前号までのニュージーランド篇と同様、パキスタン篇も2008年6 月の旅の直後に掲載した「パキスタン・天と地の旅」に写真と記事を追加した焼き直し版である。「天と地の旅」はいささか大袈裟だが、パキスタン北部の天にも届く7~8千m級の名峰と、その麓で暮らす長寿の里フンザの村人に出会った、というほどの意味である。当時はテロ騒ぎでパキスタンの観光ツアーが成立しなかったが、そんな折、バヌアツでJICAシニアボランテイアの同僚だった友人がパキスタンに再派遣され、同地のボランテイア仲間でフンザに行くので便乗しないかと誘ってくれた。どこでどんな目に遭うかわからぬ日本より、リスクの高い場所が分っている外国の方が安心と言えないこともない。怖いもの見たさもあって、軽装にデジカメを抱えて11日間の旅に出た。12年前の旅ゆえ記憶は覚束ないが、写真をたどりながら記事を書いていると、鮮明に蘇える記憶もある。

パキスタンの歴史は紆余曲折がありすぎて、歴史オンチ自認の小生のアタマは拒絶反応を起こす。大英帝国の旧植民地という点では前号のニュージーランドと同じだが、現在の両国の様相は180度と言ってよいほど違う。パキスタンは1億5千万の人口の半数が1日の生活費2ドル以下の最貧国で、国内外の紛争が絶えない危険地帯でもある。テロリストの交差点といわれ、国際テロ組織の首領ビン・ラディンが潜伏していたのも、首都イスラマバードだった。隣国インドとの対抗から核開発に走り、1998年に核実験成功、7番目の核保有国として90発の核弾頭を持つ。核不拡散条約にも加盟しないこの国の核武装がそれほど危険視されないのは、仮想敵国がインドに限定されているからだろうが、核技術や核物質流出の懸念は消えない。ニュージーランドが穏やかで平和な国とすれば、パキスタンはまさにその逆と言うしかない。

小生が旅したパキスタン北部の地図を見ると、中国・インドとの国境が定かでない。この地域は20世紀後半まで小王国が割拠していた。大英帝国支配の時代はインドのカシミール地方の一部とされていたが、1947年のパキスタン独立に際して住民がパキスタンへの帰属を主張し、第一次インド・パキスタン戦争が勃発。国連の仲介で停戦したが、暫定的な状況が今も続いている。三国の緊張関係は消えていないが、人や物資の往来はそれほど厳しく制限されていないようで、大型トラックの往来も多く、路上の検問は頻繁だが、人々の暮らしは平穏に見える。

現在この地域が抱える危険の源は、西に境を接するアフガニスタンとタジキスタンで、1979年に始まった旧ソ連のアフガニスタン侵攻と米国の介入で泥沼化した紛争が今も尾を引き、兵士になる以外に生きる術のない若者が国際テロリストとしてパキスタンに潜入するためで、パキスタン自身が生んだ危機とは言えないが、米国がアフガニスタン武装勢力に対する攻撃基地をパキスタン国内に置く以上、テロリスト(ゲリラ)の攻撃対象にされることは避けられない。これ即ち「集団的自衛権」がもたらす厄災の実例であり、日本もわが身に引き換えてこの事態を良く理解しておくべきだろう。


イスラマバード

成田を昼前に発ってバンコックで乗り継ぎ、午後11時にイスラマバード(以下イスラマ)着。飛行機を降りるとモワッとした熱気が肌にからみつき、さあパキスタンに来たぞ、と緊張を感じる。

歴史と人口1億5千万の重みで混沌たるパキスタンの中で、緑に包まれた碁盤目のイスラマ市街はよそよそしいほど整然としている。1947年にインドからの独立を果たしたパキスタンは、イスラム国家の中心となるべき新首都建設をこの地に決めた。ギリシャの建築家に委嘱したマスタープランに基づき1961年に着工、2年後の1963年に首都としての機能を開始した。今も(2008年)政情不安定で戒厳令に近い状態に置かれているが、米国の政策的な資金投入や近隣のオイルマネーが流入して建設ラッシュが続き、どこに行っても建設現場である。

市街のあちこちで目につくのは、米国系の銀行、ホテル、ハンバーガーやフライドチキンの看板で、市民の飲み物もペプシである。旧ソ連圏のカザフスタンウズベキスタンでも同じ現象を見たが、昨日までの敵を自国の経済圏に取り込む米国の戦略がここでも一貫している。極東の半島北部の国にも、遠からずマクドナルドの看板が立つにちがいない。もっとも自動車はパキスタンを走る車の95%が日本車で、日本の自動車メーカー各社が現地工場を持っているという。工業国日本の足場があちこちで崩れる中で、自動車産業が最後の砦になったようだ。


米国系銀行

米国系ホテル

言わずと知れた…
北側の丘に設けられたダマネコー展望台から、碁盤目状の市街を望む。
足元にイスラム寺院。
サウジアラビアのファイサル王の援助で建立された巨大なモスク。
モスクの広場で。
南側の丘に建てられた独立の英雄記念碑
大統領官邸の周辺は厳重に警固され、一般の車は近付けない
米国系銀行。
おなじみのビッグMの看板。

イスラマでは裏町も碁盤目の中に組み込まれているが、表通りの「よそ行きの姿」から一変し、発展途上国特有のゴチャゴチャした小店舗が軒を連ねている。友人のボランテイアは高校理科の元教師で、現地で手に入る機材で実験器具を手作りする特技を持つ。彼の買い物と職員室を見学させてもらったが、雑貨屋や金物屋をあさって集めたガラクタを工夫して実験器具に組み上げる能力は感服に値し、こういう人材こそ海外ボランテイアの鑑と言うべきである。

路地を入った雑貨店街。新物・古物がゴチャゴチャと並ぶ。
内陸のイスラマにも海の魚が入ってくる。魚屋の奥で青竜刀に似た包丁で魚をさばく職人の名人技。
商店街に突然歓声が上がり、肩車に乗った老人が練り歩いた。何かの祝い事らしい。
日本の中古車が昔のままの姿で走る。

タキシラ ガンダーラ遺跡

ガンダーラの仏蹟はもっと奥地と思い込んでいたが、イスラマから車で西へ30分ほどのタキシラが本場と現地に着いてから知った。友人に頼んで運転手付きのレンタカーを手配してもらったら、1日2500ルピー(約4000円)で、英語のわかる若い運転手がトヨタ・ランクルの新車で迎えに来たのに先ず驚かされた(特別のはからいだったかもしれないが)。

イスラマから郊外に伸びるハイウェイを行く。
牛を運ぶトラック。
人間満載の軽トラック。
羊を追う男たち。男性の殆どがこの服装。
踏切で保線作業の男性もこの服装。
長距離輸送の大型トラックはどれも満艦飾。
これはニワトリ満載。
タキシラに入ると交通量が減り、のどかな田舎道になる。
タキシラ博物館、遺跡から出土したガンダーラ仏の展示には目を見張る。

タキシラは1千年にわたる異文化流入の歴史が凝縮された「総合史跡」である。紀元前6世紀のアケメネス朝時代の都市跡に始まり、紀元前4世紀に東征したアレクザンダー大王が最後の休養をとったという都市跡、紀元前3世紀頃のインド・マウリヤ朝時代の仏教寺院跡、紀元前2世紀のギリシャ人の侵攻、それらの影響が混然一体となって紀元2~3世紀頃にガンダーラ美術が生み出され、5世紀にフン族に侵略されるまで栄え続けた。

歴史と美術に知識と関心のある人なら気が狂いそうな宝庫で、見学にたっぷり2日かかると言われるが、歴史・美術オンチの小生は写真をパッパと撮るだけで満足。翌日からのフンザの旅に体力を温存すべく、要所をひと回りしただけで早々に引き揚げた。ガイドブックには遺跡でチップをねだる勝手ガイドに要注意と書いてあるが、小生が経験した限りでは法外な金額でもなく、心配する程のことはなかった。早目に仕事を終えた運転手がしきりに恐縮して、チップを辞退したのにも重ねて驚かされた。××人はこすっからくて油断ならないなどと聞くとつい乗せられてしまうが、日本人にもこすっからくて油断ならない人間は決して少なくないし、もっとタチが悪いかもしれない。国民性のパターン化は人種偏見そのものと改めて思う。

ダルマラージカー遺跡の日本語看板。紀元前3世紀に作られた最も早い時期の仏教寺院跡。アショーカ王によって収集されたブッダの聖遺物を分納したストゥ―バを中心として、多数の僧院跡が残っている。
シルカップの都市遺跡。ギリシャ人によって紀元前2世紀から作られた。仏教遺跡にインドとギリシャ文化の初期の融合の跡が見られる。
発掘済み遺跡の周辺は農地で、水牛がのんびりと水を浴びる。
双頭鷲の仏塔と呼ばれる遺跡。
饅頭型の仏塔。
仏塔の隣は養蜂場。

モーラ・モラドゥ遺跡は紀元3世紀~5世紀の仏教遺跡。地中深く埋まっていたため、漆喰作り(スタッコ)の彫像の保存状態は良いとされているが、頭部が失われた仏像はイスラム教徒のしわざだろうか。

ジョリヤーンは紀元2世紀のクシャーナ朝時代の仏教遺跡。メインストゥーパは基部が残るだけだが、仏陀、菩薩、象や天を支える神など、優れた像が見られる。

 

 

表情にギリシャの影響を感じさせる像。

僧院区。「勝手ガイド」が説明してチップを要求する(出土品や土産物も売りつける)。 このガイドの英語説明はしっかりしていたが、チップの要求もしっかりしていた。言い値を払うと鍵をあけ、この仏像を見せてくれた。