラマキが繰り返され、安易な(ムダな)公共投資が増えるだけだろう。それを打ち破って真の「地域創生」を起こすには、地域の若い人たちの強い意欲と、それを政治で実現させる草の根レベルの真剣な政治活動が必須だが、「芝居見物」や「うちわ」、あげくの果てに「SMバー」まで政治活動とされる風土では、絶望の方が先に立ってしまいそうだ。(後日の読者へのメモ:2014年10月第2次阿部内閣の改造人事で、任命早々の大臣が政治資金の不適切使用で辞任に追い込まれた。)
Google から借用
ユタはインデイアンの部族名だが、ユゥタァ…と発音すると不気味な響きがある。グレートソルトレイクは、出口がないために塩分が濃縮され、コバルト色の油絵具のような鉱物質の蒼い水をたたえた大きな湖である。湖の周囲は塩が干上がって白茶けた平原で、西は遠くに鋭角の岩山がそびえ、北は木一本ない奇妙な形の島が湖に影を落とし、南は岩山の裾を削った黄緑色の崖の上の精練所から、薄気味悪い煙が静かに上がっている。町の中心にモルモン教本山の大きな伽藍があり、尖塔に金の翼が光っている。東の雪をいただいた岩山のわずかな緑が生気を感じさせるが、全体が浄土とも地獄ともつかぬ、この世のものとも思えない景観だ。
モルモン教は、19世紀はじめにニューヨークでキリスト教を下敷きにして興きた宗派だが、反教会的で、教義に一夫多妻が含まれていたために邪教扱いされ、信者は迫害を受けて西に逃れた。約30年後にロッキー山脈を越えてソルトレイクにたどり着いた時、二代目のリーダーだったブリアム ヤングは神の啓示を得て、この土地に定着を決めたという。言われてみれば、この一帯は映画「十戒」や、イスラエルの死海周辺を彷沸させる景観である。モルモン教本山の見学コースには、教祖が神から経典を受ける場面や、教義をマルチメディアで見せる大規模な展示施設がある。門をくぐると同時に信徒が近寄ってきて、つきっきりで懇切丁寧に説明し、最後に入信を勧める。私は二度見学したが、初めの時はアメリカ人の中年男性が一対一で付き、迫力のある話に押されて、殆ど入信する気にさせられた。二度目は日本人の青年だったが、日本語で宗教を語るのは何か白々しくなって難しいものだと、いささか覚めた気持ちで聞いてしまった。私がソルトレークに行く楽しみはモルモン大聖堂合唱団を聞くことである。200名のアマチュアの信者達だが、世界有数のコーラスと言われるだけに技量も高く、彼等の公開練習や宗教儀式の一部として行われる日曜日朝のコンサートは誠に圧巻である。
ソルトレイクで思い出すのは、78年に偶然立ち寄った日本雑貨屋のことだ。店の奥に小さな印刷所があって、老婦人が一人で活字を拾っているのが見えた。店先では、その人の娘と思われる中年の婦人が、同年輩の客と日系二世特有の言葉で話していた。それから10数年後、ソルトレイクの老婦人が亡くなり、歴史のある日系新聞が廃刊になってしまった、という記事を日本の新聞で読んだ。すり減った旧字体の活字の写真も出ていた。あの雑貨屋がその新聞の発行所だったのだ。昭和初期に創刊され、太平洋戦争中も途絶えることなく続いたという。ソルトレイクには戦時に日系人の強制収容所があったが、読者だった日系一世達は戦後にカリフォルニア等に散り、創刊した人も亡くなられてしまったが、その夫人が遺志を継ぎ、91歳で亡くなられる間際まで活字を拾い続けたという。この老婦人は、移民達にとって「いたこ」のような存在だったのかもしれない。(この項 1994年記)
補綴: 廃刊となったユタ日報の原紙全巻が、長野県松本市立図書館に寄贈されたことを知ったのは2006年のことで、松本市とソルトレイク市が姉妹都市ともその時に知った。これには奇遇がからんでいるので、ここにご紹介したい。
小生は小学6年から中学2年までを松本市で過ごし、中学3年で長野市の中学に転校した。転校先で受け持っていただいた恩師と2006年に半世紀ぶりで再会し、恩師が松本市で「ユタ日報研究会」の世話役をしておられるとお聞きしたのである。ユタ日報は、第二次大戦の時代を敵国で過ごした日系人の生きざまを知る上で貴重な資料で、市民有志が記事を読み込んで再整理する勉強会を行い、その研究結果を毎年刊行する地道な活動が今も続けられている。小生は恩師の推薦をいただき、2007年のユタ日報研究会年次総会で、米国とバヌアツの体験をお話しする機会を得た。
ユタ日報発行者の寺澤国子について、文・上坂冬子、絵・加古里子による絵本「海を渡った日本人 ユタ日報のおばあちゃん 寺澤国子」(瑞雲舎 2004年刊)が見事な紹介をしている。
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バージニア州に駐在していた1985年1月、家族でユタにスキー旅行に出かけた。1週間も職場を空けた罰に、ワシントン日本商工会の役員を務めていた上司から、同会の会報に穴埋め記事を書けと命令され、休暇明けで死ぬほど忙しい中で書きなぐった紙面が見つかったので、OCRで読み込んだものを以下に再録する。長い駄文で上記との重複もあるが、お許しいただきたい。
雪国育ちにしてはあまり熱心でなかったスキーでしたが、前任地(トロント)で子供相手に再開したところ、冬の無聊とアンチ・ゴルフ・麻雀の反動もあってすっかり病みつきになり、今では雪の来襲を待ちこがれ、春の息吹を嘆く天邪鬼ぶりで、同僚友人の顰蹙を買う身となりました。数年来の夢だったロッキーヘのスキー旅行を遂に実現しましたので、そのフィーバーぶりを、稚筆も省みず、読者諸賢に御披露に及ぶ次第です。
さて、御経験の方も多いとは思いますが、ワシントン近在のスキー場は、雪質といえば「東の粉雪」(ガチガチベトベトの別名)、ゲレンデは「もぐら塚」(せいぜい標高数百フィート)、30分待って下り1分、お金ばかり掛かってストレス発散には役立たぬ場合が多いようです(日本のスキー場よりマシとの声もあり)。
一度は本場で滑ってみたい、粉雪をけたてて見たいとの思いがつのり、昨年秋からパンフレット収集や米人スキー狂からの情報集めで次第に気分が盛り上がる一方、一家四人ともなれば4千ドル(円安相場で百万円)の出費。加えて休暇シーズンならざる時期に一週間の休暇申請も大いに気がひけるところ。行くか行かざるべきかハムレットの胸中でしたが、暖冬正月で禁断症状が引金となり、1月24日から7泊8日の大旅行決行となりました。同様の酔狂人は居るもので、同僚のY氏が秘密計画をかぎつけ、結局2家族8名、行先はユタ州 Snow Bird スキー場となりました。ここを選んだ理由は、おいおい文中でふれる事にします。
第0目目。会社を早目に抜け出し、4:30PMダレス空港発、デンバー経由ソルトレーク市行きに塔乗。目的地には現地時間の夜10時すぎに到着(時差2時間)。レンタカーを調達し、濃霧につつまれた市街を抜け、30分程で山間部に入る。夜目にも切り立った岩山が両側から迫って来る谷あいを約15分登りつめ、対向車もなく心細くなりかかったところで、突然一群の灯火が現れる。そこがSnow Bird。時間は夜半を指し、取るものもとりあえずペッドにもぐり込む。
第1目目。まだ暗い内に頭痛で目が覚める。カーテンから覗くと、ゲレンデ整備のトラクターがエンジンをふかして急斜面を行き交うのが見える。やがて薄明るくなると、昨夜右側に迫って見えた壁がスキー場で、洗濯板を立てかけたような垂直の壁にデコボコ(モーグル)がビッチリ張り付いている。これはエライ所に来てしまった、米国第二の難度を誇るスキー場と知っては来たものの、五体満足の帰還あるまじと、痛い頭がカッと熱くなる。家族にはそぶりも見せず起床を促すが、一様にサエない風情。思いあたるにここは標高2,400mの高地で、一同高山病にやられたらしい。部屋はキッチン付きだが、ユタくんだりまで来て炊事をさせては気の毒、と気を使い(本当は断固拒否が真相)、キャフェテリアに出掛けて朝食をすませ、早速ゲレンデに操り出す。
現場に出てみると、先刻ビビッた斜面には確かに手も足も出ないが、初・中級向きゲレンデも多数あるようで、ひとまず安心。大型ロープウエイ(125人乗)1基、ダプルリフト7基で、標高差3,100ft、1,900工一カーに展開する37のスロープをカバー。標高3,400mの山頂から一気に落下する超上級コースから、ホテル脇の「幼児初心者専用」コース。巾2m足らずの岩壁の狭間を抜け落ちるTubeコースから、巾200mの初・中級ゲレンデ。モミの木を縫うが如く滑り抜ける林間コースから、魔のモーグルコースまで、実に多彩。しかも2mを越える「粉」というより無重力の棉毛のようなパウダースノーが全山を覆い、初心者から超上級者まで、全てのスキーヤーが文字通り粉雪をけたてて滑る事が出来る。
ちなみに、大方のスキー場のゲレンデは初級(○印)、中級(□印)、上級(◇印)の三区分だが、ここSnow Birdには更に「要注意」、「危険」の2段階がある。「禁止」でない限り、腕に自信の勇士は前人未踏のコースに命を賭して落下する事も許される。(ただし、途中でスキーの再装着は不可能ゆえ、転ぶ自信のある人はやめた方が身の為)。立ち止って見上げると雪壁の頂点に忽然と人影が現われ、一呼吸ののちに幾何学模様のように正確で美しいS字シュプールを引きながら降下するさまは、まるでスキー映画でも見ているような気分。ワシントン近辺のゲレンデで見られる「七転八倒型」や「帆掛け舟型」は幼児初心者専用ゲレンデでもお目にかかれない。後日スキー講師に聞いたところでは、ここの粉雪ならば、初心者でも3日間ミッチリ講習を受ければ名人に生れ変る由で、小生もこのアドバイスを早く受け入れるぺきだったと後海した次第。
山狭の日暮れは早く、4時にはスキーを脱ぐ。Snow Birdはコンドミニアム4棟とホテル1棟の小じんまりしたリゾートで、日が落ちれば明日に備えて早目に床につく真面目スキーヤーばかり、ネオンやディスコの類は無縁である。良い雰囲気のレストランも数軒あるようだが、我々はソルトレーク市街まで足を伸ばし、中華メシやファミリー・レストランで生きのびる経済政策を貫徹。というのも、今回コロラドを捨ててユタを選んだ理由は大都市に近いこと。コロラドの場合、アスペンやスチームボート等の有名スキー場はデンパーから5〜6時間のドライブが必要だが(資金に余裕のあるむきにはコミューター機利用の手もあるが)、ユタならば、Snow Birdをはじめ主要スキー場は全て市街から1時間圏内にある。洋の東西を問わず、観光地のメシはとびきり高くてウマイか、安くてとびきりマズイかの選択にせまられるのが常で、今回のように1週間の滞在(しかも家族づれ)となると、大都市圏内に宿を定めるのは、ホドホドの予算でマアマアの食生活を維持する上で大きなメリットになる。
第2日目は土曜日。さぞ長蛇の列かと覚悟していたが、リフトの待ち時間はせいぜい2分。前日の足ならしをふまえて、初めてロープウエイで3,400mの山頂に立つ。天侯悪化の前兆が既に山頂に現われ始め、湿気を含んだ冷たい風が次々と霧の塊を押し流して来る。酸素不足の頭痛も消えず、少し体を動かすだけで息切れがしてしまう。頂上からのコースはどれも断崖絶壁だが、一部にコース整備トラクター用の道筋があり、そこは中級者でも降下可能。超上級者は尾根筋を這い松の間を抜け、要注意や危険コースの崖上に出て垂直落下に挑戦する。こちらは中級コースを数百メートル毎に小休止。この間尻の雪を払い、鼻永をすすり眼鏡を拭きつつ、酸棄を補給する(ゼーゼーハーハーの事)。約20分かけて1000メートルの落差を埋めた。体力があればローブウエイのピストン輸送を利用して日に20回の豪快なダウンヒルを楽しめようが、なにせ日頃は階段を十歩と登る事もない体力では、数回の滑りで参ってしまう。
第3日目は酸素不足にも順応したらしくスッキリと日覚めた。午前中のスキーは休んでソルトレイク市に出掛ける。目的はモルモン教本山大聖堂で毎日曜日に公開される400人の大コーラスの参観。これは全国ネットで放映される有名なもので、聖歌隊の技量も一流である。百余年の迫害に酎えて信仰を堅持しつつユタの砂漠にたどりついた信徒の子孫にふさわしく、400人のメンバーは日曜日というのに朝8時のリハーサルから10時の本番終了まで(この他に毎木曜日夜に練習あり)、毎週欠かさず参加するという。世界有数と言われるバイプオルガンも、大聖堂に天上のしらべをただよわせ、この世のものとも思えず、無信心のバチあたりでも、ふと神様の存在を感じかねない雰囲気。演奏のあとは堂外に信徒が待ちうけてツアー案内を申し出ている。我々のグループには北梅道出身という日本人青年が近付き、熱心に誘うので案内をお願いする。立派なビジターセンターが2棟あり、映面、スライド、絵画を駆使してモルモン教開祖の生涯や教義をPRしてくれる。(今回の日本人青年はまだ馴れないのか迫力に欠けていたが、数年前小生が参観した折の中年米人信徒は実に見事なプレゼンテーションで巻き込み、あと一歩で入信を申し入れるところだったが、教義から一夫多妻礼讃を外したと聞き、あやうく踏み留まった経験あり。) モルモン教本山参観のあと、市の西側に拡がる大ソルトレークの湖岸まで足をのばし、海水の8倍という塩辛い湖水を味わってみる。
第4日目はSnow Birdから更に渓谷を1マィル遡ってAltaスキー場に遠征。やや小規梗だが、初・中級ゲレンデのバラエテイはSnow Birdに劣らず、米国ではまだあまり普及していないヘリスキーの拠点にもなっている。予報通り天候が崩れ、気温は-10°Fを割り、雪は絶え間なく降って視界を遮るが、日没まで目一杯頑張る。当初の計面ではSnow Birdを根城に、Park City、Deer Valley等の著名スキー場を渡り歩く目論見だったが、雪質、設備、混雑度共にSnow Birdが抜群との地元の人達の評判を確かめ、還征はAltaだけに留めた。
第5日目は終日構習に参加。30メートル程のスロープを各自最良のフオームで滑らせ、その場で上、中、初級の組別けをする。子供達2人は上級、小生とワイフは中級、と実にナットクがゆき、且ついささか苦々しい判定を受け、各クラス7〜8名に分散。集団講習だが、ゲレンデの隅でチョコチョコ教わるのではなく、最初から最後まで実践一本槍。本日のテーマは「扮雪と遊ぶ」で、リフトを駆使して処女雪を探して滑らせ、その場で一人一人鋭い指摘をしてくれる。一刻も休む余裕なく引きずりまわされ、最後に「本日お前は生まれ変ったのだ」などとお褒めとも慰めともとれるお言葉を頂載した。一日大汗をかいて感じなかったが、記録的寒波の襲来で気温は-15°Fまで低下。1フイートを超える新雪で車を掘り出すのにもう一汗かいた。
第6目目は実質的最終日ゆえ、厳寒をものともせず頂上からの降下に再挑戦。あまりの低温にロープウエイ内では人の吐く息が凍って氷の微粒子がハラハラと肩に舞い落ちる。山頂の体感温度は-50°Fとの事で、寒いというよりジーンと脳髄がしびれ、アゴの筋肉も凍って物を言うにもアワアワ以外の言葉にならず、要するに早く降りよう、と了解するのだが、眼鏡が凍り付いて先が見えぬ。あやまって上級コースに踏み込んでしまい、ジタバタ苦闘する脇を飛鳥の如く舞い下りてゆく黒い影あり。あれは鳥かそれともスーパーマンだったのだろうか。
最後の夜はゲレンデが見えるレストランで全員五体無事を視って乾杯。ユタ州はかって米国のリビアと言われる程飲酒にはウルサイ州だったが、観光立州の為にはモルモンの戒律も少しは曲げざるをえず、今ではどこのレストランでも酒類の調達が可能。ただし入口でミニチュア瓶を買わせるといった程度のイヤガラセは残っているので、呑ん兵衛諸氏は覚悟されたし。
第7日目は午後2時のフライトをつかまえる為、午前中2時間だけ名残の滑りを果たし、長いようで短かった一週聞のスキー旅行に終止符を打った。 ブロスキーヤーの三浦雄一郎氏はエベレストの雪壁で滑落し、死の淵で「人生は夢だ」と考えたそうだが、ほんの1ヶ月足らず前の大旅行が、夢の中の出来事のように思われてならない。まだ死の淵に立った事は無いが、何もかも夢のように薄明りの彼方に消える時がいずれは来るのだろう。とは言え、家計の資金繰りが著しくキツクなった事で、あれは決して夢でも幻でもなかったのを、今毎日のように確かめている。 (この項 1985年記)
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「ザイオン」は旧約聖書に出てくる聖なる丘「シオン」の英語読みで、キリスト教では「天国」を意味する。我々の感覚では、「天国」に緑豊かで花が地に咲き乱れる穏やかな風景が思い浮かぶが、彼等が「天国」と聞くと、シナイ半島の荒涼とした岩山の、我々の目には「地獄」とさえ見える風景をイメージするらしい。
ザイオン国立公園は2度訪れた。最初は1977年夏、ロスアンゼルス長期出張中の4連休に、出張仲間とグランドキャニオン→ザイオン→ラスベガスを回る長距離ドライブをした。ザイオンには昼食に寄っただけだったが、頭上にのしかかる奇岩に圧倒された記憶が強烈で、改めてじっくり訪れたいと思っていた。2007年秋、アリゾナ北部のページに長期滞在中だった長女のキャンピングカーで公園内に2泊して、長年の懸案を果たした。
30年の間に国立公園に変化があった。入園料が3ドル(1車あたり、1週間有効)から15~25ドルに上がり、そのかわり公園内に無料シャトルバスが走るようになった。自分の車にこだわるアメリカ人が、嬉々としてバスを待つ姿は新鮮だ。米国は何でも市場原理かというと、国立公園は例外で、土地はすべて国有地。内務省国立公園局の所管で、公園内の施設(ホテル、レストラン、売店)も国有である。施設の運営は入札で選ばれた民間業者(1公園に1業者)が公定料金でサービスを提供し、売上の一定率を国が召し上げて公園の維持管理に充てる。管理員はレンジャーと呼ばれ、違反者の逮捕権を持つ国家公務員である。日本の国立公園運営よりも、よほど国家管理が徹底していると言える。
オートキャンプ場の利用料金は1車あたり1日20ドル(電気、水道、シャワー使用込み)で、極めてリーズナブル。リタイア後に家を売って大型バスサイズの豪華キャンピングカーを買い、各地のキャンプ場を巡り歩く中高年夫婦が増えているらしい。羨ましい気もするが、連れ合いを亡くしたり病気になって困窮するケースも少なくないという。やはり「住所不定・無職」は具合が悪いものらしい。
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画家は名作を模写して勉強するというが、写真でも似たような気分になることがある。名人の作品と同じ場所でシャッターを押しても、名作にはほど遠い写真しか撮れないものだが、どうしたら名作の感動が再現できるか、機材や技術で工夫を試みることは確かに勉強になる。そんな気分はグータラ写真屋の小生には滅多に起きないが、川口先生のブライス・キャニオンを見て「これを撮らなければ」と思った。
自然写真は、その場所に、その季節に行かないことには始まらない。先生から撮影ポイントと時期を聞き出したが、旅をするのには時間とオカネが要る。ブライス・キャニオンは観光コースから外れた辺鄙な場所にあり、公園内の宿泊施設も少なく、当時北アリゾナに長期滞在中だった長女のキャンピングカーをあてにしたが、仕事の都合で週末だけの旅になり、撮影チャンスは日曜の朝だけ。天気が悪ければカラブリになるが、「晴れ男」の強運がこの時も巡ってきてくれた(作品の出来具合はまた別の話)。
「ブライスキャニオン」は、1875年にモルモン教会からこの地に大工として派遣され、伝道師になったエベニーザ・ブライスに因む。 円形劇場に無数の土柱が林立するユニークな風景は、比較的新しい堆積層が隆起し、最上部に部分的に残った硬い地層が雨傘になって、鉄とマンガンで赤く染まった地層が浸食によって土柱を形成した。触るだけでボロボロ崩れるほど柔らかく、奇景は日々変化して遠からず消滅する。そう思うと今写真に残すことに意味を感ずる。
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