これまで仕事でも遊びでも縁の無かったドイツに、思いがけず親戚づきあいの旅をすることになった。ドイツの有名観光地巡りは別の機会に残したので、このレポートには名所旧跡があまり出てこない。

日本人は何故かドイツに親近感を覚える。明治以来の国造りでドイツをお手本にしたことや、第二次大戦時の同盟関係を意識する人は相当の年配者だろうが、ドイツ人が勤勉実直で秩序を重んじる民族で、日本人と似ていると教えられたことは、小生の少年時代の記憶にある。今回の旅で出会ったドイツの人達の気質は、半世紀前に教えられたとおりだったが、日本人の方は、最近は「勤勉実直で秩序を重んじる民族」かどうか、疑問に思う事が多い。

経済面でも、日本が「失われた20年」を過ごす間に、ドイツは破産状態の東ドイツ併合という大事業を乗り切り、今は加盟国の財政危機で苦境に立つEUの立て直しを牽引している。その為に犠牲にしたことは多いだろうし、不満を抱く国民も少なくないだろうが、我が身にも手の回らない日本と比べ、ドイツが立派に思えるのは、小生の「自虐的国民性」のせいだろうか。

ドイツと日本は国の成り立ちも歴史も異なり、共通の国民性を持つ素地は乏しい筈だが、近代化に立ち遅れた19世紀末、大急ぎで富国強兵に走った点は共通している。日本の為政者がドイツに共鳴したのはこの点だろうし、「勤勉実直で秩序を重んじる」国民性も、挙国一致で富国強兵に走る中で形成された部分が多いと考えて良いだろう。その流れの中で軍部が暴走し、国際社会の中で孤立して敗戦に至った経緯も、両国に共通している。

歴史オンチの小生には重すぎるテーマだが、今日のドイツと日本の違いを考える場合、敗戦後の「反省の深さ」に思いが及ばざるをえない。東西に分断されたドイツは、徹底的に戦争責任を追及され、莫大な賠償金を課せられた。ユダヤ人虐殺への責めは今も重くのしかかる。日本も敗戦で辛い目に遭ったが、戦勝国だった米国にしがみついて素早く復興を遂げ、一本調子で世界2位の経済大国にのし上がった。ドイツが旧ソ連相手で舐めた辛酸に比べれば、日本は「ラッキー!」の連続だったと言えるだろう。痛恨の思いと高い代償から得た国民的知恵と、中途半端な反省と「ラッキー!」の連続で身に付いた「うわっ調子の常勝気分」とでは、その後の展開に差が出ても仕方ないかもしれない。


今回の旅程: デユッセルドルフ ⇔ ケルン → ローテンブルグ→ (ドロミテ → インスブルック)
→ ミュンヘン → フランクフルト (北伊のドロミテとオーストリアのインスブルックは別レポート

デユッセルドルフ

デユッセルドルフはドイツを代表するビジネス都市で、日本企業が集中する「日本人通り」まであると聞き、モダンなオフィスビルが林立する大都会と思い込んでいた。その想像は大外れで、都心部に超高層ビルなど一棟もなく、いかにもヨーロッパ風のしっとりと落ち着いた市街を、路面電車が優雅に走っていた。

デユッセルドルフの人口の58万は八王子市並みだが、それでもドイツでは8番目に大きい。100万を超える都市はベルリン(340万)、ハンブルグ(180万)とミュンヘン(130万)だけで、大都市集中は日本ほど酷くなく、その分、地方の疲弊度も低い筈だ。ドイツの町を歩いて気付いたのは、小さな個人商店でも貧乏くささが無く、小ぎれいに商売していること。こんなところにも、弱肉強食の値下げ競争以外に生き残る道を見失った日本との違いを感じる。

ライン川はデユッセルドルフの西を流れる。大河の風格だが、流れは意外に速い。
河畔に並ぶ旧市街の建物は戦後に再建されたものだが、19世紀の香りを再現している。
市の南端にテレビ塔と新奇なデザインのビルが建つ一画。
4千トン級のハシケが頻繁に往来する。
ライン川でラフテイング遊び。
中心街のケーニヒスアレー通り。中央に水路が掘られている。
ホーフガルテン(公園)の噴水。
旧市街の蔦のからんだ風格ある建物は現市庁舎。
旧市街のレストラン街。(朝で営業中は少ない)
旧市街の空に突き出たランベルトゥス教会の尖塔。
同教会の内部。この地域はカトリック信者が多いという。

デユッセルドルフの朝

平素は散歩の習慣がないが、旅に出て時差ボケで目が覚めると、早朝の町に出る。早朝に活動するのは善良な市民なので、犯罪に遭うリスクは低いし、市場や駅を覗いたり、裏通りを歩いたりすると、その町の人々の暮らしが見えたような気分になる。

デユッセルドルフの朝の散歩は爽やかそのもの。朝日を浴びて走る市電を眺め、犬を連れて散歩する人や思い思いのペースで走るジョガーと目釈を交わし、市場の出店を覗き、町角のレストランで朝食をとる。ハム・ソーセージ・チーズ・ポテトが美味いのは当然として、パンもほど良い弾力と香りが上出来で、バターとジャムをベッタリ塗って、メタボを忘れてハラいっぱい食べる。英語メニューの無い店もあるが、ウェイトレスが親切に説明してくれる。こんな町には、ずっと住み続けても良いと思う。

朝の一番電車。路面電車は都心部を抜けると専用軌道を走る。
朝のジョギング。
市場にマツタケも並んでいた。
じゃがいも専門店があるのもドイツらしい。
買い物は愛犬と一緒に。
町角のしゃれた広告塔。


ケルン

「ケルン」はラテン語源で「入植地」を意味する。古代ローマの時代、ライン川の東に跋扈する「蛮族」の侵入を阻止する軍団の駐屯地に、退役兵士を永住させたのが地名の由来というから、2千年の歴史を持つことになる。古代ローマが要衝の地として選んだだけに、今もドイツ屈指の商工業都市として繁栄を続け、99万の人口はミュンヘンに次いで第4位。

ケルンと言えば大聖堂。13世紀に着工して500年後の1880年に完成し、ゴシック様式の建造物としては世界最大という。ケルンの市街は第二次大戦時の爆撃でほぼ全壊したが、大聖堂は倒壊を免れた(連合軍が標的から外したのだろう)。高さ157mの北塔は観光客に開放され、入場料を払って狭い螺旋階段を登ると、最上部の展望テラスに出る。尖塔の先端まで細かい彫刻で飾られていて、高度恐怖症には建築方法が想像できない。

超広角レンズでも1枚に納まらない。
大聖堂の正面入り口。
堂内では日曜日のミサ。
北塔の展望テラスから。目の前に先端部の装飾がある。
日曜の午後、歩行者天国にビールの屋台が出る。
もっと美味い物もあるが、これを食わないとドイツに来た感じがしない。

ローテンブルグ

デユッセルドルフからドロミテに行く途中泊と軽く考えていたが、行って驚いた。どこを撮っても絵になる中世の町なのだ。改めてガイドブックを見ると「古城街道」の目玉で、日本人の観光客と出会ったのもうなづける。

ローテンブルグは、13世紀(平安時代)に自由都市として繁栄した当時の姿を今に遺している。第二次大戦の爆撃で半分が破壊されたが、19世紀に描かれた絵画を元に厳密に復元されたという。今も市民生活が営まれているので、観光客相手のレストランや土産物屋と並んで、食品や日用雑貨の店があるのも面白い。夕方着・翌朝発だったので、博物館などは見られなかったが、狭い城内の主だったポイントを歩いて中世の雰囲気を味わい、個性的な店を覗いて楽しんだ。

東端のブルク門から中心部を展望。中央に聖ヤコブ教会の塔。
マルクト広場の市庁舎
市庁舎の反対側は有力者の家。(今はホテルと土産物屋)
正面の建物は議員専用の会議・宴会場。仕掛け時計もある。
緑の壁が泊まったホテル。間口が狭く奥行が深いのは、京都の町屋と同じ。
ホテル内部は日本の老舗の旅籠を思わせる。
ジーバース塔の周辺は最も「絵になる」一画。
城壁の内側を兵士が移動したキャトウォーク。
修復に寄付した人や団体の銘板。この寄付者は今は自分が欲しい側?
路傍の井戸(今は使われていないようだ)。
現役の肉屋のショーウインドウ。
クリスマス飾りの専門店も多い。

ミュンヘン

日本では9月中旬まで真夏日が続いたが、ミュンヘンは冷たい雨で気温8度。仕方なく防寒ジャケットを買った。ビールのCMに「ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキー」というのがあった。ビールの本場は北緯45度と言うから、元来寒冷地の飲み物だったらしい。ミュンヘン料理と地ビールの有名レストランを教えてもらっていたが、日本を出て10日が過ぎ、米のメシと醤油味への郷愁に負けた。本場のビールと中華料理の組合せも、悪くなかった。

ビールと言えば、ナチス台頭の契機となった「ミュンヘン一揆」(1923年11月)は、ヒトラー率いる一団が、ビアホールの「ビュルガーブロイケラー」に乱入した事件が発端という。ビアホールと言っても、1830名収容の大ホールで、ヒトラーは総統になってから、しばしばこのビアホールを演説会場に使った。(聴衆がビールを飲みながら聞いたのかどうか、興味が湧く。)

1939年、エルザーという労働者がヒトラー暗殺を企て、演説会場のビアホールに爆弾を仕掛けた。ヒトラーは予定より早く演説を終え退場して難を逃れ、未遂のエルザーは捕えられて処刑された。ビアホールでの演説会はそれ以降開かれることなく、戦後は占領軍の食堂として使われ、1979年に解体された。跡地の銘板に記された人物は、ヒトラーではなくエルザーの方である。

ミュンヘン中央駅は行止り構造。長距離列車はここで前後が逆になる。
駅構内のオープンカフェ。
カールス広場の大噴水。傍を通るだけでびしょ濡れになる。
旧市街入口のカールス門。
旧市街はブランドショップが並ぶショッピング街。
ミヒャエル教会の内部と思うが、自信なし。
バイエルン州立歌劇場。この左にある旧領主の館と宝物館は一見の価値あり。
19世紀末に建てられた市庁舎。塔中央の仕掛け時計が名物。
仕掛け時計は2段構え。上は戦争のシーンで、槍で突かれた騎士がのけぞる。
下は勝利を喜んでクルクルと舞い踊る市民たち。
屋台店に季節のキノコが山盛り。マツタケの香りがした。
ミュンヘンで是非食べろと言われたケーキ。甘さが程良くて美味い。


フランクフルト

日本から直行便が飛ぶフランクフルトこそ大都市だろうと思っていたが、ここも人口は66万。都心に高層ビルが数棟あるものの、人々の動きは穏やかで、一極集中の喧騒を見慣れた目には、GDP世界第4位のドイツの経済・金融・交通の中心とは思えない。ヨーロッパの成熟した落ち着きとは、こういうものなのだろう。

昔から商業・金融の中心だったフランクフルトには、12世紀からユダヤ人街(ゲットー)があった。為政者にとってユダヤ人社会は重要な徴税基盤だったが、市民のユダヤ人に対する反感は根強く、キリスト教徒の襲撃や、ペスト蔓延の元凶とのデマで放火・虐殺が繰り返された。1871年のドイツ帝国成立時に、ユダヤ人はドイツ国民の地位を得て、ゲットーでの強制居住から解除されたが、その半世紀後、為政者によって皆殺しの目に遭う。

ゲットー博物館に隣接してユダヤ人墓地があった。外壁に埋め込まれた無数の墓碑銘のあちこちに、「アウシュビッツ」の地名があった。帰国後に調べたら、この壁は1996年にフランクフルト市が「警告の記念碑」として建てたもので、ゲットーから掘り出した石に、強制収容所で犠牲となったフランクフルトのユダヤ人、11,135名の氏名、生年-没年・死亡地(収容所名)を刻んだ墓碑銘を埋め込んだ。除幕式での市長の挨拶:「墓地の壁に規則正しく配列された延々と続くユダヤ人犠牲者の刻印は、ナチスによる組織的・計画的・体系的なユダヤ人大量虐殺のシンボル的表現である」。

大聖堂の尖塔とモダンな高層ビルが奇妙に溶け合う。
マイン川対岸の「三王教会」は19世紀末に建てられたネオ・ゴシック建築物。
朝の川沿いの遊歩道。ゴミ収集とジョッガーと通勤の自転車。
フランクフルト発祥の地、レーマー・ベルク広場の市庁舎。
広場の中央に立つローマ女神像は市庁舎の不正を許さない。
市庁舎の反対側の商館は戦災後に再建されたもの。
古色蒼然たる市街を路面電車が行き交う。
ゲーテ・ハウスの内部。文豪が著作した書斎と机。
ゲットーの模型。立派な街並みにユダヤ人のパワーが見える。
ユダヤ人墓地に正装で祈る人がいた。
「警告の記念碑」の壁に埋め込まれた11,135の墓碑銘。
死亡地に「アウシュビッツ」と記された墓碑銘。

補追 ドイツ人の気質について

「交通事情」で「気質」を測るのはいささか乱暴だが、「いかにも」と思うのは先入観だろうか。ドイツの列車はほぼ定刻に発着するが、日本ほど神経質ではなさそうだ。(イタリア始発の国際特急は軒並み遅延)。近郊路線でも「機関車+客車」の列車編成が多いのは、電車化で「究極の効率」を追及するより、「有るものをやり繰って使う」伝統が優先なのだろうか。2等車の客は大人も子供も静かで行儀が良いが、ICE(都市間特急)の1等車では、キチンとした服装のビジネス客が大声でケータイをかけまくる。商売熱心はお互い様、辺りかまわぬ無遠慮電話も「皆で渡れば怖くない」からだろうか。

ドイツの高速道路(アウトバーン)は速度無制限だが、制限区間がけっこう多く、120km/hや100km/hの表示があると、全ての車がピタリと上限速度で走る。(日本の制限速度は「参考」扱いだが)。無制限区間を猛スピードで疾走するのはもっぱら高性能車で、安い車は「分相応」の速度で走るのが暗黙のルールらしい。

秩序を重んじるのは人間だけでなく、犬の行儀の良さにはホトホト感心する。列車で人混みに揉まれてもワンとも言わず、レストランでは椅子の下にうずくまって動かない。(盲導犬でなくても列車やレストランに連れて入れる。) 飼い犬に「犬の分」を厳しく躾けるのが飼い主の責任と聞くが、飼い主自身に「子供の分」をキチンと躾けられた経験がないと、愛犬の躾けはムリだろう。

デユッセルドルフ中央駅。人口60万の都市にしては発着列車数が多い。
近郊路線でも機関車+客車のプッシュプル型が多い。動力分散の電車に比べ、時間的効率は多少劣るが、車両の効率的運用にはメリットがありそうだ。
ミュンヘン始発のICEは定刻ピタリで発車した。
犬は自分の「分」をキチンと分かっているようだ。
「分」をわきまえつつも、犬らしい緊張感は失わない。