ガダルカナル戦に関する資料は多々あるが、米軍がバヌアツ(当時はニュー・へブリデス)を後方基地としたことにふれた記述はあまり見ない。(ミッチナーの「南太平洋」はバヌアツ駐留米軍がモデルと言われるが、娯楽小説の域を出ない。)
バヌアツでの米軍の活動を理解するため、筆者(訳者)手持ちの限られた資料から、ガダルカナル戦の主な出来事を時系列に並べてみた。なお日付は、米国側資料が日付変更線のいずれ側を用いたか不明なものがあるが、原資料のまま記載した点、ご了承いただきたい。
年 | 月 | 日 | 起きた事 |
1941 | 12 | 8 | 日本軍、真珠湾を攻撃。太平洋戦争勃発 |
1942 | 1 | 23 | 日本軍、ニューブリテン島ラバウルを占領 |
2 | 19 | 日本軍、オーストラリアのダーウィンを空襲 | |
3 | 12 | マッカーサー比国司令官、"I shall return." の言葉を残してコレヒドールを脱出、オーストラリアへ | |
3 | 12 | 米軍、ニューカレドニアに進駐 | |
3 | 14 | 米軍、オーストラリアに進駐 | |
3 | 29 | 米軍、ニュー・へブリデス諸島のエファテ島に上陸 | |
4 | 18 | 米軍、南太平洋戦場本部をオーストラリアのメルボルンに開設 | |
5 | 3 | 日本軍陸戦隊、ソロモン諸島ツラギを占領 | |
5 | 28 | 米軍、ニュー・へブリデスのサント島に基地開設 | |
6 | 5 | ミッドウェー海戦、日本海軍は大損失を被った事実を隠匿 | |
7 | 6 | 日本海軍、ガダルカナル島に飛行場設営隊(陸戦隊150名+人夫2000名)を上陸させる | |
8 | 7 | 米軍第一海兵師団(13000名)ガダルカナル上陸、飛行場を奪取 | |
8 | 18 | 日本軍、ミッドウェイから「転戦」の一木支隊(2000名)をガダルカナルに派遣、飛行場の奪回を計る | |
8 | 20 | 米軍機31機がガダルカナル飛行場に着陸、一木支隊を攻撃 | |
8 | 21 | 日本軍一木支隊、飛行場奪回に失敗し全滅 | |
8 | 31 | 日本軍川口支隊(3000名)ガダルカナルに上陸、総攻撃せるも失敗 | |
10 | 9 | 日本軍第二師団(25000人)ガダルカナルに上陸、総攻撃せるも失敗 | |
10 | 15 | 日本軍第38師団、ガダルカナルに上陸 | |
10 | 29 | 米軍、ガダルカナル島を制圧 | |
12 | 31 | 天皇にガダルカナル撤収を上奏 | |
1943 | 2 | 1 | 日本軍ガダルカナル島から撤退開始 |
2 | 8 | 日本軍ガダルカナル島から撤退完了 | |
1945 | 8 | 15 | 日本敗戦、太平洋戦争終結 米軍、数日内にニュー・へブリデスから完全撤退 |
両軍の人的損害
日本軍 | 投入兵力 約32,000、 戦傷死12,500、 戦病死4,200、行方不明2,500 撤収者数 約10,600 (戦死5,000、餓死15,000 とするデータもある) |
米軍 | 投入兵力 約60,000、 戦死1,000 |
戦史を見て気付いたこと:
- 真珠湾の攻撃後、日本軍は米軍の反撃を3年後と想定したが、米軍は早くも3ヶ月後に、オーストラリア、ニューカレドニア、バヌアツ、ソロモン諸島(ガダルカナル)と、南から北へ着実に橋頭堡を進めていた。
- 日本軍がガダルカナルに到達する2ヶ月前、米軍は既にバヌアツに10万の大部隊を展開し終えていた。
- 日本軍がガダルカナルに飛行場建設部隊を送ると、1ヶ月後に米国は大部隊を派遣して日本軍を圧倒した。
- 日本軍は投入兵力の2/3を戦死・餓死で失ったのに対し、米軍側の戦死者は2%に満たなかった。日本軍が体質的に持っていた諸欠陥を集約的に露呈した戦いの結果と言えよう。
- 日本軍が1943年2月にガダルカナルから撤退、米軍が南太平洋地域を制圧した以降も、米軍は1945年8月の終戦までバヌアツに大部隊を維持した。
参考にした文献とサイト:
- 児玉 襄 「太平洋戦争」 中公文庫
- 戸部 良一他 「失敗の本質」 中公文庫
- NHK取材班 「ガダルカナル 学ばざる軍隊」 角川文庫
- World War 2 Timelines 1939-1945 - Pacific Islands 1942 - Worldwar-2_net.mht
- WORLD WAR II 1942.mht