以下の体験談は、トンゴア出身のパコア・マトカイ氏が、孫のカルサフ・グラハムに語った内容を、著者が1994年3月29日にカルサフから聴き取って記録したものである。
バヌアツがまだニュー・へブリデスと呼ばれていた1942年、この国にやって来たアメリカ人にまつわる歌が、たくさん作られた。我々のトンゴア島でも村人が歌を作ったが、中には今も歌い継がれているものがある。伝統語で歌われていたものを三つ紹介しよう。
最初の歌は、トンゴアの島民が、アメリカ人のためにビラに働きに出た時の気持ちを、歌にしたものだ。島を離れて振りかえると、村の上を黒い雲が覆っていて、島を去るのがとても悲しかった、という内容である。飛行場を作るためにメレに行った者もいた。
二番目の歌は、アメリカ軍の飛行場や、ル・ラゴンの海兵隊で働いた島民の、望郷の歌である。
三番目の歌は、当時の思い出を、次の世代に伝えるために作られた歌である。エファテ、ウグナ、ペレ、エマウ、マタソ、マクラ、トンガリキ、トンゴア、マレクラ、エマエ、パーマなど、あっちの島から、こっちの島から、ビラに船で連れて行かれたことを、歌ったものだ。
アメリカ人から島民を1千人集めるように頼まれたイギリス人は、各島に船を出して島民を徴用した。私の祖父もビラに行った一人だった。
祖父は、飛行場工事の人夫仕事ではなく、イギリスの警官隊に入った。だが、若過ぎて大きな銃を扱えなかったので、帰って出直すように役人に言われた。それで警官をやめ、陸軍でアイスクリームを売る仕事に就いた。アメリカ人の友達が出来て、暇な時に連れ出され、標的を撃つ練習をさせてもらった。何度か標的を撃ってから、友人は祖父をソロモン諸島に連れて行こうとした。これを知ったイギリスの警察は、祖父のところに来て、ソロモンに行ってはいけないと言った。それで祖父はソロモン諸島には行かなかった。
祖父は数年をアメリカ人と過ごし、ベルビューの病院で医療の手伝いをしたり、北エファテで軍用トラックに給油する仕事をしたりした。
その後、祖父は改めて警察隊に加わった。ある晩のこと、寝ていると、日本軍の飛行機が飛来した。軍服を着て武器を準備するように命令され、隊列を組んで、飛行機が飛んでいる間空を見上げていた。突然、丘の上の巨大なサーチライトが機影を捉えた。まるで昼間のようだった。村人は叫び声をあげ、女たちは泣き叫ぶ子供を抱え、コーヒー農園に隠れた。アメリカ軍の飛行機が、日本軍の飛行機をマレクラの方へ追いやり、サウスウェストベイで撃墜した。
アメリカ人がいた頃、全ての灯火を消すように命じられていたが、ある時、フン・ケイの店の中国人が、電灯を消さなかったことがあった。灯火管制で暗闇にするように命令されていたにもかかわらずだ。マラポア岬にいたアメリカ人がその灯火を見て、狙撃した。中国人は悲鳴をあげて身を隠した。
祖父の話では、農作業用に大きなクーリー帽を被った中国人が、ポートビラの町を歩いていたら、陸軍の憲兵が日本人だと思って追いかけ、捕まえて殺そうとしたことがあった。
フランス人の農場主で、オーエン親方と呼ばれた人がいた。ある日、道路で牛を追っていたところに、陸軍の大きなトラックが通りかかった。牛が道路いっぱいになっていて、トラックが通れなかった。運転手がオーエン親方に牛をどかすように言ったが、どかさなかった。それで、運転手は車から下りてきて、親方の顔に銃をつきつけて言った。「俺たちは、この国を守るために来たのだ。それを邪魔するとはどういう料見か。牛をどかさないと撃つぞ!」 オーエン親方は震え上がって牛をどかした。