「イイ写真とは?」と聞かれることがある。我々の師川口邦雄先生は、「撮った本人がイイと思った写真がイイ写真」と明快に言い切る。山岳写真界の長老で、傘寿で出版した写真集「超峯繚乱」が全国図書館蔵書に推薦された現役作家だが、「”先生”が自分の好みで ”これはイイあれはダメ” と決めつけるのは不遜」とまでおっしゃる。そういう先生が主催する会なので、小生の如きグータラでも15年間気楽に続けられ、恥ずかし気もなく駄作を陳列してきたのだが、今頃になって「撮った本人がイイと思った写真」が、実は際限なく深いテーゼ(課題)らしいことに気が付いた。
本人が「イイと思った」のは、撮った時の「高揚した気分」が「写真に写っていた」からだろう。考えてみれば、どんな被写体に対して気分が高揚するかは本人の感性・美意識次第で、それを写真でちゃんと表現できるかどうかも本人のウデ(技術)次第。感性・美意識は磨くほどに深まり、それを表現するテクニックも、磨くほどに本人の「気分」が見る人に的確に伝わる筈。今どきのカメラは「押せば撮れちゃう」が、構図の取り方、レンズの選択、絞りの使い方、露出補正などに基本的な「定石・カタ」があり、それを会得しないことには上達が望めないのは、どんな「芸ごと」にも共通する。
やっていることはアマチュアの道楽だが、「芸ごと」に取り組むからには少しは上手くなりたいし、良い先生につかないと一人よがりに陥る。しかるべき道具が要るし、発表の場を持つことも欠かせない。そうなると、写真も手軽で気楽な趣味では済まなくなる。15年目にやっとたどり着いた境地だが、遺憾ながら手遅れの感は否めない。
ところで、今回のモンブラン旅行で「作品撮影」の収穫はどうだったかと言うと、未だ熟成期間が足りず、何とも言えない。デジタル写真が発酵するわけではないが、出来ばえを客観的に見るには、しばらく時間を置いた方が良いのだ。シャッターを押した瞬間に「ヤッタゼ!」と思ったコマにはガッカリする場合が多く、逆にゴミ箱に行きかけたコマからジワリと良い味がにじみ出ていたりする。そのあたりがシロウトのカベだろうが、同時に「瞬間芸術」が持つ偶然性の面白さかもしれない。デジタルになって、ちょっとレタッチすると大化けすることもあり、写真に新しい面白さが加わった。
7月6日:この季節のヨーロッパアルプスの天候は、2晴2雨のサイクルで変化するらしい。イタリア側のクールマイユールからフランス側のシャモニへ戻る日も前日からの雨模様で、チェックインまで時間をつぶすのに頭を悩ませる。ホテル代が高く車を停めにくいシャモニ市内を避け、車で西へ20分のレズッシュのホテルにしたのだが、日本のビジネスホテル並みに窮屈で、キッチンがないので食事代も高くつく。ハラが立たないことはないが、他に手がない以上「ここではこんなものだ」とハラを据え、目一杯楽しむしかない。
7月7日:予想通りの快晴。娘の車が使えない事情が出来て、早朝のフランス国鉄の電車でシャモニへ(小鉄チャンにはそれも嬉しい)。3両連結のしゃれた車両だが、第三軌道から集電する地下鉄方式で、線路脇の直流800Vが流れるレールはムキ出しのまま。踏切の看板で「触ると死ぬ!」と警告しているが、日本だったら事故死・自殺が頻発するだろう。「フランス人は神経が太いなあ」と思う。
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ミディ山頂駅は岩峰の先端にしがみつくように作られている。そこから更にジュアン氷河の上を4人乗りのゴンドラがイタリア側のヴェッキオまで架かっていて、これも支柱のない空間を往来する(イタリア側が工事中の為、客扱いナシでUターン)。小生は高所恐怖症だが、小型飛行機に乗っているのと同じで、揺れなければ怖さはない。風が強くなると運行を止めるが、途中で宙ぶらりんになった人は気が気でないだろう。
前号で日本の山岳ロープウェイの「中途半端」を批判したが、様々な法律や省令や「指導」でがんじがらめにされた結果かもしれない。安全確保はもちろん大切だが、この国のお役人は、安全を口実に小市民のすることに口うるさく干渉する性癖があり、その分、巨大資本が行う巨大危険(例:原発)に対するアマさが際立つような気がする。
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日本では略して「シャモニ」だが、現地ではシャモニ・モンブラン(Chamonix-Mont-Blanc)とフルネームで呼ぶ。1786年のモンブラン初登頂以来、近代登山のメッカであり、1924年の冬季オリンピック発祥の地でもある。シャモニの人口は9千人足らずで、箱根町(13千人)よりも少ないが、夏は登山・トレッキング・山見物、冬はスキー客で賑わい、年間に訪れる観光客は150万人を超える。
フランスでは観光ビジネスが抜群の収益力を発揮しているが、日本の観光地は、中国・韓国の客で戻りかけていた賑わいがかき消え、閑古鳥が古巣に戻ってしまった。歴史オンチの知る限りでは、ナショナリズムは、手詰まり為政者が苦し紛れに煽ることはあっても、それで国が栄え民が潤った例はない。
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