昨年「百名山」を登り終えて何となく気が抜けた上に、今年は残雪が多く登山道が危険だったり、梅雨明けがグズグズしたりで、山行に気合が入らない。山登りはシンドくて何かと面倒が多い割には、達成感の保証が無い遊びなので、自らを鼓舞するモチベーションが要る。
直近のテーマは「リベンジ」。高潔たるべき境地に「仇討」とは不穏当だが、百名山登山でひどい目に遭った山の登り直しである。登山の満足度は天候次第で、好天に恵まれれば、どんなに苦しい山でも素晴らしい登山になるが、どんな名山でも悪天候に遭えば、得るのは「くたびれもうけ」と遭難のリスクだけ。
我々の百名山登山では、3割の山で雨に遭った。中には強風雨でカメラも出さず、登頂の証拠写真の無い山もある。そんな山は心残りで、できれば登り直したい。「百名山」を卒業できないのは、登山者として未熟と自覚するが、「クロウトすじ」の山は非力な中高年ハイカーにはムリ。登山道や小屋が整備された「百名山」が、身の丈に合っているのだ。
2001年春の連休に登った時は、麓では曇天だったが、高度を上げるにつれて冷たい雨になり、山頂部の這って歩くような強風に、九州の2千mに届かない山の想像を超える厳しさを知った。
2010年の梅雨入り前、「週末千円均一」を利用して宮崎の連れ合いの実家を訪れ、ついでにリベンジ登山を試みた。結論を先に言うと「リベンジ成らず」。久住山は前回同様の冷雨、阿蘇(高岳)も濃霧で視界ゼロだったが、風が弱かっただけでもラッキーと思うことにした。
無念ついでに苦言を一つ。火口東展望所から仙酔峡に下る標高差500m近い登山道が「整備」され、コンクリート舗装になっていた。善意ではあろうが、舗装された下り急勾配がどれほど足に負担のかかるものか、施工者は承知しているのだろうか?その道のプロならば、山道は山道らしく整備して欲しい。
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いくつもの峰が連なる霧島山は、百名山では最高点の「韓国岳」(1700m)に登ることになっていて、我々は2001年に登頂済み。だが、「百名山 西日本篇」で書いたように、深田久弥は「霧島山」の紙面の殆どを「高千穂峰」に費やしている。高千穂峰は標高では韓国岳に及ばぬが、秀麗な姿と神話の重さで圧倒する。戦時中は登頂が不敬とされたが、今は自由。坂本龍馬が戯れに引き抜いたという山頂の「剣」も是非見ておきたい。
宮崎は「口蹄疫」騒動の真っ只中で、道路に敷いた消毒液マットの上を何度も通らされた。高千穂峰の登山は、標高1000mの霧島神宮跡の駐車場から往復3時間の手軽なコース。火山礫の斜面を「御鉢」の肩まで登ると、噴火口の周辺は名物のミヤマキリシマが真っ盛り。「御鉢」から40分の山頂に例の「剣」はあるが、今は石積みと鎖で厳重に防護され、龍馬のイタズラの真似は出来ない。脇の碑に「天孫瓊瓊杵尊降臨之霊峯、1911.4.29、高原ライオンズクラブ建立」とある。明治44年に九州の地方都市に「ライオンズクラブ」があったことに驚くと共に、西欧由来の団体と「天孫降臨」の組合せにも興味が湧く。
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海抜ゼロで酸素濃厚な南の島(バヌアツ)で2年間暮らしてから、それまで富士山頂でも平気だった小生が、標高2000mで高度障害が出るようになった。(単なる老化現象?)。その為、本格登山の前に高度順応の慣らし運転が必須で、今年は標高2160mまでロープウェイで行ける西穂高岳(2909M)に出かけた。
ロープウェイ終点から1時間で標高2400mの西穂山荘着。早くも息が切れたが、売店のソフトクリームで元気を取り戻し、尾根を登り始める。西穂山頂への中間点、標高2701mの「独標」で弁当を開いたが、食欲ゼロ。高度障害の典型的症状だ。独標から山頂まで、地図上の標高差は200mだが、険しい岩場のアップダウンが連続する厳しいルート。天候悪化の兆しの雲が山頂部を覆い、展望は期待できない。西穂は百名山ではないので、ムリに登頂することはない。独標でUターンし、高度順応で一泊予定だった西穂小屋もパス。ロープウェイ終点まで下ったら、高度障害はケロリと治っていた。
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43年前の1967年秋、友人と4人で尾瀬の至仏山に登ったが、連れ合いは登頂の記憶がないという。写真も中腹から草紅葉の尾瀬ヶ原を撮ったものしかない。登頂の確信が持てなくなり、急遽登り直すことにした。この季節、尾瀬は端境期で、山ノ鼻の国民宿舎に空き部屋があった。
予報では雨は午後からの筈だったが、朝6時に歩き出すと同時にポツリ。至仏山を形成する蛇紋岩は樹木の生育に適さず、標高1700mで森林限界を抜けるが、霧雨に阻まれて視界はない。濡れた蛇紋岩の登山道は滑りやすく、山頂に着いた時はドロンコ。鳩待峠への下りも結構長かった。(帰宅後、別のファイルから、至仏山頂で4人が写ったカビだらけの写真が見つかった。)
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2004年7月の槍ヶ岳登山は、百名山の中で最もミジメだった。迷走台風の影響で、小屋は停滞した登山者でギュウ詰め。上部は烈風が吹き、軽量の連れ合いは飛ばされて腰を強打した。それでも鉄ハシゴにしがみついて山頂に登り、小型カメラで証拠写真は撮ったが、百名山のハイライトとなるべき槍ヶ岳登頂の満足感はゼロだった。
あれから6年、山の知恵も多少ついた。前回は上高地・槍沢のルートを往復したが、今回は飛騨側から西鎌尾根を詰めて登頂し、南岳まで縦走して周回するルートにした。理由は、ルート上で期待できる多彩な撮影スポットである。
第1日目:都内の交通渋滞にヤキモキしたが、新穂高の駐車場に車を置き、林道を歩いてワサビ平小屋に着いたのは予定ピッタリの午後4時。標高1400mには下界の「熱帯夜」も届かず、睡眠をたっぷりとって長丁場に備える。
第2日目:ワサビ平から鏡平経由双六小屋(2600m)まで、標準7時間の長い登り。日が高くなると、肌を焼く暑熱と高度障害で息も絶え絶えに。鏡平山荘(2300m)が供する一杯500円の「かき氷」で蘇生し、弓折岳の急登でようやくペースを掴んだ。混雑を心配した双六小屋は、1人一畳分の寝場所を確保出来て一安心。高度にも慣れたようだ。
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第3日目:双六小屋から西鎌尾根を登り、槍ヶ岳山荘まで標準6時間の行程。双六小屋を出てすぐの樅沢岳を越えると、西鎌尾根の長い稜線の先に槍ヶ岳がスックと立っている。尾根の南側は穂高連峰から焼岳、乗鞍岳、その先に木曽御嶽の頭まで見え、北側は黒部源流の峰々の揃い踏み。登山道の両側に高山植物が咲き競い、これぞ山歩きの醍醐味! 想定外は、空の明るさと槍のシルエットのコントラストが強く、思い描いたようには写真が撮れなかったこと。
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最後のガレ場を登り切り、12時過ぎに大槍直下の山荘前に到着。山頂部を午後の雲が流れ始めたので、休む間もなく標高差100mの穂先をアタック。前回は濃霧の中を標識を頼りに無我夢中で登ったが、晴れて周辺が見えると、高度恐怖症は垂直鉄ハシゴの昇降に覚悟が要る。山頂部は20人分程のスペースで、急いで写真を撮って後続に場所を譲る。小屋に下ると同時に穂先は雲に隠れ、まさに間一髪のセーフだった。
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第4日目 当初は南岳小屋に1泊して朝の大キレットを撮るつもりだったが、山の天気は下り坂。小屋食に飽きたし風呂も恋しくなり、1日早く下山することに。槍から南の稜線をたどり、大喰(おおばみ)岳、中岳を越えて南岳まで3時間の縦走。韓国人の団体と前後しながら、外国人から見ると日本人の団体も傍若無人なんだろうな、などど考える。南岳と北穂高岳の間を抉る大キレットは雲に隠れ、絶景の撮影を断念して南岳新道の下りにかかる。
木ハシゴが連続する標高差1000mの急な下りは、疲労の蓄積した脚には、登りと同じくらい辛い。標準3時間を4時間かけて槍平小屋まで下ったが、終点の新穂高までまだ道半ば。挫けそうになる気分を小屋の「カキ氷」で掻き立て、「足が棒」とはこのことかと思いつつ、夕暮れ迫る林道をトボトボ歩き、午後5時、やっと新穂高に帰着。この日の行動は11時間余。53200歩の褒美に右足親指裏に大きなマメをもらった。案内所を閉めていたオネエサンをつかまえて新穂高の「最後の一部屋」を獲得し、温泉と生ビールでリベンジ登山を締めくくった。
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