私が最初にラスベガスに行ったのは1969年5月。出張仲間に誘われて金曜日の夜9時にロスから夜行バスに乗り、5時間でベガスに着いた。ウトウトから目を覚ますと、砂漠の暗やみに突如けばけばしいネオンの列が現れた。深夜2時過ぎというのに、ゾロゾロと人が歩いている。カジノもいっぱいの人で、「不夜城」という表現そのものだ。
私には縛才も肝っ玉もないので、ちょっとスッただけでギャンブルを続ける気が失せる。カジノから出ると夜が明けていた。道路両側のネオンが消えたカジノは倉庫街のようで、陽のあたった看板はペンキが剥げてみすぼらしく、ついさっきまでの不夜城が幻だったとしか思えない。砂漠の夜明けの空気は冷えきっている。何をしようかと考えながらボンヤリと道路脇に立っていると、薄汚れた車が寄って来た。若い男が「マッチを持っているか」と聞く。これは「ヤクをやるか」の隠語と聞いていたので「ない」というと、「×××はどうか」と聞く。それも断わるとタイヤをきしませて走り去った。しばらくして別の車が寄ってきた。男が道路脇に所在なさげに立っているのは「その方面に用がある」という意思表示になるらしい。カジノに戻ってグランドキャニオン行きの切符を買ったところからは、アリゾナの章につながる。
ベガスから南東へ一時間走るとフーバーダムがある。コロラド川をせき止めた巨大なアーチ型ダムで、眼下に発電所が小さく見える。堰堤の大きさは1963年に完成した黒四ダムとほぼ同じというが、こちらは1930年代の大不況時代に失業対策事業で建設されたもの(ちなみにラスベガスの歓楽街は、ダム建設労働者の慰安施設として開設された)。第二次大戦前の米国が持っていた圧倒的な技術力、工業力を思い知らされる(同じ感想はシスコの金門橋やマンハッタンのエンパイアステートビルを見た時にも起きた)。ダム中央のエレベーターで底部に降りると350億トンの水を支えるコンクリート壁の中。言い知れぬ恐怖感が湧いてくる。(フーバーダムの貯水量は、日本にあるダムの総貯水量250億トンを凌駕する。)
60年前(1994年から)に作られたダムのコンクリートは打ったばかりの白い輝きを保っているが、発電所の施設はさすがに1930年代にふさわしく少々クラシック。ダムの上のハイウェイを渡った駐車場の脇に、余剰水を逃がすバイパス水路がある。ダム横の崖に直径10米以上の巨大なラッパが口を開け、急角度で落下しているのが見える。ろくな防護施設もなく、近寄るとブラックホールに吸い込まれるような恐怖感が湧き、設計者の神経の太さを感じさせる怪物である。
ネバダは原爆実験場でもある。ベガスから北に80キロも行かぬ場所に実験地域があり、大戦後に盛んに行われた空中爆発の実験では、ベガスから閃光が見えたという。60年代以降は地下実験になり、砂漠に深い縦穴を穿って爆発させるようになった。ニュースで見た記憶では、爆発の瞬間に地表に衝撃波が走って円形の浅い陥没が出来た。94年2月、ダラスからシスコに向かう時、この実験場跡の一つと思われる真上を飛んだ。裸の岩山に囲まれた盆地にテレビで見たとおりの円形の陥没があり、中央に小さなコンクリートの小屋が立っている。陥没の外側に滑走路跡があるが、その他に何もない。使い捨ての地下核実験場の真上を民間機が飛んでも、何の危険もないことは確かだが、何となく釈然としない気分になるのは、私が日本人だからかもしれない。(この項 1994年9月記、一部加筆)
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その後、小生がラスベガスを訪れた回数は10回を超える。と言ってもバクチ打ちに行ったわけではない。ベガスは米国最大規模の展示場を持つ「コンベンション・シテイ」で、1年を通して各種業界の展示会が催され、年間500万人のビジネスマンが訪れる。小生のベガス旅行の目的も、もっぱら展示会参加の「業務出張」で、実はそんなビジネスマンの「公私混同」が、ベガスの重要な経済基盤になっているのだ。ベガスに落ちるカネは出張者の「公私混同ギャンブル」だけでなく、ホテル代、飲食代、展示会場の使用賃料や展示ブース設営の資材・人件費など、莫大なものになる。
ベガスのカジノの年間収入は約1兆円と言われる。日本にもカジノを作ろうと奔走する政治家が超党派でいるようで、中には「成長戦略の柱」とのたまう御仁もいると聞くが、バクチを「まつりごと」(政治)の中心に据えるのはいかがなものか。日本が既に世界に冠たるギャンブル王国であることは、あまり自覚されていない。全国1万1千軒のパチンコ店の年間売上高が19兆円(!)。加えて公営競馬4兆円、競輪1兆円、競艇1兆円等々、今更ベガスの1兆円に垂唾することはない。政治家がバクチに目をつけるのには、何か下心があるに違いない。政治資金の裏金作りやマネーロンダリングに利用する魂胆が透けて見えるのは、下司の勘ぐりだろうか。(この項 2014年7月記)
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ベガスの喧噪は、巨大ホテルカジノが並ぶ「ストリップ」と、開拓時代の雰囲気を残す旧市街「ダウンタウン」のカジノ街だけで、その周囲はありふれた閑静な住宅街が取り囲み、その外側は唐突にネバダの砂漠と裸の岩山になる。カジノ街を西へ30分ほど走ると、赤茶けた丘陵の中にレッド・ロック・キャニオンがある。その名の通り赤い岩山の奇景で、近くに先住民の集落もあり、訪れる人は稀だが、ベガスに居ることを忘れさせる隠れた観光スポットである(展示会の店番の合間に、気晴らしのドライブをして見つけた)。
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グランドキャニオンには数回行ったが、69年春の最初の旅が一番エキサイティングだった。当時ロスに長期出張中だったが、知人にギャンブル旅行に誘われ、金曜日夜のグレイハウンドバスに乗った。ラスベガスには深夜に到着。早速スロットマシンに取リ付いたが、アッという間に1週間分の日当が吹っ飛んだ。ホテル内をウロウロしていると、小型機でグランドキャニオンを日帰りするツアーの広告が目に入り、料金が日当3日分だったので早速申し込んだ。朝7時にホテルの前で待っていると、ハンサムな青年がワゴン車で迎えに来た。同乗の新婚風と中年のカップル2組と一緒に町はずれの小型機専用飛行場につれて行かれ、すぐ6人乗りの単発セスナ機に搭乗した。パイロットは先刻のハンサム青年である。(ちなみに当時の日当は一日20ドルだった。)
セスナはフーバーダムから紺碧のミード湖上空を飛び、茶色に濁ったコロラド川にそって谷の底を這うように峡谷に入った。小さいインデアン居留地の上をなでるように飛び、狭まった谷をすり抜けると、突然、写真で見たとおリの大峡谷が眼前にあらわれた。セスナは、ある時は高く舞って城壁のようにそびえ立つ巨岩を俯瞰し、次の瞬間に急降下して岩壁をなめるように旋回する。新婚の旦那は操縦ができるらしく、副操縦席でパイロットと一緒にあちこち操作しているし、新婦の方は私の隣の席で恐怖と感嘆の声を交互に上げながら窓に顔を押し付けている。巨岩に名前がついていて、パイロットがバスガイドよろしく説明してくれるのだが、エンジン音で後部の席から聴き取れない。3時間のスリルに満ちた飛行ののち、グランドキャニオン飛行場に着陸した。
飛行場の駐車場にワーゲンのミニバスが停めてあって、パイロットはバスの運転手に早変わりして、崖ふちの展望台を何ヶ所も見て歩いた。どこも同じような景色だが、太陽の高さで岩肌の色が微妙に変化する。ゆっくりと昼食をとって午後は自由行動になった。ロバの糞だらけの道を少し下ってみると、崖の上から見た大峡谷とは全く違った迫力がある。再びセスナに戻り、今度は高度をとって一直線にラスベガスに飛んだ。夕日に映える赤い岩壁は今も忘れがたい。
ベガスの格納庫わきの事務所で、パイロットがサイン入リの飛行証明書をくれ、「2ヶ月前に横浜からサカイという客が来たが、おまえが日本人で二人目の客だ。帰国したらぜひ宣伝してほしい」と言って、パンフレットを一束くれた。シーニック・エアラインズという単発セスナ2機保有の航空会社は、78年に再訪した時には、双発中型機を数機保有する立派な会社になっていて、日本人団体客が列をなして順番を待っていた。最近の広告を見ると、日本にも支店を出したようだ。グランドキャニオンでは何度か墜落事故があって、69年のような曲芸飛行は禁止されてしまった。安全第一は当然ではあるが、せっかくのスリルが数分の一に減ってしまったのは、残念でもある。 (この項 1994年9月記)
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グランドキャニオンの観光客の9割は、南側(サウス・リム)の展望スポットから大渓谷を覗き込んだだけで帰ってしまう。「本当にグランドキャニオンを見た」と言うには、谷底まで1500m下ってコロラド川を渡り、谷底のキャンプ(ロッジ)で一泊して反対側の断崖を登り返し、2日がかりでコースを踏破しなければいけないと言われるが、定員80名の谷底のロッジの予約は、2年前の募集開始と同時に埋まるという。その大半はラバに乗るツアー客で、歩き通す客は殆どいないらしい。何れにせよ、我々のような気ままな旅人には、不向きなアドベンチャーである。
せめてノース・リムに泊ろうと思い立ち、知り合いの旅行会社に予約を頼んだ。1軒しかないロッジは常時満室で、滅多に予約が取れないと言われたが、ラッキーにも出発間際にキャンセルが出て、ノースリムを旅程に加えることが出来た。
アリゾナ東南端のツーソン(本稿下段)から1日がかりでアリゾナを縦断し、夕方にノース・リムに着いた。標高の高いノース・リムは樹木が多く、高原のように感じられる。丸太小屋の古いコテージはステキとは言いかねるが、開発をストップした大自然の中で、ネイチャー派にゆったりと静かな時を過ごさせるリゾートと思えば良い。
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ノース・リムからサウス・リムへの移動は、直線距離では10Kmしかないが、大峡谷に架かる橋はなく、コロラド川上流をグルリと迂回するルートを一生懸命走っても半日かかる。しかし変化に富んだ景色が次々と現れて、退屈なドライブではない。
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通常の「山登り」は登ってから下る。キツイ登りの苦しみも山頂の爽快感で吹き飛び、下りの苦労は気にならない(山の事故は下りの方が多いが、それはまた別の話)。グランドキャニオンを歩こうと思えば、先ず谷底まで下らねばならず、谷底から帰路の標高差1500mの急斜面を見上げた時の絶望感は想像に難くない。全行程が日陰のない灼熱地獄で、遭難すれば救助隊が来る前に干からびてしまう。余程の体力とガッツがなければ挑戦するべきではない(谷底への日帰りツアーは禁止されている)。
我々は、ブライトエンジェル・トレイルのヘッド(上縁 標高2091m)から、コロラド川が見えるプラトー・ポイント(1152m)まで下り、Uターンすることにした。このトレイルは元々先住民の交易路だったが、19世紀末にキャメロンが買収し、私有化して観光客から通行料を取った。1919年にグランドキャニオンが国立公園になった時に帰属が揉めたが、国側が新たなトレイルを作る構えを見せてキャメロンに断念させ、1928年に国有化した。現在の通行客の大半はラバに乗ったツアー客で、トレッカーはラバの糞を蹴ちらしながら臭いをガマンして歩く。
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サウス・カイバブ・トレイルのトレッキングからあがり、ビレッジのコインラウンドリーで長い旅の洗濯を済ませて夕暮れを待つ。最後の夕陽はサウスリム西端のハーミット・ネスト展望台から眺めることにした。以前は自分の車で移動するしかなかったが、近年は米国のどの国立公園でも無料バス(料金は国立公園入園料に含まれる)が頻繁に運行されるようになったのは、米国の環境意識の大変革と言えるかもしれない。逆に日本の国立公園がヘンに「入園無料」にこだわるのは、他の省庁や民間業者との調整を面倒がったり、些細なトラブルの責任を取らされるのがイヤで何もしない役人根性が根底にあると勘ぐるのだが、観光立国を掲げて外国人観光客を呼びたいのなら、欧米諸国や中国を真似て、政府がシッカリと入園料を取り、そのカネでそれなりの体制と設備を整えるのがスジではないだろうか。(富士山で「協力金」制度が始まったが、その不徹底ぶりにはあきれてしまう。)
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モニュメント・バレーは有名な景勝地だが、米国の普通の地図には何の表記もない。何故なら、ここはアメリカ合衆国の連邦政府と州政府の施政権が及ばない「番外地」だから。フェンスで隔てられた国境はないが、「ナバホ・ネイション」と呼ばれるナバホ族直轄地で、ナバホ族の許可無しでは入れず、当然ながらナバホ族が観光案内を独占ビジネスにしている。ちなみに域内のホテルやレストランは酒類禁止。
12月の朝、夜明けの写真を撮るべく暗い内にゲートに乗り付けると、ナバホ青年に誰何された。趣旨を伝えて許可を求めると、彼が自分の四駆トラックで案内すると言う。料金は安くはないが、米国で職人を雇う料金と思えば納得できる金額で、朝5時半から3時間、撮影ポイントを丁寧に回ってくれた。アリゾナ砂漠の冬の朝は凍てつく寒さで、フィルムを4本撮り終えたところでカメラが動かなくなった。
先住民(いわゆるインデイアン)の権利問題は、黒人差別問題と共に米国の歴史に深く突き刺さった「トゲ」。黒人差別問題は1964年の公民権法成立で一応のケリがついたかたちになり、黒人大統領の誕生を見るまでになったが、先住民の権利問題が更に複雑であることは、2007年に国連が先住民族権利宣言を採択した際、米国がカナダ、オーストラリア、ニュージーランドと共に反対に回わったことからも想像できる。何故なら、この4国は先住民から奪取した土地や資源の上に成立させた国家であり、先住民の権利を認めることは、国家の存立を根本から揺るがしかねないからである。
4国の対応は、利用価値のない荒野を「居留地」に指定して、先住民が「伝統文化を守って生活する権利」を保証しただけで、見方によっては「カネと手間のかからない隔離政策」でしかない。黒人の社会進出が進む中で、先住民が置き去りにされる結果を生んでいるが、先住民の政治的影響力は黒人グループに比べて全く弱く、決着には更に長い時間を要するだろう。
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アリゾナは仕事で何度も訪れたが、巨大サボテンが林立する景色を見たことがなかった。スペイン語でサボテンをサワロと言うらしいが、その名を冠した国立公園があることを知り、2007年の旅程に加えた。公園はアリゾナ東南部のツーソン市(Tucson)を挟んで東西に分かれているが、西側で夕方の景色が撮れそうと睨み、公園外れのモーテルにチェックインし、サボテン山に戻って日没まで粘った。
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