大汝山(立山最高点 3015m)から剣岳(2999m ) (撮影:2020/9/16) |
1年がアッという間に過ぎた。加齢と共に時間の流れが加速する。1年前の「2019年山歩きレポート」で「終末時計」に触れたが、一歩踏み込んで紹介させていただく。これは米国の原爆開発に関わった科学者が、原爆投下直後の1945年に慚愧の念を込めて始めた運動で、戦争の危機や環境破壊の現状を科学者の目で分析し、人類滅亡の危機感を「この世の終わりまでの残り時間」(Doomsday Clock)のかたちで表現したもの。運動は75年後の今も継続し、毎年1月20日頃に「原子力科学者会報」(Bulletin of the Atomic Scientists)」で発表している。
終末時計が初めて提示されたのは1947年で、その時に示された残り時間は7分だったが、水爆実験が行われた53年に2分に迫り、核戦争を描いた小説や映画(「渚にて」など)に現実味があった。63年に米ソの核実験停止で12分に戻り、東西冷戦が終結した91年には17分まで延びたが、21世紀に入って新型核兵器開発に加えて環境破壊の深刻化で危機感が高まり、2018年は最悪だった53年と同レベルの2分になった。
2020年1月23日に発表された終末時計は、これまで最短の100秒(1分40秒)まで切迫した。その理由を「会報」は仔細に論じているが、煎じ詰めて要約すれば、政治リーダーが核軍縮や環境保全の努力を否定し逆行させていることに加え、サイバー攻撃やネットを使った悪意ある情報操作など「破壊の技術」(Disruptive Technologies)が進化して国家間の不信を増幅し、人類滅亡の危機を高めているとする。発表時はCOVID-19 (コロナ)がまだ視野に入っていなかったが、その後の中間メッセージで、政治リーダーの非科学的な態度が感染を拡大させていると指摘している。
諸悪の根源とも言える「政治リーダー」が1月20日にホワイトハウスを去るとして(未だ不確定だが)、その直後に発表される筈の2021年版「終末時計」の針はどう動くだろうか。彼が表舞台から消えても核戦争の脅威が消えるわけではないが、「核のボタン」が彼の手元を離れるだけでも気分が少し楽になる。地球温暖化対策に各国が本気で動く気運が見え始め、COVID-19のワクチン接種も進む筈だ。「人類滅亡」の時が少しでも先送りになることを祈りたい。
それにつけても政治家の劣化が気になる。政治家が聖人君子である必要はなく、滑った転んだのゴシップは聞き流せば済むが、自己顕示だけの人物やウソツキ常習犯が指導者顔をするのは容認し難い。政治家を名乗るからには、「大きな世界観」を自分の言葉で語り、公のために私を捨てる気概があり、批判する者をも包み込む度量の持ち主であって欲しい。それに近い政治家も稀に居るが、「下品な虚言家」が増えたのは、そんな人物が選挙で勝ってしまう「民主主義の落とし穴」が拡大しているからだろう。穴を拡げているのは「国民」で、穴に落ちて酷い目に遭うのも「国民」なのだが。
日本の「落とし穴」は投票率の低さに表れている。「どうせ与党が勝つんだろ」「野党が弱いからねえ」とシラケて投票に行かない有権者が穴を拡げているのだ。与党への1票は「しっかり見ているぞ」、野党への1票は「政権に不満あり」の意思表示で、民主主義の選挙に「死に票」はない。投票率が4割では、有権者の2割の得票で「圧倒的多数」になり、与党から張感感が失せる。その「与党」がお家の事情で「世界観のないリーダー」を選び、そんな政権をある意味「有能な黒子」が好きなように操っている図式が見える。
その政権が日本の代表的科学者の集団である「学術会議」をツブシにかかっているのは、この集団が「兵器開発に非協力」を唱えているからと聞く。科学者が戦争に協力したら人類はどうなるか、米国の科学者集団は「終末時計」で執拗に警鐘を鳴らし続けている。日本の科学者も個人で発言している人はいるが、学術会議のホームページは「政府の一機関」にしか見えない。僅かな国家予算(年間10億円、内閣機密費より少額)など返上して、言いたいことをガンガン言ったらどうかと思うが、政府機関であることに意味がある、というお考えなのだろうか。
本題の「山歩きレポート」は内容が乏しい。コロナ禍の「足留め」もあったが、新聞・雑誌の登山投稿欄に79歳の「登山レポート」は滅多に載らず、自分もスローダウンの齢になったと自覚する。平地を支障なく歩けても山道がシンドイのは、車で山道を走ればよく分かる。ちょっとの坂でもエンジン回転数がハネ上がり、操作がちょっと遅れれば谷に落ちる。80年使い続けたポンコツが山道をムリに走れば、壊れたり落ちたりしないわけがない。そうは言っても山の爽快な空気を吸い雄大な景色を見たい。日頃の点検整備と安全第一を心がけ、傘寿相応のスローな山歩きを楽しむことにしよう。
高尾山の初詣は2年ぶり。参詣客の大半がケーブルカーやリフトで登るが、麓から歩けば山頂まで標高差400mの手軽な山歩きになる。近年は雑踏を避けて裏高尾のルートから登ったが、冬の好天日は南面の1号路が暖かくて気持ちが良い。物資運搬車も使う舗装路だが、昼間は歩行者専用になる(緊急車両を除く)。登る前に甲州街道のコンビニで弁当を買う習慣だったが、そのコンビニがなくなっていた。店を維持できなくなったコンビニが多いとは聞くが、立地良好なこの辺りが空白地帯になったのは意外。駅まで戻って弁当を探したが無く、土産屋で饅頭を買って弁当代わりにする。
|
南米ベネズエラのギニア高地ツアーが政情不安で催行中止になり、代替で見つけたタヒチ経由イースター島を訪れるツアーに参加。海外トレッキング専門のツアー会社の企画で、限られた日程に山歩きを組み込んであった。
イースター島では、モアイを見る前に先ず島の最高点マウンガ・テレヴァカに登った。標高140mのユーカリの林から盾状火山の緩やかな斜面を登り、507mの山頂に着くと360度の展望がひらける。詳細はイースター島の記事で。
|
イースター島からタヒチに戻ってモーレア島で2泊。山歩きが目的でタヒチを訪れる日本人は我々くらいだろうが、トレッキング好きなヨーロッパ人用のルートがいくつか設定されている。島の最高点は標高1200mの尖がった岩峰で登頂は不可。我々が歩いたジャングルの遊歩道はよく整備されていたが、山中のルートは入口からヤブ漕ぎ状態で、さすがのヨーロッパ人も滅多に通らないらしい。
タヒチ本島は朝モーレア島から移動して夜帰国の限られた時間だったが、ここでも山歩きをした。島の最高点オロヘナ山(2237m)はアプローチが長く日帰り登山はムリ。渓谷を歩いて滝を見に行く予定だったが、雨で遊歩道が崩れた為、標高600mの展望ポイント往復のトレッキングになった。詳細はフレンチポリネシアの記事で。
|
2月27日に小中高校の臨時休校要請が出たが、他人事のように感じていた。3月24日にオリンピック・パラリンピックの延期が決まり、29日に志村けん氏が亡くなって「大変なことになったな」の気分は生じたが、緊迫感はまだ薄かった。
そんな中、体をほぐしに近場の山に行く気が起きた。そんな時は筑波山(877m)が定番だったが、もう少し楽な山を探したのは「寄る歳なみ」のせいだろう。加波山(709m)も近場だが、工事現場の連続で楽しくなかった記憶がある。筑波山の東に支峰があったのを思い出し、調べたら「宝篋山」(461m)と分かった。地元の人がよく登る山らしく、土曜日もあって駐車場は満杯だったが、往復3時間の山は登山者の回転が早く、待つ間もなく駐車出来た。
|
4月7日に7都道府県に緊急事態宣言が出て足止め状態になった。日本の山小屋は「三密」の典型、海外の山も渡航不可でどうにもならず、今年は山はダメと思っていた。7月にコロナが少し下火になったところで「Go To トラベル」が始まった。指定業者が手配する旅行に税金で「給付金」を付け、国民を旅行に駆り出してオカネを回す作戦で、政府のホームページを開くと、「ウィズコロナの時代における「新しい生活様式」に基づく旅のあり方を普及、定着させる」とある。書いた役人の得意満面が目に浮かぶが、昨今の官製メッセージは「総合的・俯瞰的」など人を小バカにした抽象語の羅列が目立つ。「新しい生活様式云々」も「上から目線」が丸見えで、素直に従う気分になれない。
Go To に合せるように一部の山小屋が営業を始めたので、自前で(給付金ナシ)「Go To」することにした。行く先に選んだ「立山」は最も楽に行ける3千m級の山で、体調に合わせて歩けるルートがいろいろあり、何よりも「日本一高所の温泉」がある。美ヶ原で前泊したのにもワケがある。前年(2019)に標高2300mで再三高度障害を発症し、それがトラウマになっていた。標高2400mの立山室堂に行く前に2000mの美ヶ原で前泊して、高度順応を試すことにした。標高2千mの酸素濃度は平地の79%で、1泊すればそれなりの順応効果は出る筈だ。
宿はガラ空きと思っていたが、ネットの予約サイトを見ると意外に満室が多く、それも高い宿、高い部屋から埋まるらしい。Go To 給付金で「ふだん泊まれない高級宿に行こう」という心理が働いていると聞くが、これが「新しい生活様式に基づく旅のあり方」だとしたら、チョッとヘンだ。Go To に乗れる人はそれなりに「カネとヒマ」がある人で、高級宿と手配業者はウハウハでも、コロナに追い詰められている人の助けにはならない。それはともかく、美ヶ原で泊まったのは Go To から取り残された宿だったが、ネット予約手数料(それも結構な金額)が加算されていた事に後になって気が付いた。ネット業者の荒稼ぎに不慣れなオーナーが取り込まれたのだろうか?
|
美ヶ原から立山に移動。2年前の黒部はバスもケーブルもレストランもインバウンド(中国人)の日帰り客でひしめいていたが、今年はひと昔前の状態に戻って日本人旅行者だけ。貸切バスの駐車場はガラ空きだが、乗合バスやケーブルは程々の乗車率でレストランもほぼ満席。オフシーズンの平日にそれなりの旅行者がいるのは Go To 効果だろう。
久しぶりにみくりが池の山荘に泊まる。山小屋と旅館を併せた宿だが、三密の詰め込み部屋を閉め、2段ベッドの相部屋も収容人数を減らしていた。食堂はパティションを立てて「ゆとり着席」に改め、消毒時間をはさんで2交代制で入れ替える。収容人数を通常の半分に減らしての営業では経費倒れだろうが、スタッフを維持して客を迎える心意気を応援したくなり、酒を余分に飲んだ。酸素が平地の75%でも悪酔いしなかったのは、美ヶ原の前泊が効いていたのだろう。
|
「立山」は山頂に神社がある「雄山」(3003m)を指すことが多い。伝統的な立山参詣は雄山で、百名山も雄山登頂でOKだが、立山の最高点は雄山の先の大汝山(3015m)である。2004年に剣岳に登った帰り道に大汝を通過したが、山頂の記憶がない。今回は大汝に登って、更にその先の富士の折立(2999m)まで足を伸ばし、日本で初めて「氷河」に認定された「内蔵助カール」を見ようと考えた。起点のみくりが池からの累計標高差は(登り+下り)1200m、往復6時間の行程は、2年前に設定した自己規制(1日の累計標高差1000m、行動時間5時間以内)を超えるが、このルートは危険な難所がなく見通しがよいので道迷いせず、ケイタイが通じるのでイザの場合に救助を頼み易い。そんなこんなで自己規制オーバーは大目に見ることにする。
|
|
雄山から大汝山のルートは地図では平らに見えるが、実際は、雄山から下り、登り直し、再度下り、最後はキツイ岩場の登りになる。地図の等高線は20m間隔で、それ以内のアップダウンは地図に表れないのだ。20mと気安く言うが、5階建公団住宅の屋上の高さで、地上から屋上まで2往復すれば老人でなくても息が上がる。しかも室堂から雄山まで標高差600mを登った後なのだ(団地の屋上まで30回!)。下りは登りよりも脚力を使うので、その余力も残しておかねばならない。富士の折立はすぐそこだが、大汝で折り返すことにした。
そんなわけで2020年も無事に3千mの山に登頂できた。高度障害が全く出なかったのも嬉しい。慎重に臨めばまだ山歩きが可能なようだ。傘寿を前にちょっと自信が戻った。
コロナの影響はどの業界も受けているが、海外ツアー専門の会社は「自助」しようがなく、最も困っている業界の一つに違いない。ヒマラヤでお世話になる会社(イースター島に行った会社とは別)でアルメニアの登山ツアーを予定していたが、隣国との紛争とコロナの2重苦で中止。他のツアーも全滅で、失礼ながら「大丈夫?」と心配になるが、リスク管理(どんな事態にも即対応)が日常業務の彼等ゆえ、知恵を絞って切り抜けているようだ。
その会社から Go To トラベルの案内が来た。「新しい生活様式の旅」は気に染まぬが、なじみのツアー会社を少しでも応援しようと壱岐・対馬3泊4日のツアーに参加した。山岳ツアーの会社なので「山歩き」が主目的だが、日本と大陸の接点に位置する島の歴史にも興味が湧いた。
1日目、羽田から長崎経由で壱岐空港へ。壱岐着は午後3時で、初日の予定は一支國(いきこく、中国の史書に記述された国名)博物館の見学だけ。壱岐はどこを掘っても弥生・古墳時代の遺跡が出るという。博物館には膨大な発掘物の展示・保存の他に発掘物の修復場があり、作業の様子を見学できる。改めて地図を見ると朝鮮半島はすぐそこ。弥生人は半島からの渡来人とされるが、弥生・古墳の時代に壱岐・対馬が中継地として繁栄した様子が窺える。
2日目、午前中に観光スポットを巡る。壱岐の山歩きは駐車場から島の最高点「岳の辻」展望台までの標高差30mだけ。
|
昼のフェリーで対馬に渡り(2時間の航海)、その足で島中央の城山(標高276m)に登る。663年に百済が唐・新羅の連合軍に攻められた際、日本(倭国)は百済に援軍を送った。倭国は仕返しに備えて西日本各地に山城を築き、その一つがこの金田城(かなたのき)。当時の国防最前線で、関東から送られた防人(さきもり)が農作しつつ軍務に就いた。その1200年後、城跡に明治政府が日露戦争に備えて要塞と砲台を築いた。今はその両方が特別史跡になっている。
登山口から山頂直下までの2.6Kmは明治時代の軍用道路で、所々に倭国時代の城跡を示す標識がある。山頂部にコンクリートで固めた要塞・砲台跡があり、そこから急登して標高276mの山頂に立つ。秋の陽は「つるべ落とし」で、山道に夜が足早に迫る。急いで下山したが、駐車場に着いた時は足元が見えず、遭難一歩手前だった。低山を甘く見てヘッドランプを持たずに登ったのは不覚。
|
3日目はメインイベントの「白嶽」(しらたけ 519m)登山。古くから崇敬されてきた霊峰で、登山道の途中に石仏や鳥居が立つ。山頂直下の祠まで程々の坂道だが、最後の100mはロープが頼りの急斜面で、山頂の岩塔は3点確保の岩登りになる。山頂は1枚岩のツルツルで周囲が切り落ち、高所恐怖症は立ち上がれず、座り込んで写真を撮る。晴れた日は40Km先の韓国の山並みが見えるというが、残念ながらこの日は薄霞がかかって見えなかった。
|
4日目、昼前のフライトまで見学と買い物で過ごす。Go To には「地域共通クーポン」も付く。旅行代金の15%相当の金券で、旅行先で購入する物品や飲食に使用できるが、使える店は限られる。今回のツアーではトラベル給付金4万2千円+クーポン1万8千円、二人で計12万円の税金を使ったことになる。落語の「花見酒」を地で行くような施策は本当にオカシイと思うが、「地域経済を救うため」と言われれば矛先が鈍り、クーポンは地酒購入に使わせてもらった。
|
53年前に丹沢に一緒に登った友人夫婦がいる。当時の我々は新婚早々、彼等は付き合い始めたばかりで、この山旅で意気投合して数年後に結婚したというが、当方の海外暮らしもあって長く会う機会がなかった。数年前に再会して「また一緒に山に行こう」ということになった。
本年4月に実行するべく丹沢の麓の温泉宿も手配したが、コロナ騒ぎが起きて中止を余儀なくされた。当方は山登りの現役を何とか維持しているが、彼等は今も仕事の現役バリバリ。日頃の運動は犬の散歩だけ、山歩きは丹沢以来半世紀ぶりで少なからずビビっている由に、行き先を軽井沢に変更し、碓井峠の鉄道廃線跡と旧中山道碓氷峠を歩くことにした。
廃線跡歩きにガイドが付いたが、碓井峠の鉄道の話なら長野育ちで「小鉄チャン」(ヤワな鉄道ファン)の小生の方が詳しい。東京と新潟を結ぶ鉄道は今は上越線がメインだが、上越国境の清水トンネルが開通したのは1931年(昭和6年)で、1892年(明治25年)開通の信越線の方が40年早い。明治政府にとって日本海側への大量輸送路は国防上の重要課題で、碓氷峠の鉄道開通を急いだ。急勾配用にフランスのアプト式ラックレールを導入し、2年足らずの突貫工事で26のトンネルを掘り、英国人の設計で橋梁を架け、英国から蒸気機関車を輸入して日露戦争に間に合わせた。トンネル内の煤煙で乗務員が窒息する事態が起き、1911年に日本初の鉄道電化区間になった。トンネルの口径が小さく架線を張れないので、地下鉄銀座線と同じ第三軌道から600Vを集電する方式にして、ドイツ製の電気機関車EC40型で貨客列車を引いた。1919年に日本で初めて製造した電気機関車ED40型も横軽間アプト専用機だった。
小生が初めて碓氷峠を通ったのは1951年(小4)で、その後修学旅行や受験、帰省でアプト線には随分お世話になった。当時は国産のED42型電気機関車(右写真)が軽井沢側に1機、横川側に3機付き(4機で約3千馬力)、夫々に機関士が乗って汽笛で合図を交しながら時速18Kmで走った。高度成長期に入ってアプト区間の輸送力がネックになり、63年に旧線に並行して新線を建設し、歯車を噛んで急坂を登るアプト式を廃止して、普通の「粘着式」(線路と動輪の摩擦力で列車を牽引)になった。
だが線路の勾配はアプト時代の67/1000(1000m走って67m登る)のままだったので、横軽専用の強力電気機関車EF63型が重連(2機で約6千馬力)で横川側から押し上げた(下りではブレーキ役)。1968年に特急電車(あさま)とEF63の協調運転(電機から電車のモーターも制御、右写真)も始まってずいぶん便利になったが、小生はこの頃軽自動車(ホンダN360)を購入、長野の実家帰省はマイカーになっていた。
その碓井新線も、長野冬季オリンピックに合せて開通した長野新幹線(現北陸新幹線)で1997年に役目を終え、廃線跡の一部が遊歩道として開放されている。他の新幹線区間は何らかのかたちで従来線を残しているが、横軽間は完全廃止になった。軽井沢には新幹線でしか行けなくなり、長野方面への貨物列車も廃止されたのは不都合だが、横軽間の急勾配通過に特殊な設備を要する以上やむを得ないだろう。(鉄道車両写真3点は借り物)
司馬遼太郎のマネになるが、碓井峠の廃線跡を歩いて感じるのは「明治人の気概」である。日本が先進国と肩を並べられるように必死で欧米先進国から学んだ。褒めるべきは、良いと思ったらどの国のものでも躊躇なく採用したことで、結果として特定の国から強い支配を受けなかったことだろう。ちょっと強くなった日本は崩壊直前の帝政ロシアの艦隊を破り、自分の実力を勘違いして軍事大国への道を走った。日本の政治家はいつどこで何をどう判断したか、自国の政治史を掘り下げて研究する学者まで邪魔者扱いする政治家に、「大きな世界観」があるとは思えない。
|
子供の頃から「軽井沢は超上流階級の避暑地」と聞いて育った。「軽井沢に別荘がある人」や「軽井沢で夏を過ごす人」は別世界の人たちと思っていたが、高度成長・バブルの時代に「超」でなくても手が届く別荘地が開発された。知人友人にも軽井沢別荘のオーナーになった人がいて、ちょっと羨ましかったが、「同じカネを使うなら、あちこち旅行した方がいい」と負け惜しみを言った。そんなわけで我々は軽井沢と縁が薄いまま今日に至った。
今回は友人夫婦が旧軽井沢のホテルをアレンジしてくれた。高級外車ばかりの駐車場に軽自動車を停めるのは気がひけ、瀟洒なロビーで薄汚い山歩き装束+山靴は肩身が狭かったが、宿のスタッフが場違い老人を暖かく迎えてくれ、軽井沢との心理的距離がちょっと縮まった。53年ぶりに山歩きした友人夫妻が「地域共通クーポン」で山靴を買ったのも、この際大いにヨシとしたい。
|
ここ数年当ホームページ新年号の巻頭を富士山で飾ってきたが、ネタが切れた。それなら撮りに行こうと、山中湖と富士山がドカンと見える「石割山」に出かけた。天気予報は「快晴」。拙宅から登山口の駐車場まで3時間、1時間少々の登りで「昼メシ前」に山頂に着く筈。富士山を撮るには遅い時間だが、逆光にはなっていない筈だ。
|
「快晴」の予報に反して富士山は雲隠れだった。山頂で粘っても晴れる気配はなく、巻頭を飾る写真撮影を断念して下山。夕方のTVニュースで気象予報士が予報外れを謝り、この季節の天気予報は難しいと釈明していたが、「お天道様」は人間の思惑など全く気にかけない。コロナウィルスも同じで、自然界は人知の及ばぬことばかりなのだ。気象予報士も感染症専門家も、自然を読み切れなかったことなど謝らなくてよい。トコトン謝るべきなのは、国会答弁でウソにウソを重ね、質問者を罵倒したあげく、ウソがバレると「部下のウソを信じた」とまたウソをついて「真摯に反省して説明責任を果たしたつもり」の政治家サンではないか。