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北イタリア   (2010/5/1)

1820年から1920年の百年間に、420万人のイタリア人が米国に移民した。人口の2割が「経済難民」となって流出し続けた事態は、イタリア統一前後の民衆の困窮度を物語っている。新大陸に渡った人達は、大都市の最下層で「3K」の仕事に就いた。厳しい労働と差別に耐え、肩を寄せ合って暮らした区画が「イタリア人街」として残っているが、今も雑然として貧しげな一画であることが多い。

声高に叫ばれる「理念」ほど、現実からの乖離が大きいものだ。「自由・平等」の理念を堅持するために、米国は膨大なエネルギーを費し、遂にアフリカ系大統領を生んだが、それでも人種差別の根は深い。有色人種に対してだけでなく、白人間にも差別感は執拗に存在する。「実力主義」の米国ゆえ、個人の努力と運が出世に影響することは確かだが、大半の庶民はルーツの違いによるハンデキャップの網に絡まってしまう。建国初期に移民したWASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)の子孫と、19世紀に移民したドイツ、イタリアやアイルランド移民の子孫、更にそれ以降に移民したギリシャ系や東ヨーロッパ系の白人達との間に生じた社会的階層は、大っぴらに語られることはないにせよ、互いの意識から容易に抜けない。

筆者が米国で市場開発の仕事に携わった1970年代、客先(電話会社)上層部のWASPは日本製品の採用に消極的だった。中堅の実務レベルにイタリア系やドイツ系の技術者がいて、彼等の好意に助けられたケースをいくつも思い出す。当時は「三国同盟」などと悪い冗談で済ませたが、今になって思うに、組織内で不遇をかこつ彼等の鬱屈と言葉にならない叫びがエネルギーになり、上層部のWASPを理詰めで圧倒して、我々に商売の道を開いてくれたように思う。理詰めで「正論」が通るのも、米国らしいところではあるが。


ミラノ

歴史にもみくちゃになった点では、ミラノも人後に落ちない。4世紀に西ローマ帝国の首都になったミラノは、5世紀にフン族、6世紀にゴート族の侵略を受けた。中世にミラノ大主教の下で繁栄を取り戻したが、12世紀に神聖ローマ帝国に破壊され、スフォルツァ家とヴィスコンティ家の抗争の時代を経て、15世紀のルネッサンス時代に大いに繁栄した。ダヴィンチがミラノで活躍したのはこの頃である。16世紀になるとフランス、スペインの統治下となり、18世紀はオーストリアのハプスブルグ家に帰属。1796年にナポレオンが侵入してチザルビナ共和国を作ったが、1815年にオーストリアの手に戻された。1859年にフランスの支援でオーストリアから解放され、1861年にイタリア王国に編入された。

ミラノは第二次大戦で連合軍の激しい爆撃に曝されたが、大戦後の復興は早く、欧州屈指の工業都市に化けることができた。だが、近代的な工場やオフィスビルが建てられたのは周辺部に限られ、都心部は頑ななまでに戦災前の姿に「復旧」された。この辺りがいかにもヨーロッパ的で、同じ敗戦国の日本が古いものをかなぐり捨てて「近代化」に突進したやり方とは、基本的にアプローチが違うらしい。

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ナポレオンに捧げた「平和の門」。失脚後は処置に困ったことだろう。
14世紀に作られたスフォルツェスコ城。現在は美術館に。
城の堀に置かれた石の砲丸
ドウオーモ(大聖堂)はローマのカトリック総本山、サンピエトロ大聖堂に次ぐ規模。14世紀末に着工し19世紀に完成。
ダヴィンチの「最後の晩餐」があるサンタ・マリア・デッレ・グラッツイエ教会

市の中心部は第二次大戦の戦災前の姿に戻された。古典的な路面電車も現役で走っている。
ドウオーモ前の広場
ショッピングモールの元祖、ガッレリア。19世紀末に作られた。
ガッレリア出口のスカラ広場に立つダヴィンチ像。
オペラの殿堂、スカラ座の壁面。


ベネツィア(ベニス)

ベネツィアの都市としてのユニークさは、二つの点にとどめを刺すと思う。その第一は土木的な構造。ベネツィアは大小177の島と150本の運河から成るが、中洲に建物を建てて運河を掘ったのではなく、海中に松の丸太をびっしり打ち込み、その頂部を土台にして石造りの建物を建て、建物と建物の隙間が運河として残った。「ベネツィアをひっくり返すと森が出来る」と言われる所以である(松材は海中で腐らないと言う)。都市建設のコストはべらぼうに高かった筈だが、海運・海軍国のベネツィアには最適の構造だったのだろう。ちなみにベネツィアには道路がないので、手押し荷車・乳母車・車椅子以外の車両はない(自転車も禁止)。

ユニークさの第二は、ベネツィアの歴史を貫く共和制の伝統。5世紀にゲルマンの侵攻で湿地帯に避難した人達が作った自治政府に始まり、1797年にナポレオンによって崩壊させられるまでの1300年間、一貫して共和制の下で国家が運営された。この間、ベネツィアは貿易大国・海軍大国として強い存在感を保ち、ルネッサンスの中心にもなった。これだけ富と武力が集中すれば、権力争奪の争いが起きて絶対的権力者が現れる筈だが、国家存亡の危機に瀕しても共和制は崩れることなく、市民が協調して試練にあたり、結果的にベネツィアは国家として長もちした。古代ローマ帝国は国のリーダーのサンプルを何例も残したが、ベネツィアの共和制の歴史にも、現代の政治を考える上で参考になる示唆があるかもしれない。

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大運河の海洋側の出口。デッラ・サルーテ教会とサンマルコ広場の鐘楼が見える。
サン・マルコ寺院。9世紀に建てられ、11世紀、18世紀に改築され、東洋的な雰囲気が加わった。内部のモザイクが見事だが、写真はない。
ドウカーレ宮殿前の広場。朝の国旗掲揚が行われている。
宮殿の中庭と小礼拝堂。

ドウカーレ宮殿の黄金階段。天井の装飾に圧倒される。
宮殿で有罪判決を受けた罪人は「溜息橋」を渡って左の牢獄に収監された。
大運河に沿って大商人の店舗兼邸宅が並ぶ。
大運河に架かるリアルト橋。橋上や周辺は賑やかな商店街。
リアルト橋の上から見た大運河
ゴンドラは今は観光専用に。

小さな運河と橋に情緒が漂う。中心地サンマルコ寺院の近くの商店街で。
中心街から外れた地域の小運河。モーターボートが自家用車の代わりをする。
ベネツイア名産のガラス器を作る職人。
ベネツイア駅。本土と結ぶ橋は道路よりも鉄道橋が先に作られた。


ラヴェンナ

イタリアがスゴイと思うのは、ある時代に歴史の中心だった都市があちこちにあることだ。ラヴェンナもその一つで、紀元402年に西ローマ帝国の首都がミラノからラヴェンナに遷され、476年に西ローマ帝国が滅亡して東ゴート王国に奪われてその首都になり、535年に侵攻した東ローマ帝国がイタリア総督府をラヴェンナに置いた。ラヴェンナには初期キリスト教にかかわる史跡が多い。国家がキリスト教を公認して間もない時代に、これだけ壮麗で完成度の高い宗教芸術が作られたことに驚く。

ラヴェンナが世界に輝くよりも前の時代の話だが、紀元前49年、シーザー(カエサル)が禁を破ってローマへの進軍を開始したルビコン川が、ラヴェンナの北を流れている。現在のルビコン川は「3級河川」程度で、感慨が湧く前に渡り終えてしまうが。

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東ローマ時代の548年に完成したサン・ヴィターレ教会。八角堂で、内部には初期ビザンチン時代の金色のモザイクが輝く。
ガッラ・プラキデイア王女霊廟。内部の暗黒に目が慣れると見事なモザイクが見える。
6世紀初めに建てられたサンタポッリナーレ・ヌオーヴォ聖堂。聖書の場面や聖女・殉教者がモザイクで描かれている。


フィレンッエ(フローレンス)

「フィレンツエ」の謂れは、紀元前59年にカエサルがこの地に軍団の駐屯地を置き、「フロレンッィア」(花の女神フローラの町)と名付けたことに始まる。いわば「花の都」である。それから1500年後のルネッサンスで、この都は大輪の花を咲かせた。肥料になったのは、この地に栄えた毛織物業を中心とする製造業と、そのオカネを転がした金融業の富で、最大のメディチ家が統治者となって芸術家や学者を集め、文芸復興の台風の目になった。

だが、メデイチ家への権力集中が強まるにつれ、フィレンッエの繁栄は混乱へと転じ、内紛が激化して周辺国に侵略されるというお定まりのコースをたどる。幸い、メデイチ家が蒐集した膨大な美術品はウフィツィ美術館に寄贈されて散逸を免れた。小生は美術にも疎いが、教科書で見た記憶のある絵画や彫刻のホンモノが目の前にあると、やはり興奮する。

第二次大戦でフィレンッエも連合軍の爆撃を受けたが、中心街の歴史的建造物は無傷で残り、アルノ川に架かる橋梁も、歴史的価値の高いヴェッキオ橋だけが無事だった。日本でも京都と奈良が空襲を免れたが、連合軍がこれらを意識的に標的から外したことは間違いない。

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ウフィッツイ美術館の廊下の窓からヴェッキオ橋を見下ろす
サンタ・クローチェ聖堂。後述のフランシスコが開祖と言われる。ミケランジェロ、ガリレオ、マキャヴェッリ、ロッシーニ等の著名人の墓がある。
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(ドウオーモ)。ドーム(クーポラ)は、仮枠無しで作られた石積みのものでは世界最大。聖堂の内部はゴシック様式で簡素。

大聖堂のクーポラに登る長蛇の列を避け、隣の鐘楼に登った。高さはクーポラと同じ。
鐘楼の最上部からフイレンツエの市街を見下ろす。
夕方のヴェッキオ橋を反対側から見る。
ミケランジェロ広場からアルノ川越しに夕暮れのフィレンツエを遠望。
暮れなずむサン・ミニアート・アル・モンテ教会。12世紀に建てられた。


トスカーナ アグリツーリズモ(農家民宿)に泊まる

「アグリツーリズモ」は「農業」+「観光」の合成語。イタリア政府が農村振興策として推進した事業で、その成功を見て欧州各地に拡がったと聞く。都市生活者がのんびりと休暇を過ごし、農業体験や田舎料理を楽しむ「農家民宿」である。貧乏くさく聞こえるが、施設・サービスや料金は規制でがんじがらめにせず、オーナーの才覚に任せているようだ。ピンからキリまであるのだろうが、我々がお世話になったレジオッロ村の農家民宿は☆☆☆級で、ハイシーズンの4月~10月は英国人が買い占めるという。(レジオッロ村はトスカーナの中心部に位置し、フィレンツエやその他の史跡観光の拠点にも便利。)

我々は2004年3月と2009年11月の2度お世話になった。初回は女将手作りのトスカーナ伝統料理と自家製ワインを出す素朴な宿だったが、5年後に訪れた時は、ダイニングを増築して良い雰囲気に飾り、修業をつんだシェフを雇って第一級のイタリア料理を供し、ワインの味も一段と上がっていた。オリーブ収穫の季節で、我々15名の中高年グループの収穫体験は、幼稚園の遠足のような騒ぎになった。

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レジオッロの民宿からトスカーナの丘陵を望む。
手前の建物は民宿の母屋。
女将は何くれとなく気配りをしてくれる。
ご亭主がサロンで栗を焼いてくれた。
2004年当時の食堂。09年には拡張して更に立派になっていた。
クラシックな母屋二階の客室。別館はモーテル調だが設備は快適。

レジオッロ村の教会
村の辻のマリア像。日本のお地蔵さんみたいなものか。
我々グループのオリーブ収穫体験(顔にボカシを入れました)。
こちらはプロのオリーブ収穫。のんびりと楽しみながらやっている感じだが、農業従事者の高齢化は日本と同じ。


アッシジ

聖人フランチェスコは1181年にアッシジの裕福な商家に生まれた。青年時代は放蕩息子で、ダテを張って騎士になったが、戦いに敗れて捕虜にされ、病に侵されて苦しむ中で、神の声を聞いて心機一転し、出家して伝道の道に入った。教皇庁の腐敗に対する批判が高まった時代で、それだけ新興教団に対する締め付けも厳しかったが、フランチェスコ派は修道会として教皇に承認された。ジョットの「小鳥に語りかけるフランチェスコ」の絵を見ると「良寛様」を連想するが、この聖人は世捨て人ではなかったらしい。晩年のフランチェスコの手足と脇腹に、イエスが十字架上で受けたと同じ槍傷が現れたというが、これは聖人を飾る伝説だろう。(ちなみに、米国西海岸のサンフランシスコは、フランチェスコ会の伝道所に因んだ地名)

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スパジオ山の山頂にフランチェスコ聖堂がある。
聖堂は1253年完成。1997年地震で損傷し、訪れた2004年にはほぼ修復していたが、フランチェスコの生涯を描く絵は一部しか見られなかった。
3月、山上に雪が残る。
ローマ時代は城塞。14世紀のペルージャとの戦争で防壁を強化。
買い物帰りの修道士。


シエナ

アッシジからの帰り道、バスが予定外の寄り道をしてくれた。車中爆睡を起こされ、寝ぼけまなこで石畳の急坂を登ったが、お目当ての大聖堂(ドウオーモ)は日没で閉まっていた。どこか知らぬまま撮った写真の中に暮れなずむ広場の情景があり、その町がシエナだったと後で知った。

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ドウオーモ前の像
ドウオーモに登る坂道の両脇に珍しい建物が並ぶ。
夕暮れのカンポ広場。ローマ時代は練兵場だったという。


コルトーナ

2009年秋の旅で訪れたコルトーナも、トスカーナに残る丘上都市の一つ。メインの観光ルートから外れているが、観光地のガサガサした感じがなく、住人の生活感が漂うのが良い。有史以前の先住民の時代から近世までをカバーする中味の濃い博物館があり、ほどよい規模の土産物屋や気の利いた食事を出すレストランもある。

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丘上のバス駐車場から見下ろす。
町の広場
広場の老人たち
高校生の一団。
教会の内部。


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