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1966年12月に初めての海外出張でロスに行って以来、カリフォルニアには、長期出張ばかりだったが、通算で2年近く滞在したことになる(右 初出張で乗ったJALのDC8-55)。
66年当時、日本は高度成長期にあったが、まだ貧しかった。エコノミーの往復航空運賃が、入社3年目の私の年収と同額だったと記憶している。この時代のアメリカはベトナムの泥沼で坤吟し、強さに陰りが見え始め、ヒッピーが伝統的なパワー信仰の否定を唄っていた。しかし、私が初めて見たロスアンゼルスは豊かさにあふれる別天地だった。片側5車線のフリーウェイにも、デイズニーランドの見渡す限リの駐車場にも、ご馳走になったステーキの厚さにも、また事務系の仕事にコンピュータがどんどん使われていることにも、驚異の目を見張ったものである。
あふれかえるような豊かさの中で、日本人街リトルトーキョーには、昔風の饅頭屋や瀬戸物屋があったリ、破れかけの立看板が並ぶ邦画の映画館があったり、烏打帽をかぶった初老の男が背を丸めて歩いていたりして、さびれた地方都市の埃っぽい中央通りを思わせる雰囲気があった。最近(1994年当時)のロスは巨大都市にふくれ上がり、リトルトーキョーは広いダウンタウンの中にあるように見えるが、大戦前のロスはまだ小さな町で、日本人移民は場末にひっそりと住みつき、寄リ合って差別に耐えていた姿が想像できる。66年当時、リトルトーキョーの裏にメキシコ人街が広がりつつあった。
当時のリトルトーキョーの日本めし屋は、移民相手の大衆食堂ばかりで、社用接待向きの高級日本料理屋はハリウッド等の郊外にあった。69年春に3ヶ月程ロスに出張した時は、ダウンタウンの月極め95ドルの長期滞在ホテルに住んだ。ここからリトルトーキョーまで歩いて10分だったので、食堂にはよくお世話になった。出張日当が20ドルだったから、6ドルでビールと冷奴とカツ丼が食べられるのはありがたかった。寿司屋の板前も日本を離れて何年もたつと、お手本を忘れて味付けを妙に甘くしたりするものらしい。皿も、農家が代々使いこんだような、縁が欠けて絵柄も消えかけたものが出てきて、思わず涙ぐみたくなったものだ。映画館にはよく「座頭市」がかかっていて、やくざ言葉の絶妙な英訳字幕に感心したり、大笑いをしたことも思い出す。
リトルトーキョーの映画館や食堂がとりつぶされ、日系の銀行やホテルのビルが立ったのは、80年代後半の日本がバブル景気で沸き立った頃である。街の様相も、移民の汗と涙が臭うような街から、日本人観光客相手の、ミュージカル舞台の書割セットのような空々しい街に変わってしまった。あの街で肩をよせあって生きていた移民一世、二世たちはどこに消えたのだろうか。 (この項1994年記)
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南カリフォルニアは乾燥しきった「土漠」である。ハリウッドが映画産業の中心になったのは、雨が降らないので撮影が予定どおり進むからだと言われる。人口2千万の巨大都市、ロスアンジェルス圏の住民の暮しと米国屈指の産業を支える「水」は、シェラネバダの雪解け水を、延々700㎞の人工水路(アキダクト Aqueduct、 右の写真は借り物)で引いたもの。庭の芝生や植木もご主人の毎日の散水が頼りで、数日サボられると枯れてしまう。
南カリフォルニア本来の地形や気候を体験したければ、人工都市圏をちょっと出るだけで良い。ロスの空港を出てフリーウェイ10号線を東へ1時間走り、サンジャシントの谷に入ればもう「土漠」で、パームスプリングスの手前で62号線に出て30分走ると、西部劇を思わせる街にジョシュア・ツリー国立公園の入り口がある。広大な公園内のあちこちにキャンプ場があるが、ここはコヨーテの領分だけでなく、ガラガラ蛇やサソリにも先住権があることを、忘れてはならない。
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南カリフォルニア特有の乾燥しきった荒々しい地形という点では、「ジョシュアツリー」より「デスバレー」が更に一枚上。3千m級の山に囲まれた塩湖が干上がった盆地で、最低部の標高は海面下86mで、灼熱地獄になる。「死の谷」の名前の由来は、19世紀のゴールドラッシュ時代、金鉱探しの山師が迷い込んでミイラになったことに発するという。
デカい米国では、地図を見た時の距離感が日本と全く違う。カリフォルニアの州地図を日本の地方地図と同じ感覚で見てしまうが、縮尺は日本全土地図(北海道から九州まで)とほぼ同じで、懸命に走っても南北縦断に3日を要する。デスバレーも地図の上では小さく見えるが、実際の広さは長野県とほぼ同じで、距離感を錯覚すると、金鉱山師と同じ目に遭いかねない。
恥ずかしながら、小生は同じ錯覚を3度繰り返した。行く度に「死の谷」で車の燃料計が「ゼロ」になり、ヒヤヒヤしたのだ。公園のゲート(国立公園入園料を払う)でレンジャーに「燃料は? 冷却水は? 飲料水は?」とチェックされる。燃料はまだ半分残っているので「Checked !」と答えて進むのだが、ゲートから1時間走って谷に入り、点在する観光スポットを巡って、標高の高い展望台を上ったり下りたりする内に、燃費の悪いアメ車の燃料計は「E」マークに吸い寄せられる。日本車は「E」になってもかなり走れるが、アメ車の「E」は文字通りの「Empty」で余裕がない。給油所はバレー中央のファーニスクリーク(「三途の川」と意訳するか)に1軒あるだけで、営業時間は朝7時から夕方5時まで。途中でエンストしたら、コヨーテと睨めっこしながら砂漠の夜を過ごすことになる(小生は3回ともアラームが点いた状態でクリークのロッジにたどり着き、翌朝スタンドでタンクの容量目一杯に入ってゾッとした)。
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シェラネバタ山脈の東側を南北に走るハイウェイ395号は、小生お気に入りのドライブウェイで、勝手に「シエラ街道」と呼んでいた。若い頃に長期出張の気晴しで何度も走り、リタイア後も再訪したが、死ぬ前にもう一度走りたいと思っている。歴史街道でも折り紙付きの観光道路でもなく、何故お気に入りになったのか自分でも分からないが、最初に走った時(1969年)の鮮烈な「違和感」が記憶回路に特別な書き込みをしたか、あるいは思春期を過ごした松本平を何となく連想させるからかもしれない。
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南カリフォルニアの太平洋岸を走る101号線は、断崖絶壁が続く観光道路。ロスから北へ3時間のサンルイス・オビスポに、新聞王ハースト家の別荘がある。広大な敷地に城郭を思わせる建坪約6,000平米の母屋と別棟のゲストハウスが建ち、豪華な屋内プールと屋外プールに目を奪われる。1919年に着工したスペイン風の母屋には115の部屋があり、ハーストがカネに飽かせて集めた絵画やアンティークで飾り立てられている。完成当時の館のヌシはハーストの愛人だった女優のマリオン・デイヴィスで、映画関係者や政財界の大物を招いての連日連夜のランチキ騒ぎが話題になったという。いかにもアメリカ的成功物語だが、「成功者」一族の様々なスキャンダルもアメリカ的と言えるかもしれない。
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