ジョー・メテは、子供の頃、母方の祖父、ピーター・マシスから戦争の話を聞いた。以下はジョー・メテが1994年4月14日にタンナ・ビーチ・リゾートで語った記録である。ピーター・マシス氏は1983年に亡くなった。
祖父によれば、アメリカ軍がニュー・へブリデスに到着した時、彼等は日本軍が先に来ている筈だと思っていた。だが日本軍がいたのはソロモン諸島だった。その頃はラジオが無かったので、何が起きているのか、伝える手段がなかった。ポートビラに到着したアメリカ軍の兵士は、125隻の艦船や資材と共に、ハバナ湾に駐屯した。ポートビラを使わなかった理由は、ビラ湾は水路が一方だけに開いているが、ハヴァナ湾には水路が4本あったからだ。用水を確保するために作った貯水池は、現在もその場所に残っている。島を一周する道路を作る必要があった。アメリカ軍は資材をタカラまで運ぼうとした。現在その場所はタカラ・リゾートになっていて、当時の遺物もある。クォインヒルズの滑走路を作ったのもアメリカ軍だ。
大量の労働力が必要となった。ブルドーザーやグレイダーなどの重機の代わりをする人の手だ。エファテ島だけではとても足りず、他の島々へも要請を出した。アメリカ軍がラジオを使ったかどうか知らないが、たぶん船を出して人を集めたのだと思う。彼等はエロマンゴ島のディロンに上陸し、そこで集めた約20名をポートビラに連れて行った。タンナ島からは1千人が行った。
その一人が、僕の母方の祖父、ピーター・マリィワク・マシスだった。まだ少年だった僕は、他の子供たちと一緒に座り込んで、祖父の話を聞くのが好きだった。ある日、祖父はアメリカの戦争について話してくれた。飛行場の北のウォーテンに行くと、デイロン・ベイに大きな穴が見える。あの穴は、タンナ島に人集めに行った軍艦が途中で大砲を撃ち、その弾丸で出来たものだ。日本兵がどこかに隠れていると思ったのかもしれないし、あるいは大砲の試験で撃ったのかもしれない。今はヤギが住んでいて、穴を出たり入ったりしている。
エロマンゴ島では、アメリカの飛行機が3機墜落した。たぶんソロモンから帰る途中で燃料が切れたのだろう。その内の1機から3人の搭乗員が生環できたが、他の飛行機の搭乗員は墜落時に即死した。1機はデイロン・ベイの飛行場のすぐそばのヌンポンに落ちた。
祖父によれば、とても怖かったことがしばしばあった。畑仕事中に警報が鳴ると、住民たちは洞窟に逃げ場を求めた。祖父たちはエロマンゴからポートビラへ行き、そこで他の島から来た人たちと合流して、アメリカ軍と一緒に働いた。祖父はコックとして、ハバナ湾の駐屯地で働いた。彼等は嬉々として働きながら、日本軍の襲来を待ち構えていたのだが、日本軍は来なかった。ガダルカナルで戦闘していた日本軍は、アメリカ軍がここに来たことを知っていたに違いない。アメリカ軍がポートビラに駐留したのは、そこが商業の中心地だったからだ。
エロマンゴの人たちがアメリカ軍と行動を共にしたのは、3、4年の間だった。戦争が終わった時、アメリカ軍は持っていた機材の一切合財を、英仏のコンドミニアム政府(注)に売却しようとしたが、値段で折り合わなかった。まあ、何事においても、英仏が合意することなどあり得ないことではあったが。英国側は、米軍側がとても合意できないような金額で引き取ろうと考えたが、フランス側には、何れにせよ合意する気はなかった。
アメリカ軍は勝利して平和が来たことを知り、大祝賀会をやった。現在「ベター・プライス」がある場所だったと、祖父が言ったのを憶えている。その頃、あそこは公園のような場所だった。皆で酒を飲み、アメリカ人と一緒になって踊った。アメリカの統治者である大統領(トルーマン)が送って来たメッセージが、全員に向けて読み上げられた。
次の朝、アメリカ軍はハバナ湾に集結し、そこで貨物を船に積み込んだが、かなりのものがそこで捨てられた。更に厖大な装備品がサント島に運び込まれ、ミリオンダラー岬として知られている岬に投棄された。装備品、車両、戦車など、あらゆるものが捨てられた。現在も錆びて使えなくなったものがたくさん残っている。
とにかく、祖父やエロマンゴの仲間たち、それにタンナ島から来た人たちは、故郷に帰れることになったのだが、タンナ島出身者の中には、帰郷せずにポートビラに残った人たちがいた。現在ポートビラにタンナ島出身者で家族持ちが多いのは、その為だ。島民の中にはアメリカ軍に付いて行った者もいたし、他の島に行った者もいた。エロマンゴ出身者にもサントに残った者がいた。戦争で人々は散り散りになったのだ。
祖父は、アメリカ製の鍋、フライパン、スプーン、フォークや小銃を持ち帰った。僕はアメリカ製の台所用品を、自分の目で見た記憶がある。祖父はアメリカの軍服や鉄兜を持っていて、それを家の中に飾っていた。皆が集まった時、特に日曜日などに、祖父はよく戦争の話をした。祖父がカメラや写真を持っていたらよかったのにとも思ったが、何れにせよ、祖父の話は面白かったし、見せてくれた軍服も興味深かった。棒きれを機関銃に見立てて、訓練した身のこなし方を見せたりもした。敵襲を受けた際にとるべき動作や、ナイフを使った戦闘方法まで、本当によく知っていた。祖父がアメリカ人からもらったナイフを持っていたことも憶えている。
祖父はアメリカ人が大好きだった。死期が近くなり、自分が死んだら、アメリカ人にもらった道具類と一緒に埋めてくれるようにと、家族に頼んでいたことも思い出す。それらは祖父にとっての宝物だったのだ。戦争に参加した老人たちは、殆どがそうだったと思う。
今、僕たち自身が戦争に行って戦わねばならなくなったとしたら、とても怖いことだと思う。老人たちも戦争に行った時は怖かったが、そこでアメリカ軍を助けるのだと知った時には、本当に勇み立った。自分たちの家族を守るということが、本当に素晴らしいことだと知ったのだ。それは僕たちを守ることにもなったことを意味する。つまり、もし日本軍がこの島まで来ていたら、僕は今ここに居ない筈だからだ。僕は本当に祖父たちのことを誇らしく思う。