久しぶりに3泊4日の遠出をした。行き先は世界遺産・熊野古道の伊勢路だが、古道歩きはちょっとだけで、伊勢神宮、熊野本宮大社、那智大社を巡り、千枚田を眺め、松坂で名代のすき焼きを味わう「観光旅行」になった。というのも、久しぶりに来日した長女夫妻と「日本を味わう」ことが旅の主目的で、共通の趣味の山歩きも楽しめるこのコースを思いついた。
「日本を味わう」とは妙なことを言うようだが、帰国子女の長女は、物心がついてから日本で暮らしたのは高校時代だけで、ドイツ人の夫と共に日本のことを知らない。そういう小生自身も「歴史」が不得意学科で「歴史オンチ」を自認してきたが、老境に至ってちょっと目覚めた気分がある。そんなわけで、3泊4日の限られた日程で、どこで何を見るか知恵を絞り、地図や時刻表を調べ、適当な宿を物色・予約する作業は、実際の旅以上に楽しい。
ヨーロッパ探訪の旅が「教会・聖堂巡り」になるように、日本探訪も「寺社巡り」になる。ヨーロッパに聖地を目指す街道があるように、日本にも霊場に誘う街道があり、それを辿ることで、民の暮らしや心情の底に流れる信仰心に接し、歴史や伝統、文化を肌で感じる旅になればよい。
「お伊勢参り」は、江戸の庶民の一生に一度のライフ・イベントで、「抜け参り」とも言われたように、奉公人は主人に断りなく、子は親に無断で参詣の旅に出ることが許された。江戸時代に3回の集団参詣ブームが起き、民の移動を厳しく取り締まった幕府も、お伊勢参りと申告すれば大目に見たという。小生の想像だが、篤い信仰心にかられて聖地を目指す生真面目な「巡礼の旅」というより、バブル期に浮かれ出た庶民の「物見遊山・エンタメ旅」で、幕府も下層に鬱積した「ガス抜き」に黙認したのだろう。
「熊野古道」は、2016年に「小辺路 果無峠越え」で書いたように、平安中期に末法思想に囚われた法王や上皇などの貴人が、極楽浄土とされた熊野に詣でたことに始まる。極楽浄土は仏教の概念だが、この時代は神社も寺もいっしょくたの神仏習合で、天照大神は十一面観音に、素戔嗚命は阿弥陀如来に凝せられ、文字通り「神仏」として崇められた。平安の貴族は、京の都から紀伊半島西岸の紀伊路を辿って熊野に旅したが、鎌倉~江戸期に東岸沿いの伊勢路が拓かれ、庶民の「お伊勢参り」の脚が熊野までのびた。我々の旅もそれに倣ったことになる。
早朝に千葉の家を出て新幹線と近鉄特急を乗り継ぎ、昼前に伊勢神宮に着く。外宮から内宮に回るのが昔からの参拝のルーティンだが、我々は時間の制約から、じっくり見たい内宮を先に参拝した(逆回りでもバチはあたらないだろう)。
内宮は日本に8万ある神社の最高位とされ、天皇も総理大臣も、ここに公式参拝することで自らの権威を世に示す。内宮の祭神「天照御大神」(アマテラス)は名の通り「太陽神」で、天ノ岩戸に隠れると世界から光が消えた。皇室の祖とされるこの神様は女神で(女性の太陽神は他に例を知らない)、序列第2位で「食」を掌る外宮の祭神「豊受御大神」も女神である。No1とNo2の神様が女性のこの国は「女系」で不都合はない筈だが、保守本流を任ずる人たちは(女性の論客を含め)、「万世一系は男系!」「女系は国の根幹を覆す!」と頑なに唱えているらしい。その論拠をよく知らないが、男の遺伝子が堅固に継承されるとお考えなら、遺伝学では、男の遺伝子は血統に変化を与えるのが役目で、女性のDNAの方が祖先を確実に遡れるという説も、ご参考いただきたい。とにかく伝統は曲げられぬとのご趣旨であれば、女性に能力を発揮させない伝統も曲がらず、この国の凋落は止めようがない。女性天皇は戦争に不都合というのが本音なら、隠さずに正々堂々と言うのが保守本流だろう。
小生の内宮参拝は4度目だが、以前(1996年、1972年、1959年)に参拝した時は、拝殿(外玉垣南御門)の脇から正殿の屋根を見た記憶がある。今回は4重の板垣と御幌(みとばり)に遮られて全く覗けなかったが、前回の遷宮(2013年)で設計変更したのだろうか。もう1点、以前は内宮に賽銭箱が無かったと記憶するが、今回は正殿の拝殿前に据えてあった。時代の変化に即した変更だというのなら、庶民に正殿を見せないことと、庶民から賽銭を集めることは、あい反するような気がする。(老人の記憶違いであれば撤回するが。)
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「熊野古道」は観光振興用のブランド名で、2004年にユネスコ世界遺産に登録された「紀伊山地の霊場と参詣道」の内、霊場熊野三山(熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社)への参詣道を指す。ちなみに「紀伊山地の霊場」は「吉野・大峯」「高野山」「熊野三山」の3ヵ所を云う。
熊野三山の参詣道には、紀伊路、大辺路、中辺路、小遍路、伊勢路があり、伊勢路は、伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)を起点に、本宮大社(和歌山県田辺市本宮町)と速玉大社(和歌山県新宮市)への、約170kmの街道を云う(右図はWikipediaから)。
昔の参詣道は、大半が明治以降に国道・県道に取り込まれ、舗装されて車が往来している。取り込まれそこなっていた山道を、できるだけ昔の姿に戻して遊歩道に整備し、「熊野古道」の標識と案内板を立てて観光資源にした。遊歩道の区間は、市街地の外れから隣の市街地の手前までの「里山歩き」になる。伊勢路にはそうした「古道区間」が36ヵ所あり、全行程を歩き通すことも可能だが、大半が車道歩きであまり楽しくない。だから「熊野古道歩き」は、遊歩道区間のつまみ食いになる。
「ツヅラト峠」は伊勢と紀伊の国ざかいの古道区間で、情緒ある地名は、紀伊側の「九十九(つづら)折り」(ジグザグ)の坂道に由来する。案内書に「距離は短いが、古道感に富む峠区間が魅力のコース」とあり、入口までと出口からの「長い舗装道路歩きに覚悟」を求めている。伊勢側のアクセスポイントはJR紀勢本線の「梅ヶ谷」駅だが、山中の無人駅に午前中に止まる列車は、早朝と昼前の2本しかない。我々は松阪駅前を7:42に出る「熊野古道ライン」の路線バス(1日1本)で梅ケ谷に向かった。ちなみにこの路線(松阪~熊野市 134㎞)の長さは本州第2位で、第1位の大和八木~新宮(169㎞)も熊野古道がらみである(果無峠の時に利用)。
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峠の遊歩道区間は登り下り合わせて1時間半だが、梅ヶ谷から入口までの1時間余と、出口から長島駅までの1時間余の舗装道路歩きは予告のとおり長く感じられ、駅前の牛乳屋のアイスクリームでやっと生き返った。 長島から紀勢本線で尾鷲に出てレンタカーを借りる。ここから先の行程は、便数の少ないJRと路線バスでは回りきれないのだ。
この日は熊野古道の「風伝峠」と「通り峠」を越えて「丸山千枚田」を訪れるプランを変更、千枚田に直行した。高速道(無料区間)の補修工事で迂回に時間をとられたこともあるが、前日のツヅラト峠で「伊勢路の峠越え」が分かったような気分もあった。小辺路・果無峠や高野山・町石道ほど「古道感」を感じないのは、路傍の石仏が少ないからだろう。
丸山千枚田の歴史は秀吉の時代に遡る。関ケ原合戦の翌年(1601年)には既に2240枚の田圃が開墾され、昭和40年代半ばまで維持されていたという。しかし、政府の減反政策と過疎化で耕作放棄が進み、平成初期には530枚まで減少した。近年になって住民の「村おこし」の努力で復元が始まり、行政の支援やオーナー制度もあって1340枚まで復田して、日本有数の棚田の景観が再現した。
棚田は標高100mから300mに展開する。上部の県道脇に展望所があるが、もっと高い場所から棚田の全容を眺めたい。県道に車を置き、往路でパスした「通り峠」を出口から登り返し、標高390mの峠から更に100m登ると丸山千枚田展望台に出る。このルートは世界遺産の登録外だが、「熊野古道」にカウントされている。
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棚田を見ると「よくこんなところまで…」と嘆息する。 コメが経済のコアで貨幣の役目も担った時代、領主は領民に一升でも多く収穫させ、過半を年貢に召し上げ、更なる増産を強いた。平地がなければ斜面を開墾するしかなく、無償の家族労働で成り立つ開墾とコメ作りは、コストや効率を斟酌しない。農民が身を粉にして水田を作った日本の農業の成り立ちが、千枚田に象徴されているような気がする。
それだけ頑張っても、人口を養うに足るコメがとれたわけではなく、農民や町民はもっぱら雑穀とイモで飢えをしのいだ。コメの需給がバランスしたのは、化学肥料と農業技術が確立した昭和40年頃だったが、足りたとたんに「コメ余り」に転じ、米作を抑制する「減反政策」が強行された。原因は「食生活の改善」で、官民あげて日本の食卓を米国流の「パンと肉とミルク」に変え、学校給食もパン食になった。背景に米国産農産物の輸入プッシュがあり、今も輸入小麦とトウモロコシの半分は米国産で、遠慮のない論者は「クルマを売るために麦を買うのだ」という。
今も「コメ余り」というが、この国の食糧自給率(カロリーベース)が37%しかないことを、念頭に置かねばならない。つまり、食糧の2/3を輸入しているから国産のコメが余るので、輸入が止まれば日本国民は飢えるしかない。食糧の輸入先に「仮想敵国」が含まれていることや、海上封鎖されたら「友好国」からの輸入がストップすることも、承知しておくべきだろう。ハラがへってはイクサどころではない。戦争に備えると言うのなら、軍備費を倍増する前に、食糧確保に手を打つのが為政者の責任だが、一向に言及がないことは、補給を考えずに戦争に突入する伝統を受け継いだのだろうか。千枚田は今のところ「観光資源」だが、自分のコメ確保に棚田を奪い合うのは御免こうむりたい。
丸山千枚田から1時間のドライブで田辺市本宮町へ。2016年に小辺路・果無峠から本宮町に入った時、その昔皇族や貴族が通いつめた「極楽浄土」にしては、「何の変哲もないイナカ町だな」と思った。今回もレンタカーのカーナビがなければ、本宮大社も見落として町を通り抜けてしまうところだった。(下はGoogleの3D地図を拝借)
本宮大社には門前町が無い。国道の脇から短い参道を歩いて石段を上ると、500平米ほどの広庭に面して3棟の社殿が並ぶ。立派な建築物だが、名にし負う本宮大社にしては、神域はこじんまりとしている。それにはワケがあり、元々本宮大社は500m南の大斎原(おおゆのはら)にあったのだが、明治22年の大水害で被災し、12社あった社殿のうち、流失を免れた3棟を高台に移設(遷座)したのが現在の本宮大社で、被災から130年経った今も全面復旧しておらず、スケールは大幅ダウンのままだ。
それにしても、何の変哲もない山間の盆地が、貴人が通う「極楽浄土」だったのは何故だろう? 以下は「歴史オンチ」のいいかげんな推理ゆえ、真に受けないでいただきたい。
そもそもの始まりは、崇神天皇65年(紀元前33年)に、八咫烏(やたがらす)に導かれた神様が大斎原に降臨して社殿を建てたと伝えられる。それはともかく、有史以前からこの盆地に集落があり、霊媒師(巫女?)が五穀豊穣を祈祷する「社」(やしろ)があった筈だ。奈良時代になり、様々な伝承が「古事記」と「日本書紀」にまとめられ(720年頃)、神々の名とその仕業が公式情報として地方にも流布した。夫々の地では、神の名や仕業をその地方の自然や事象にあてはめて「ローカル伝説」が生まれ、祠や社を建てて崇めるようになった。
前後して大陸・半島から仏教が伝来し、深遠で華やかな外来文化に権力者や豪族は魅了された。職業的な宗教家集団が生まれ、その中に経を唱えながら山岳を駆け巡って霊気を得る人たち(修験者・山伏)がいた。彼等は吉野、大峯、熊野の峰々を修行の場とし、超人的な修行を終えた修験者は高徳の聖者と認知された。奈良から平安になると、仏教にのめり込んだ貴人たちは競って宗教家を抱え込み、悩み事解消の加持祈祷をさせた。中に知恵のまわる宗教家がいて、貴人にとり入って政治顧問やファンドマネジャーを務めたりもした。
都から深い山をいくつも越えてたどり着く熊野は、開放的な盆地をゆったりと川が流れ、山と川がもたらした肥沃な土地を耕す民が平和に暮らしていた。争いが絶えず疫病の流行が止まない地獄のような都に比べれば、熊野はまさに天国だっに違いない。宗教家はその熊野を「極楽浄土」と宣伝し、貴人をそそのかして極楽浄土のテーマパークを作り、「熊野詣り」のイベントをプロデュースした。
時代は平安の貴族社会から武家社会に転じたが、職業宗教家は尊重され続け、熊野詣りの風習も高級武士に受け継がれた。山岳信仰は、日本古来の自然信仰(地の神)と伝来の仏教・道教が混然一体になったもので、「いいとこ取り」の話は受け入れられやすい。聖典を持たない自然信仰と道教の「神」は「儀礼・生活指導役」で、深遠な宇宙観を持つ仏教が宗教的なコアになる。仏教者は寺に籠って哲学的な仏典解釈をしているより、民衆が日々親しむ「神」と組んでマーケットを拡げることにメリットを見出した。その結果、「神仏混淆」は山岳信仰だけでなく、里の神社に仏像が安置され、寺は「氏神様」の役目をいとわず、日本独特の混淆宗教が民の暮らしに定着し、朝夕の礼拝や季節の祭りが行われた。
神仏混淆は江戸の終わりまで続いたが、明治新政府は国造りにあたって「神」の部分を補強拡大して「国家神道」を制度化し、天皇を「神」と同一化して求心力にする統治システムを構築した。邪魔になった仏教を法律で抹殺し(廃仏毀釈)、その結果「極楽浄土」は霧散消滅、熊野参りの客足が途絶え、門前町が消え、洪水の不運も重なり、本宮町は紀伊山中の過疎集落になった。世界遺産登録で起死回生を期しても、新幹線から遠い観光地は流行らないジンクスを破るのは容易でない。
話は変わるが、本宮大社の主祭神の素戔嗚尊(スサノオ)が、極楽浄土で衆生を救済する「阿弥陀如来」を演じたのは、神話で発揮した抜群の行動力が評価されたのだろう。スサノオの長姉の天照大神(アマテラス)には千手観音菩薩の役が当てられた。観音菩薩は本来男性だが日本の仏像は女性的なお姿。トップの女神が男役を演じるのは宝塚歌劇を連想させる。
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熊野三山は共通の12柱の祭神を祀るが、那智大社はそれに那智滝を加えている。それを飾る伝説がある。神武天皇が東征の際、海岸から那智の山中に光るものを見て、分け入って滝を発見し、それを神として祀ったとされる。それはともかく、那智滝は直瀑(一段滝)として日本最大の落差134mを誇り、神格化されるに足る荘厳を備えている。(ちなみに、日本最大の立山の称名滝は4段滝で総落差は350m。最長は4段目の126m。)
1996年に初めて那智を訪れた時は、滝の傍の駐車場に乗りつけたが、今回は麓から「大門坂」の杉並木を登ることにした。このルートも「熊野古道」にカウントされていて、最も熊野古道らしいとの評もあり、今回の旅の総仕上げにピッタリ。
「大門坂」は、那智山中腹の那智大社・青岸渡寺・御瀧を参詣する人たちから、通行料を徴収するゲートがあったことに由来するという。いつ出来たのか情報がみつからないが、杉並木の樹齢(400年)や那智参詣曼荼羅が制作された時期から、江戸初期と推定する。那智参詣曼荼羅は、那智山全景の中に様々な説話伝承を盛り込んだ絵図で、熊野比丘尼(僧形の女性)が携えて全国を行脚し、熊野信仰勧進(参詣勧誘と寄進集め)のプレゼンで使った。距離と方角がデフォルメされて地図の役には立たないが、建物の位置関係は今とほぼ同じで、よく見ると大門と坂も描かれている。右下の海は熊野灘。大鳥居は仏僧が小舟で「あの世」に渡海した補陀洛山寺で、今も「熊野古道」の那智大社参詣道の起点になっている(曼荼羅に寺に鳥居の図は、神仏混淆が常態だったことを示している)。
那智参詣曼荼羅 (Wikipediaから)
大門坂は延長約1Km、標高差120mで、ゆるかな石段をゆっくり登っても1時間かからないが、坂上から大社まで更に標高差100mの参道があり、今も土産物屋や食べ物屋が軒を並べている。熊野本宮大社は門前町を失ったが、那智大社に昔の栄華が残るのは、瀧の神様のおかげと言って良いだろう。
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