このインタビューは、1994年1月29日、ウグナ島のチキラソアのタソン夫妻の自宅で収録した。夫妻の息子のJ.D.タソンが通訳をつとめてくれた。
トム・タソンは1917生まれ。妻のトレカとは戦争が始まる直前に結婚した。
アメリカ人が来る前、英国の地域監理官を務めていたシーゴーという男が、警察官のサンデイ・ベルを伴い、このチキラソア村の酋長に会いにきた。鐘を鳴らして全員がナカマルに集められ、そこから出ることは許されなかった。シーゴー氏は、地域監理官用の船で来ていた。そして、お前たちはビラに行って仕事をするのだと言った。ビラに連れて行かれ、1日1ペンスの給料をもらった。
ウグナの男たちがビラに着くと、軍の第一陣到着に備えて準備をするのだと言われた。最初に来たのはオーストラリアの兵隊だった。様々な戦争準備が行われた。約1ヶ月後にアメリカ軍が到着し、我々は二つのグループに分けられ、白人のアメリカ兵がいなくなると、黒人のアメリカ兵と働いた。トム・タソンのグループは電話線の工事をした。丘から丘へ、基地から基地へ、ハヴァナ湾からポートビラ、東エファテまで電話線を引いた。彼はこの時に技術を覚え、その後、ラジオやミシンの修理を仕事にするようになった。もう一つのグループは、現在のメレ・ゴルフクラブの場所に宿営し、緊急事態に備えてスタンバイしていた。
電話線の工事が終わると、彼のグループは海防の為の大砲を据え付ける工事を担当した。パンゴや他のエファテの各地でセメントをうち、巨大な大砲を据え付けた。サイレンが鳴ると皆怖がって逃げ回ったが、装弾を手伝うのだから逃げるな、と兵長に言われた。だから怖くても逃げられなかった。兵隊と一緒に、命令に従わなければいけなかった。何かが起きた時は、言われたとおりにせねばならなかった。実際に大砲が撃たれたことはなかった。日本軍がバヌアツまで来なかったからだ。
大砲の据え付けが終わると、トム・タソンのクループは、エファテ周回道路の建設を手伝う組に入れられた。使った機械はトラクターだけだった。木を切り倒してトラクターで引き出し、溝を掘ってサンゴ石と砂利で埋め、その上に「流し込むやつ」(アスファルト)を敷いた。彼等はモンマルトル通りの大きなゴムの木の近くにテントを張って暮らした。今はその道の左側に新しい家が建ち、その左側にゴムの木がある。
その仕事が終わると、バウワーフィールドの飛行場建設の組に入れられた。飛行場の建設が終わらない内から、米国から来た戦闘機の着陸が始まった。一機また一機と降りて来るのを見て、「戦争になったら、俺たちは全員死ぬことになるだろうな」と言い合った。ナカマルから連れ出されて仕事に就かされただけで、戦争の訓練は何も受けていなかった。大砲の近くに配置されていたが、大砲を撃ったことはなかったし、撃ち方を教わったこともなかった。彼等が教わったのは爆薬の取扱いで、弾包の外し方や大砲への装填方法をアメリカ兵と一緒に習った。
彼等が慣れ親しんでいた自然の環境とは全てが異なっていた。男たちが一か所に集まると、戦いになったら全員死ぬのだと言いあった。「どうなるのか知りたくない。俺たちの任務は大砲に弾を込めることで、もし何か起きたら皆殺しになるだろうよ。」
逃げようがなかった。その昔、奴隷狩りの連中がやって来たことがあったが、あの連中には皆が腹を立てた。次に来たのは宣教師で、あの人達は良い人たちばかりで、俺たちの暮らしは安楽で平安だった。皆で教会へ行き、誰よりも牧師を信頼した。そして今度は戦争が来た。物事が突然変わり、カルチャーショックだった。通常の文化や行動とは全く違うもので、期待していたものとも違っていた。そのことについて学んだこともなく、全てが予期せぬことばかりだった。
アメリカ軍が来た当初、ウグナの男たちは、黒人のアメリカ人は自分たちと同じように見えたので、仲間としてやっていけると思ったが、白人のアメリカ人は怖れた。彼等が上級の人間だと思ったからだ。だが、アメリカ人は黒人も白人も英語を話し、同じようにふるまうのを見て、白人のアメリカ人とも慣れ親しむことが出来るようになった。肌の色が違っても、アメリカ人の二つのグループには、それ程の違いがないことに気付いたのだ。両方とも穴を掘ったり岩を持ち上げたりするような肉体的な重労働に従事するし、お互いに助け合っていたからだ。
いったん黒人と白人の協力関係を理解すると、とても働きやすくなった。トム・タソンは、アメリカ人がバヌアツ人と一緒に重労働をする時、バヌアツ人に、気楽にマイペースでやれば良いと言う時もあれば、逆のことを言うことがあるのに気付いた。
アメリカ人は、玩具、瀬戸物のカップや皿など、いろいろなものをくれた。その内の一つはアメリカ製の皿で、昨年(1993年)までトム・タソンの家にあった。「USN」(アメリカ海軍)と記されたスプーンがまだ1つ残っている。
ある日、皆が働いていると、アメリカ人のボスが、午後か夕方に軍艦が入港すると言ったので、皆で浜に見に行くことにした。巨大な船を見てびっくりした。それまで見たことのある船といえば、舷外材付きのカヌーしかなかったからだ。入港した巨大な軍艦から小さな船がぞろぞろと出てきた。それが既に大きなカヌーだった。水陸両用の楊陸艇にもびっくりした。ボートが陸に上がるのだから。それが何と呼ばれるものか知らなかったし、そんなものを見たことすら信じられなかった!仲間同士で言いあった。「あれは一体何だ?水の中にいたかと思ったら、今度は道路を走っているぞ!」
ハヴァナの港で働いている時、海兵隊の飛行機が、ペレ島とカクラ島の間の浅い海に墜落するのを見た。バウバツとパウナンギスの間でも落ちた。飛行機が墜ちて、中の人間が死なない筈がないと思った。彼等は怖ろしがって何が起きたのか理解できなかった。「飛行機が落ちて水面に激突して沈んで、それでどうして人間が生きていられるんだ?」落下傘で脱出したのだが、人間が見えずに飛行機が墜ちるのだけを見てしまったのだ。ある者は海に着水して岸に泳ぎ着き、またある者は森に降りて木の枝に引っ掛かったのを救出された。
トム・タソンはブロークンな英語とブロークンなフランス語を覚えた。彼はどんな言葉でも話そうと努力したのだ。彼はアメリカ人とかなり上手くコミュニケート出来た。ビシュラマ語は、奴隷狩りの連中が使ったブロークン英語から始まったものだが、アメリカ人が来た時も使われた。
アメリカ人向けの娯楽が毎日催され、演目がノートに張り出された。ウグナの男たちは外に立って中で行われていることを理解しようとしたが、かかわり合いは持とうとしなかった。
男たちがウグナの家族に会うために家に帰る時は、大きなトラックが使われた。アメリカ人はエムアに突堤を作り、それは今も使われているが、前が開くボート(上陸用の艀)を配置して、それで男たちを送り迎えした。男たちが家族に会いに帰ろうと思った時は、代表がボスに頼んでボートを手配してもらった。食糧や持ち物がキャンプにあったので、帰宅はそれほど頻繁ではなかった。
男たちが最初にウグナを離れた時の写真が残っている。泣いている者が多かった。船で連れて行かれる若い男たちに、男も女も泣いて別れを惜しんでいた。若者の身に何が起こるのか分からなかったからだ。分かっていたのは、イギリスの地域監理官が、若者をビラに連れて行って働かせる、ということだけだった。島に残された女たちは非常に怖れ、用心深く、アメリカ人に出来るだけ近づかないようにしていた。アメリカ人を見たら、命からがら逃げ隠れた。女たちは海岸で仕事をしたり遊んだりしたが、舟が見えるとすぐさま逃げた。船は缶詰の食糧と新鮮な野菜や果物とを交換するためにやってきて、少し英語が話せる大胆な女が、少しばかりの交易を行った。島に残ったのは老人と女だけで、彼等は島の上空を横切って飛ぶ飛行機の爆音や、時に発する銃声を聞いて、恐怖心にかられた。
戦争が終わると、島の暮らしは一変した。アメリカ人はエファテに立派な道路や飛行場、様々な施設や機材、家を建てるのに使える資材を残した。ウグナやエファテの生活水準は激変した。例えば、水上飛行機の着水場で使われたネットがあった。うまく説明できないが、着水した飛行機を捕捉して減速させるためのものだ。戦争が終わって、この2インチ網目のネットはウグナに持ち込まれて裁断され、50年後の現在も、窓に張ったり、ヤシを乾燥させる網や、豚小屋の柵や、コンクリートの補強用に使われたりしている。伝道所の柵にもこの網が使われた。
バヌアツの伝統について言うならば、戦争前は、他所の島の者とは会うことは滅多になく、会っても「仲間になるか、さもなければ殺すか」の関係だった。その頃一部の島では、まだ食人の風習が強く残っていて、他所者に出会うと、頭を殴って殺して食ったのだ。だが、戦争の間人々は出会い、お互いに一つの国の人間だということを知った。皆で一緒に働いたことによって、戦後あらゆることが急速に変化を遂げた。
戦争で、様々な国から人々がバヌアツに来た。それまで聞いたことのない飛行機の爆音もあったし、見たこともない巨大な大砲もあった。トム・タソンの若い頃は、弓と矢を使っていたのだ。マスケット銃があちこちに残され、彼の父親が持っていた銃は、W.V.ミルン牧師を殺害した狂人を撃つのに用いられ、その後保存されている。
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