米国の地図をつらつら眺めると、直線の州境が多いことに気付く。その殆どが正南北の経線と正東西の緯度線で、夫々が直角に交わっている。中でもユタ・コロラド・アリゾナ・ニューメキシコの4州は、北緯37度0分0秒、西経109度3分0秒(米国独自のワシントン子午線では西経32度0分0秒)の1点で交差し、その地点は「Four Corners」と呼ばれて知る人ぞ知る観光スポットになっている。
米国の直線直角の州境とは対照的に、日本の県境は例外なく複雑に入り組んでいる。現在の県境は明治22年(1889年)に定められたものらしいが、その元は江戸時代の有力藩の境界線と考えてよいだろう。それらは更に戦国時代の有力武将の縄張りまで遡れるのではないかと思うが、歴史オンチの小生は知識が及ばない。オンチついでに推定すれば、それらの境界線は、越え難い河川や峻嶮な山稜の連なりなど地形的な障害物と一致し、人馬による領地争いが行われた時代の軍事境界線かもしれない。ヨーロッパの国や州の曲がりくねった境界線にも、中世・近世の領地争いの長い歴史が塗り込められていて、今も思い出したように揺れ動くことがある。
歴史の紆余曲折を今に伝える曲がりくねった境界線に比べると、米国の州境は実にあっけらかんで、白地図に定規で直線を引いた事が歴然としている。米国でも先住民(インディアン)の時代は、川や山稜が「なわばり」の境界線として使われた筈だが、白人が入植して先住民の土地を奪取し、サラ地に思うがままの「開拓」を進めた結果、先住民の「なわばり」の痕跡は消え去った。開拓者として進出した白人の間にも新たな「なわばり」は生じた筈だが、政府はおかまいなく直線直角の境界線を引き、開拓者も政府が勝手に引いた線など気にかけなかったに相違ない。
州境について調べようと、毎度お世話になるWikipeidaを検索したら、「米国領土の変遷」(Territorial evolution of the United States)に詳しい図表が載っていた。面倒なので斜め読みしたが、要するに、ある地域の「開拓」が進んで人口が増加すると、自治体として管理可能なサイズに分割し、その境界線を事務的に(地図上に線を引いて)定めたようだ。「Four Corners」周辺では、1861年2月にユタを分割して東側にコロラドを作り、その南のニューメキシコを1863年2月に分割して西側にアリゾナを作った結果、4つの自治体が Four Corners の1点で交わるかたちになった(夫々が州に昇格したのは少し後のことだが)。
米国にも河川や山脈を州境にしたケースがないわけではない。ミシシッピ川は流域11州の州境をなし、且つ米国を大きく東西に分ける境界線にもなっている。東部のポトマック川はメリーランドとバージニアの州境の一部を構成し、南北戦争では北と南を分ける境界線でもあった。アパラチア山脈はテネシーとノースカロライナ、ケンタッキーとバージニアの州境になっている。しかし東部でも直線の州境が圧倒的に多く、米国が「中世」抜きでポンと「近代国家」になった「人工国家」だったことを改めて認識させられる。その「直線性」がこの国を世界最強の国に押し上げるパワーになったが、さすがに200年経ってベクトルを上向きに保持しきれなくなってきたようだ。昨今は「曲がりくねった国」がジワジワとアタマをもたげているが、世界の国々があの「曲がりくねり」を理解し、リーダーとして受け入れるかどうか…
(この項 2014年12月記)
ニューメキシコの州都は宮沢りえ・篠山紀信の写真集で有名になったサンタフェだが、ビジネスの中心はアルバカーキ。私には78年2月のアルバカーキ初出張で、記憶に残っていることが幾つかある。エアラインの規制緩和が始まった時期で、試験的に割引制度が導入され始めていた。私はロスからTWAの早朝半額割引の便に乗ったのだが、切符を買う時に「朝飯が付いていません」と念をおされた。離陸してしばらくすると、スチュアデスが座席番号を確かめながら朝食を配り始め、私の席にはコーヒーだけ置いていった。前の席は窓側がアリ、通路側がナシだったが、しばらくして通路側の人が「オレの朝飯はどうした」と言いだした。スチュアデスが切符を見てフル料金・窓側の座席と確認したが、その客は窓側に先客がいたので通路側に座ったらしい。そうなると窓側の客が朝飯ナシなのに食ってしまったことになる。スチュアデスはこの客に向かって「差額の370ドルを払え」と迫った。しばらく押し問答が続いたが、どう決着したのか今も気になる。多分こんなトラブルが多かったのだろう。その後エアラインの料金体系は全く支離滅裂になったが、どんなむちゃくちゃな割引料金でも、同クラスである限り、メシを始めサービスは平等になったようである。
次に印象に残っているのは、景色がくっきりと見えたこと。着陸体勢に入った機内から見ると、市街の東側背面に茶色の裸の岩山が南北に連綿とつらなり、西側は砂漠の遥か彼方に山脈が見える。私は当時視力1.5だったから、高精細の赤外線偵察写真でも見るように、どこまでもはっきりと見えた。空気が乾燥しきって塵も全くないのだろう。空港ターミナルを出ると空気の肌ざわりが硬く、鉱物質の味がした。高山で湧水を飲むような感じである。冬のカナダの梶棒で殴りつけるような空気とも違う。同じ高地のデンバーの空気とも違う。私の勝手な想像だが、氷河時代の空気はこんなではなかったかと思う。植物がないと空気はこんな味になるのかもしれない。
三つ目は、私がつきあった電話会社の技術者がTVドラマの「マックロード警部」に瓜二つだったこと。このドラマは、西部からニューヨークに派遣された刑事が、都市犯罪を西部劇調にさばくという設定で、小生のお気に入り番組だった。この技師は顔が俳優に似ているだけでなく、ヒラヒラのついた革のカウボーイジャケット、カウボーイハットにブーツまでそっくりそのままの装束で技術局を闇歩するのである。TVドラマの事を話すと、「オレはずっと前からこのスタイルでやってきた。TVがオレの真似をしているんだろう」とのたまわったが、電話会社のカウボーイ氏は奇抜な外見に似合わず堅実な技術者で、小生が売り込んだ通信システムの導入を熱心に推進してくれた。
(この項 1994年9月記。「スチュアデス」は今や死語になった。)
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ホワイトサンズという地名は、小生が会社員になりたての頃(半生記前)、米空軍のミサイル試射場として知った。出張した同僚から白い砂漠の話を聞き、更にこの場所が世界最初の原爆実験(1945年7月16日、広島投下の3週間前)が行われた場所であることも知って興味を持ったが、訪れたのはダラス駐在中の1992年7月である。
テキサス州西端のエルパソから北へ州境を越えて乾燥し切った草原を2時間走り、アラモゴルドの町を見下ろす丘に立つと、山裾に横たわる白い砂のベルトが見える。坂を下って空軍施設(ミサイ試射場)の中を通り(試射中は一時通行止めになる)、右折して公園のゲートで入園料を払い、白い丘の間を縫うように走ると、その先に立派な博物館と休憩施設がある。白い砂漠の正体は石膏の結晶で、近くの山から長い年月をかけて流出し、風に吹き寄せられて堆積したもの。西20KM、南北80KMの純白サラサラの精製食塩の丘を想像してもらえばよい。
崩れやすい白砂の丘を苦労して乗り越え、窪みに入って周囲が白い壁ばかりになると、前後左右の感覚が麻痒して、どちらを向いているのかわからなくなる。こういう無機質の幻想のような景観の中にも、所々にヒョロヒョロした粗い植生があって、僅かな花を求めて蝶が飛んできたり、蜘蛛が巣を張ったり、これを餌にする白い肌のトカゲが走っていたりする。生物は本当にしぶといものだと思い知らされる。
日本の資料に、ホワイトサンズで1945年7月16日(広島原爆投下の3週間前)に世界初の原爆実験が行われたと書いてあった。50年経ったとは言え残留放射能が気がかりで、やっぱり米国人は放射能に鈍感だなあと思ったが、爆心は西北の丘の向こう側だった。トリニティサイトとして保存され、年2回の公開日に立ち入りが可能だったが、今回ネットで調べると、「軍の予算削減で2015年から年1回だけになりました。2015年の公開日は4月4日」とある。トリニティはキリスト教の「三位一体」のことだろうが、何が三位一体なのか理解できない。米国人はどんな気持ちで原爆実験場跡を訪れるのだろうか。
その原爆開発の拠点だった国立研究所があるロスアラモスに別の機会に立ち寄ったことがある。英語で「Middle of nowhere」としか言いようがない荒野の谷間に、工場風のさえない外見の建物が並んでいるだけで、ここが世界最高の頭脳集団を3年間缶詰めにした「秘密基地」だったとは信じ難い。今もヤバイ研究が行われているらしいが、特に立ち入り禁止の地区はなかった。(この項 2014年12月記)
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鍾乳洞は山の中にあるものと思い込んでいたが、大平原の地下にも巨大な鍾乳洞がある。鍾乳洞は石灰岩の地層を炭酸ガスを含んだ水が溶かして空洞を作ったもので、標高1100mのこの場所が数億年前は海底だったことを意味する。エベレスト山頂も昔は海底だったのだから改めて驚くこともないが、地球の生態は知れば知るほど面白い。訪れて洞窟の巨大さに驚くが、日没時に洞窟から一斉に飛び立って食事に出かける50万匹のコウモリにも驚く。1匹が一夜に数百匹の小昆虫を捉えると言われ、洞窟周辺の草原がそれだけの昆虫を生産し続けていることにも、もう一度驚く。
(この項 2014年12月記)
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私は子供の頃からスポーツにはからきし意気地がなく、雪国育ちのくせにスキーもまるで上達しなかった。後年カナダ駐在時に子供の相手で始めたが、道具が格段に良くなったせいで、中級スロープでもコブがなければ何とか滑れるようになり、それ以来毎冬無理を押してもスキーに出かけるようになった。雪質、スケールの大きさ、設備の良さ等を総合すると、アメリカではやはりコロラドのスキ一場が一番優れていると思う。アスペン、スノーマス、ヴェイル、スチームボート等はどれもロッキー山中の著名なスキー場だが、難点を言えば、標高が3千米級なので、高度障害に悩まされるうえ、天候次第ではひどく低温になって、命がけの耐寒スキーになることだ。
90年のクリスマス休暇にアスペンに行ったが、この時の寒さは尋常でなかった。私はカナダの冬を経験しているので、たいていの寒さには驚かないつもりだが、風を切りながら急斜面を滑り降りるで、体感温度が著しく低下する。この時の気温は-28度だったが、ありったけ着こみ、耐寒用の特別手袋を買って着けても、リフト乗ると体の震えが止まらない。足の指を靴の中で絶え間なく動かしていても、凍えて感覚が失われる。こんな寒さの中でも、朝一番にリフトが動きだしてから夕方止まるまで、昼飯もそこそこに滑り続けた。
ゲレンデは閑散としていて、リフトにもまばらにしか人が乗っていない。アスペンは、デンバーからジェット機で一時間かかるロッキー山奥の高級リゾートだから、さすがに人が少ないと感心していた。ところが夕食に街に出てみると、毛皮のコートに身を固めた人達がぞろぞろと歩いている。レストランもブテイックも満員。この寒さの中でガツガツと滑っていたのはよほどのモノ好きで、殆どの客はのんびりとホテルや街で楽しんでいたのだ。それがわかってからも、我々は貧乏人の意地丸出しで、帰りの飛行機の出発間際まで目一杯滑った。両足の親指が翌年の5月までしびれたままだったのには、我ながらあきれた。 (この項 1994年9月記)
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アスペンは3つのスキー場の集合体で、夫々が初級者、中級者、上級者に適したスロープを分け持っているが、それに対しヴェイルは、あらゆるレベルのスキーヤーを満足させる巨大なスキー場。宿泊設備もピンからキリまで、と言いたいが、ハッキリ言って安く泊まれる施設はない。リフト券にも目の玉がが飛び出る。今シーズン(2014ー15年)の料金は、ネット前売(25%引き)で1日券が129ドル(15,000円)、シニア割引でも119ドル。日本の白馬八方尾根スキー場の1日券5,000円(シニア4,000円)も安いとは思わないが、米国のスキーがいかに高所得者専用のスポーツであるかを理解できるだろう。(この項 2014年12月記)
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アスペンやヴェイルなどの高級スキーリゾートは3月で閉まる。まだ雪が十分にあっても、富裕層の客が来なくなれば閉めるのが市場原理だが、春になってもスキーをやりたいモノズキも居ることは居る。標高3800mのアラパホベイズンは6月まで滑走可能で、小型のリフトが数基しかないので運営コストもそれほどかからず、モノズキ相手の春スキー場を提供してくれる。ただしスロープが上級用ばかりなので、中級が目一杯の小生は怖くて楽しめない。
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東のアパラチア山脈から2千km続いた大平原は、州都デンバーでロッキー山脈にぶつかる。標高が1600m(1マイル)なので「マイル・シテイ」の愛称があり、空気が薄いので空港の滑走路も長い。西部開拓時代からロッキー越えの交通の要衝の地として発展を続け、ロッキー周辺諸州の中核都市として、周辺人口を含めると3百万都市にふくれあがった。小生は仕事では何度も訪れたが、毎度日帰りばかりだったし、都市として魅力的なスポットがあるわけでもなく、写真を撮ったことがない。以下はスキーのついでに近郊で撮ったもの。
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