3年前に百名山を登り終えてから、登山らしい登山は年に1、2度に減った。本当に山が好きな人たちは、我々の年齢になっても毎週のように登りに行くらしい。そこまで熱中できないのは、我々の山歩きのモチベーションが、「山が好きだから」というより、珍しい所に行ってみたい(ついでに写真も撮りたい)という気分の中に「山」がある、ということなのかもしれない。
2012年の国内の「山歩き」は、「山歩き」と呼べないものまで入れても下記だけだが、夏の「ツール・ド・モンブラン」と、年末に出発予定のヒマラヤ・トレッキングもカウントすると、我ながらガンバリ過ぎ、敢えて言えば、いささかヤケッパチに見えないこともない。
幸い病気もせず痛いところもないが、親しい友人が他界したり身体不自由になったりすると、自分も「古来稀れ」な齢を重ねたと自覚せざるをえない。「仕事」がらみはキッパリ卒業したが、「遊び」の方は一つやり終えると次が湧き出して、まさに「遊びをせんとや生まれけむ」の境地。「体が動く内に」と気は逸るが、賞味期限の残りは「神のみぞ知る」で、減る一方の軍資金とのつじつま合せも、成り行き任せ・出たとこ勝負しかない。
そんなわけで年末年始は「遊び」で不在につき、12月末の増ページをお休みします。気の早いご挨拶で恐縮ですが、読者諸賢にはよいお正月をお迎えください。
2012年山歩き関連マップ 原地図=Google Map
「後立山」(うしろたてやま)と言われても「?」の人が多いかもしれない。東京目線では、「立山の後ろに山らしい山などない」と思うだろうが、霊峰「立山」の伝統的な玄関口は越中富山側で、「後立山」はその背後(東側)の白馬岳、鹿島槍ヶ岳、針ノ木岳の連山を言う。
後立山の東面に「白馬」を冠するスキー場がすき間なく並んでいる(北から、白馬コルチナ国際、白馬乗鞍温泉、白馬岩岳、白馬八方、Hakuba47、白馬五竜、白馬さのさか)。落語の「小言幸兵衛」ではないが、これらのスキー場が「白馬」を名乗る料簡が気にくわない。と言うのも、どのスキー場も「白馬岳」には無いのだ。例えば「白馬八方」は白馬岳から4峰も南の唐松岳の八方尾根に作られたスキー場で、「白馬五竜」は更に南の五竜岳の遠見尾根にある。五竜岳は白馬岳と並ぶ日本百名山で、山の容姿と貫禄は白馬岳を凌ぐ。スキー場も立派で魅力十分なのに、せっかくの個性・魅力を殺して「白馬」を名乗るのは、ウケの良い「イメージ」で「自立的判断力を欠く客」を掻き寄せる魂胆だろう。同じやり口を使う「選挙屋」の料簡には、もっとハラが立つが。
体育忌避の小生が唯一好む体育がスキーだが、近年は年に1度行くか行かないか。道具も17年前のオールドファッションで、長尺スキー板をふり回す体力はもう無い。楽に滑れるというカービングスキーを試みるべく「白馬五竜」にレンタル付きで宿をとり、上部ゲレンデからの「後立山」の眺望も期待しつつ、一眼デジを背負ってゲレンデに出た。
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翌朝、旅館で見た観光パンフにスノーシューで鹿島槍を見に行くツアーがあった。早速ガイド組合に電話すると、2週間前の予約が原則で、今日の今日ではムリと言う。「そこを何とか」と粘ると、ガイドが都合をつけてくれた。鹿島槍スキー場でガイドと落ち合い、リフト終点から林間に踏み入る。スノーシューは初体験だが特に難しいことはない。黒沢尾根を1546mポイントまで登ると、目の前に鹿島槍がバッチリ。大いに撮りまくって大満足の冬の山旅になった。
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百名山に数えられる浅間山(2568m)は活動期は登山禁止になり、その間の代役は外輪山の黒斑山(標高2404m、火口からの距離3Km)が務める。我々の百名山巡りも黒斑山に登って浅間山を済ませたことにしたが、団十郎の代役を大部屋役者が演じるのを立見席で見たようなもので、もの足りなさが残る。
浅間山はこのところおとなしく、警戒レベルが「1」に下がっている。火口から直線距離500mの前掛山(2524m)まで行けると知り、長野のクラス会の帰りに寄り道をした。登山口は西南麓の浅間山荘で、1972年2月の連合赤軍事件のテレビ映像が生々しく思い出されるが、今はその痕跡は全くない。
活火山の登山は歩き難く、風景も殺伐として楽しいものではない。浅間山も中腹の賽の河原から上は足元がザラザラ崩れ、落石の危険もある。浅間山荘から3時間で火口丘直下のシェルター着。登山が許されるのは右稜線の前掛山だが、左の侵入禁止ロープを跨いで火口丘を登る人の方が多い。皆で登れば何とやらで、我々もロープを跨いだ。ザラザラの急坂を登りきると火口縁。巨大な噴火口(直径数百m、深さ約50m)が目いっぱいに口を開け、あちこちから火山ガスが噴き出している。刺激臭が強く、長く吸うと危険に違いない。やはり禁止されていることはやらない方が身の為のようだ。
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北アルプスの「表銀座」にブランド店街無く、「裏銀座」にネオン街も無い。「表銀座」は燕岳、大天井岳、東鎌尾根から槍ヶ岳に至るルートで、その裏側(東京目線)のブナ立尾根から烏帽子岳、双六岳、西鎌尾根を経て槍ヶ岳に至るルートを「裏銀座」と言う(上の地図参照)。シャレた愛称の由来は知らぬが、半世紀前の第一次登山ブームで登山者が列をなした時代の名残りではないか。
「裏銀座」には惹かれるものの、敬遠したい気持ちもあった。何しろ出だしの「ブナ立尾根」に「日本三大急登」の脅し文句が付いているのだ。それでビビッていたのだが、ツール・ド・モンブランの余勢をかって、裏銀座から「日本最後の秘境」の異名を持つ「雲ノ平」に足をのばすことにした。
第1日目:前泊した大町からタクシー30分の高瀬ダムから徒歩30分で濁沢(標高1320m)へ。ここから稜線上の烏帽子小屋(2520m)までが名にし負う「ブナ立尾根」だが、登った感想は「それ程でもなかった」。登山道は整備されて危険な個所は無く、標高100m毎の標識がリズムになって5時間の長丁場も長く感じない。標高差1200mの連続急登は他にいくらでもあるが、「ブナ立」だけが騒がれるのは半世紀前の残影ではないだろうか。当時の登山道は今ほど整備されておらず、縦走の装備もズッシリ重かった。ブームで殺到した初心者には「ブナ立」がキツイ洗礼だったに違いない。
第2日目:朝霧が消えると快晴。クラシックな烏帽子小屋を後に、稜線の「こまくさ」を愛でつつ気持ちの良い尾根歩きを楽しむ。野口五郎岳(2924m、麓の野口から見た山頂の石ゴロゴロから命名された由)を過ぎ、最後のキツイ坂を登り終えると水晶小屋(2880m)。30名収容の小屋は混むことで有名で、その晩も予約は定員2倍の由。食堂のテーブルの下も寝床になるという。
水晶小屋から先は楽チンと思っていたが、7時間行動した後の祖父岳(2825m)の登りがキツく、山頂からすぐそこに見える雲ノ平山荘が遠かった! 陽も傾いてやっと山荘着。小屋番によれば、烏帽子小屋から1日行程で来る中高年は少ない由(ちょっとムリしたかな)。前年建て替えたばかりで木の香漂う快適な小屋だが、湿原の小屋にしては水が乏しい。1Km離れたテント場には豊富な湧き水があるのだが、パイプ埋設が許可されないのだろうか。
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今年は紅葉を見る機会が無かったので、長野に用事があったついでに岩菅山に登ることにした。紅葉は志賀高原の入口あたりが上限で、前泊した発哺温泉から上は初冬の趣。翌朝、東館山ゴンドラを降りると地面がうっすら雪化粧していた。冬山登山の装備と技量はないが、好天との天気予報を信じて、行けるところまで行ってみることに。
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谷川岳は「世界一険悪な山」。標高は2000mに満たないが、遭難死者数は781名にのぼり(1931年~2005年)、世界の8000m峰全14座の死者総数637名を超える。遭難は一ノ倉沢の大岩壁に集中し、1960年に宙吊り遭難者の遺体収容で自衛隊が出動、射撃でザイルを切断した事例は今も記憶に残る。その「人食い岩壁」の撮影会に運転手で駆り出された。
一ノ倉沢に入る林道は一般車進入禁止だが、紅葉を過ぎると解放される。前泊した湯檜曽温泉で夜半に雨音を聞いたが、朝5時半に宿を出た時は星が見えた。天気予報が「曇時々雨」だったせいか、駐車場前の撮影ポイントに三脚を据えたのは我々のグループだけ。谷川岳の稜線(群馬・新潟県境)はあまりカッコ良くないので、山頂部が雲に隠れるのはむしろありがたいが、雲間から朝の光が「人食い岩壁」に当らないことには絵にならない。さてどうなるか・・・
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