スペイン-1の冒頭で、中南米の国々の荒々しい政変を見るにつけ、「スペインの血が騒いでいるのでは?」と書いた。中南米の国々(ブラジル以外)は、スペイン人が新大陸で作った植民地の歴史を持つ。開拓時代の暴力的な先住民征服に始まり、建国時の仲間内の覇権争いや独立後の権力闘争は異様に血なまぐさく、その様相は21世紀の今もラテンアメリカ諸国で再現している。スペイン本国の歴史も波乱に満ち、地中海と北アフリカから攻め込んだ民族が半島を舞台に抗争を繰り広げ、分裂・統合を繰りかえし、20世紀になっても混乱は治まらず、あげくにファシズム独裁政権が居座わった。本国でも旧植民地でも、スペインの血が騒ぎ続けているように見えた。

「○○人は勤勉」とか「××人は商売上手(ずる賢い)」とか、ある国民特有の思考や行動パターンを「国民性」として云々することがある。スペイン人は「情熱と狂気が共存」と言われるらしいが、要するに「血の気が多い」のだろう。「国民性」と言うからには、思考や行動のパターンが遺伝子に書き込まれていて、子々孫々に受け継がれるのかもしれない。その方面の知識は皆無なので、遺伝子・DNAの入門解説書を取り寄せて斜め読みした。

小生なりの「遺伝子」の理解では、アミノ酸からタンパク質を合成して細胞を作り、統合して種固有の生命体を作りあげる仕様書・手順書で、出来上がった生命体を維持・継承(子孫を残す)する命令系は、教えられなくても出来る「本能」として生命体に埋め込まれている。この仕組みはパソコンに似ていて、電源をONするとハードウェア(生命体)に組み込まれたファームウェア(本能)が起動し、生命活動が作動する(泣く、乳を吸う、排泄、五感、這う→立つ)。生命体が完成したタイミングで生殖機能・本能を起動させる仕組みは、造化の神の妙と言うしかない。ファームウェア(本能)の役目はここまでで、思考や意志を伴う行為は、OS(Windowsなど)を立ち上げないと出来ない。人間のOSは、親の躾け、兄弟友達からの学習、義務教育や集団参加から得た情報を脳が集積・編集して、脳細胞に書き込んだプログラムで、判断や行為のベースになる。OSの上で構築する「アプリ」は、成長して習得する専門知識や職業技術と見做せば、全体の仕組みが理解できたような気分になる。(ビル・ゲイツは人間に模してパソコンを開発したと聞いたことがある。)

人間のハードウェア(身体)とファームウェア(本能)は、ホモサピエンスの遺伝子で標準化されている。サイズや色などに多少の違いはあっても、生まれ持った基本機能は同じで、進化による変化は徐々にしか起きない。人間のOSは言語、伝統、習慣など広義の「文化」がベースにあって、「国民性」もここで生じるのだろう。例えば、稲作農民は「勤勉」でなければ勤まらず、交易商人は「ずる賢く」なければ生き残れない。OSは文化の進展に合わせて更新され、若者はバージョンアップに積極的だが、老人は旧バージョンに執着する。OSにウィルスが侵入して誤動作・暴走・停止を起こすこともよくある。OSの構築と管理は究極的に自己責任で、出来具合は持ち主の「人格」として表出する。

話が逸れたが、反省も生れた。スペインが荒々しく殺気立っているかのように書いてきたが、小生が旅したスペインは穏やかに落ち着いていた。歴史オンチが歴史を拾い読みすると、大事件が連続して起きたように勘ちがいする。歴史年表を見ると、北方ゴート族(ゲルマン)の侵入は日本の古墳時代、北アフリカ・ウマイヤ朝(イスラム)の支配は平安時代、キリスト教復権(レコンキスタ)は鎌倉時代、コロンブス新大陸発見は室町時代、インカを滅ぼしたのは秀吉のちょっと前だった。百年単位の時間軸で歴史を見れば、どの国にも大騒動があり、スペインだけ特別に混乱していたわけではない。スペインは新大陸で暴力的に先住民を征服したが、米国の西部開拓も平和的だったとは断じて言えない(米国政府は200年後に謝罪した)。スペインが中南米に進出した頃、日本も秀吉が「朝鮮征伐」で20万の大軍を派兵し、100年前には朝鮮半島を併合、武力を背景に満州国を作って短期間に22万人を植民した。自国の歴史を棚に上げて他国を無頼漢のように難じたのは、歴史オンチでも恥ずかしい。

もう一つ気付いたことがある。ヨーロッパの地図に日本地図を重ねてみると、距離感がガラッと変わった。ウマイヤ朝は北アフリカから長征してスペインを支配したと思っていたが、同尺の地図で見ると、越前から琵琶湖を渡って京都に入るのとほぼ同じ。「ゲルマン民族大移動」でさえ、距離的には「日本武尊の東国征討」と似たようなものなのだ。ヨーロッパは思ったほど広くなく、さまざまな民族がごちゃごちゃ混じり合って生きてきた。生まれつきの遺伝子に「スペインの国民性」や「フランスの国民性」などある筈がない。「国民性」は後天的・環境依存で、その証拠に「勤勉な〇〇人」の国に「ずる賢い人」がめっきり増えている。


ヨーロッパ・北アフリカの地図に、ほぼ同一の縮尺と緯度で日本の地図を重ねた。地図原版はGoogle


グラナダ

コルドバの観光を終えてグラナダに着いたのは午後6を過ぎで、チェックインのトラブルもあって遅い夕飯になった。夜道歩きはアブナイと言われたが、近場のレストランなので強行した。薄暗い街に屯した男女の視線に「殺気」を感じる。暴力沙汰は滅多にないが、旅行者に声をかけて注意を逸らし、その間に仲間が抜き取るスリが多いらしい。我々のグループの女性は、レストランに着いてから、胸に抱えていたバッグの口が開いているのに気が付いた。幸い何も盗られていなかったが、注意していてもやられるほど芸術的な技なのだ。

路上犯罪はいわゆる「ジプシー」の仕業とされる(ジプシーは差別用語らしいが、他に呼びようがないので失礼する)。ジプシーの語源は、15世紀にフランス東部に出現した一団が、自らを Egyptian (エジプト人)と呼んだことに発するというが、実際は東欧系の「流浪の民」が起源らしい。自ら好んで流浪したわけではなく、民族的な迫害を受けて祖国を逃れた「難民」の末裔で、今も流浪先で差別され続け、大半は定住できず、従って定職もなく、観光客相手の大道芸やスリ芸で生きることになる。スペインは新コロナで多くの死者を出しているが、米国ニューヨークの死者がマイノリティ困窮層者に集中しているように(富裕層の14倍とか)、スペインでもジプシーの死者が多いのではないだろうか。


グラナダ・アルハンブラ宮殿と周辺 地図=Google 3D Map
アルハンブラ宮殿

アルハンブラ宮殿は13世紀にナスル王国の城砦として建設された。この頃は既にレコンキスタ(キリスト教復権)の終盤で、ナスル朝は最後のイスラム王国として建国され、コロンブスが新大陸を発見した1492年に、最後のイスラム王国として滅んだ。初代のアル・アフマール王は賢王だったようで、周辺をとり囲んだキリスト教のカステーリャ王国に服従を装いつつ、貧乏な新興王国で商工業を発展させ、その収益で歴史に残る名建築を築いた。王朝の去り際も見事で、キリスト教勢に抗しきれないと悟ったボアブデイル王は、居城のアルハンブラをイサベル女王に無傷で明け渡し、臣下と共に北アフリカに去ったという。その後のスペイン混乱期にアルハンブラは忘れ去られたが、1832年に米国作家ワシントン・アーヴィングが著した「アルハンブラ物語」で欧米諸国に知られ、スペイン屈指の観光資産として蘇った。

「裁きの門」から入城。
門を入ってすぐの建物は16世紀にカルロス5世が増築した宮殿。王の存命中に完成せず、資金切れで永く放置されていた。アルハンブラの中で違和感はぬぐえない。

ナスル朝の政府執務室だったメスアール宮(たぶん)。謁見の待合室などがあり、木組みの天井や木工象嵌が見られる。

王の公邸だったコマレス宮。アルハンブラを代表する美観とされ、特にアラヤネスの中庭が有名。

謁見に訪れた賓客の度肝を抜いて心理的圧力をかける仕掛けだったともいわれる。 

ライオン宮は王族の私的なスペース。2階は王の后たち(複数)が住むハーレムで、王しか入ることが許されなかった「大奥」。
ライオンの中庭と呼ばれるスペース。
宮殿内には水を使った景観や設備が多い。その水利と庭園の灌漑用に水路がはり巡らされている。

アルバイシン地区

アルハンブラ宮殿と向かいあった小高い丘がアルバイシン地区。地名の由来は「アラブ」で、アルハンブラ城内での居住を許されなくなったアラブ人(イスラム教徒)が作った街で、曲がりくねった迷路が城砦の様相をなしている。坂道を登りきったサン・ニコラス広場はアルハンブラを一望できる観光名所で、ジプシーの大道芸人が観光客を集め、スリ芸が発揮される場でもある。

アルバイシンの町並み。
サン・ニコラス広場。
広場からのアルハンブラの眺め。
大道芸人。
フラメンコを見に夜のアルバイシンへ。
丘の斜面に掘った洞窟の住宅がフラメンコの舞台。
ギタ―と手拍子で始まるフラメンコ。
キレの良い踊りを見せるベテランダンサー。
若い踊り子も熱演を披露。


バルセロナ

スペインの旅の最後に訪れたバルセロナはカタルーニャの州都で、都市圏人口421万は首都のマドリ―ド(540万)に迫る。独自の言語と文化を持つカタルーニャ人は、自分達をスペイン人と思っていない。義務教育はカタルーニャ語で、スペイン語は外国語扱いなのだ。小生が駐在したカナダの ケベック州も同じで、独立運動が盛んなことも共通している。更に共通点を挙げれば、首都をさし置いてオリンピックを開催したことで、1976年のモントリオール、1992年のバルセロナ・オリンピックは共に独立運動の高揚期に開催され、両市は世界に存在感を示したが、膨大なエネルギーと資金放出を強いられた。両国の政府が首都開催のメンツを捨てて独立運動のガス抜きをした、という皮肉な見方もできる。

カタルーニャがスペインと一線を隔す背景は、10世紀末にカタルーニャ君主国として独立し、12世紀にはアラゴン連合王国の一員として海外領土を持ち大いに栄えたが、15世紀にスペイン統一王朝が出来ると重心がマドリードに移って、バルセロナは明治維新の京都のような立場になり、アンチ・マドリードの気分が生まれたのではないか。18世紀のスペイン継承戦争で反乱の拠点となったバルセロナは、フィリペ5世の怒りをかって商業地区を取り壊され、厳しい監視下に置かれた。19世紀の産業革命でバルセロナは産業都市として再生し、進取の気性が建築家ガウデイを育んだが、1936年~39年のスペイン内戦で共和国政府を支援して無政府運動の拠点になり、フランコ独裁政権に目の敵にされ、1975年にフランコが没するまで厳しい弾圧を受け続けた。カタルーニャ人の反骨精神が並大抵でないことが理解できる。


地図の原版は google 3D Map

グエル公園

旧市街から少し離れた丘に、ガウデイの設計でニュータウン計画が始められたのは1900年だった。施主のグエル侯爵はワグナーに心酔し、楽劇のイメージをもとに自然と調和した総合芸術を実現させるべく、60戸の住宅団地を造る計画だったが、2戸建てたところで頓挫した。1戸は施主のグエル邸、もう1戸はガウデイ用で、要するに1戸も売れなかったのだ。あまりに非日常的なモデルハウスが尻込みされたのだろう。グエルの没後に市の公園として寄付され、1984年にガウデイの作品群として世界遺産に指定された。テーマパークとしては面白いが、やっぱり住むのはちょっとね… 

ガウディの陶器製ベンチは意外に座り心地が良い 
不思議な散歩道。
2戸のモデルハウス。
公園からサクラダ・ファミリアを望む。

サクラダ ファミリア

サクラダ・ファミリアの正式名 Temple Expiatori de la Sagrada Familia(聖家族贖罪教会)には、キリストの一家を祀る教会を信者の喜捨で建てる、という意志が込められている。喜捨の集り具合で工事が進められるので、1882年に着工したが完成予定はなく、300年はかかるだろうと言われていた。だが、1992年のオリンピックを機に入場料(拝観料)収入が急増し、ITを使った設計や新工法採用もあって、ガウディ没後100年の2026年完成を目指してガンバっているようだ。

教会はガウディが設計者のように言われているが、初代は当時の著名建築家ビリャールで、1882年に無償で責任者を引き受けて着工したが、意見対立から翌1883年に辞任。代わりに推薦されたのが無名だったガウディで、1926年に路面電車に轢かれて死亡するまで、設計・施工に没頭した。だが、ガウディの生前に完成したのはほんの一部で、且つガウデイが残した数少ない模型や外形デッサンも、1936年のスペイン内戦で殆どが散逸した。その後に参加した建築家や彫刻家が、ガウデイの構想を推測しながら設計・施工を続けているが、現在のデザインや設計がガウディが意図したものの延長上にあるとは言いきれない。ガウディは前衛的な芸術家だったが、完成したサクラダ・ファミリアを見て「何だ、これは!」と言わないとも限らない。

前衛でもなく審美眼も無いシロウトが、ガウデイの気分を忖度しても無意味だが、正直言って、サクラダ・ファミリアはあまり感心できなかった。小生が見たのは「建設現場」で、完成したら印象が変わるかもしれないが、あのゴチャゴチャは美しくならないのではないだろうか。浄財を寄進した信者たちが「スゴイなあ、アリガタイなあ、ヨカッタなあ」と思えばそれで良いのだが、伝統的なカトリック大聖堂の宗教的イメージからかけ離れ過ぎているような気がする。カリスマ的リーダー不在のまま、個性豊かな(協調性に価値を置かない)前衛芸術家たちが夫々やりたいこと(表現したいもの)を持ち寄れば、全体としてチグハグなものが出来上がるのは必然だろう。サクラダ・ファミリアがそうならなければ良いが、とシロウトの門外漢が心配しても仕方ないが…

広角レンズでも全景は入りきらない。
入り口の扉の上の彫刻群。
聖家族とキリスト像。
建物内部は「工事現場」だった。
建物側面の柱。力学的に大丈夫かな、と不安になる。
少し教会っぽい個所もないわけではない。
市内中心部の集合住宅カサ・ミラ。ガウデイの代表的建築だが、住みやすい印象は受けない。


バルセロナ旧市街 ぶら歩き

旅の最終日は自由行動。旅先で時間があれば公設の食品市場を覗く。ヨーロッパではどこに行っても市の中心部に大きな公設市場がある。日本の公設市場は卸売り専門で、一般消費者は近所のスーパーに行くが、ヨーロッパの公設市場は一般市民の日常的な買い物の場で、夫々の分野に特化した業者が小店を並べている。土地の普通の人たちが何を食べているか?珍しい食材は?値段は?と興味は尽きない。地図を頼りに、バルセロナ旧市街の市場とその周辺をぶら歩きした。

まずその規模に驚き、品揃えと品質に感服する。食生活の健全さは社会の健全さの指標で、怪しげな輸入食品や出来合い食品が氾濫する日本の食文化は劣化の一途だが、バルセロナの市場を見る限り、彼等の食文化は豊かで健全性を保っていた。そんな人たちが暮らしている社会も健全に違いない。

地下鉄で旧市街へ。
 ゴシック地区と呼ばれるエリアをぶらぶら。
サン・エウラリア大聖堂(カテドラル)を覗く。1450年に完成、カタルーニャ・ゴシック様式と呼ばれ、高い天井と多数の柱が特徴。
街角に小さな礼拝所。
ピカソ美術館。ゲルニカの原画もある。
ピカソが通ったレストラン「4匹のネコ」でランチ。
街頭芸術家。
公設市場の入口(だったと思う)
肉屋の店頭、「草食系」には少々生々しく感じられる。
どれ、買おうかしら…
「カラスミ、アルヨー」と誘われて買った。
魚屋の店頭。
ドライフルーツとナッツ。
果物屋。
キノコ専門店。まつたけも香りを放つ。